小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

育成ということ:

2015年11月25日 | 社会戯評

育成ということ:

Plan, Do, See, Check & Action というサイクルなどは、もう、40年も前の話であるが、カイゼンの原理も、これに加えて、フォーミュラー・システム化を加えて、マニュアルを作成することが、重要であると、海外での工場立ち上げ、運営時に、実行したことを想い起こすが、教師の育成も、これまでの反省を生かして、本当に、研修などで、或いは、OJTを通じて、人を育成することが、可能になるのであろうか?考えてみれば、マニュアルなどと云うものは、コンピューターのシステムではないが、常に、どんどん、改善して、アップデートを、無限に、繰り返して行かなければ、その効果は、結局、現れてこないことは、分かりきっている。換言すれば、如何にして、マニュアルを疑い、或いは、それを否定して、新たな発想と創意工夫を施して、打ち壊しながら、新たなマニュアルを、それこそ、これでもか、これでもかと、作り替えるエネルギーこそ、必要で、そういう指導者を輩出できる育成システムが、本来は、望まれるはずであろう。それは、教師に限った話ではない。確かに、団塊の世代が、大量に、定年退職し始めて、潜在労働可能人口も、減少して行く中で、如何にして、組織は、そのノウハウを次世代に、継承して行くのだろうか、単に、マニュアルだけで、継承しても、それは、まるで、ロボットのシステム開発と同じで、云われたことは出来るが、応用が利かない人間を輩出することになり、どこか、限界が見えてくるものである。終いには、人工知能搭載のロボットに、打ち負かされてしまうのではないだろうか?それを如何にして、打破できるかが、そうした人間力・能力が、問われているのかも知れない。とりわけ、人が、人を育てるとなると、これは、単なる研修や、マニュアルだけという訳にはゆかないであろう。この辺は、どうなるのであろうか?又、年寄りは、要らぬ心配をしてしまう。

 



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