小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ピエール瀧と薬物取り締まり:

2019年03月17日 | 社会戯評

映画、<ALWAYS3丁目の夕日 ‘64>を観るというブログを2012年02月03日に投稿した中で、<氷屋のおやじ役で出演していたピエール瀧>のことを、ちょこっと触れてみたが、その頃は、まだ彼が、音楽的な才能にも溢れるミュージシャンであることは、知らなかった。それにしても、その後の映画・テレビ界での活躍を考えると、今回のコカインの使用は、誠に残念の極みである。しかも、その出演した作品全てを、お蔵入りにしたり、出演シーンを削除したり、差し替えたりと、何とも、<作品と事件とを切り離す>ことなく、<ひとくくりに、全否定してしまう傾向>には、少々、ガッカリさせられてしまう。マスコミ、週刊誌も、こぞって、そういう方向性で、興味本位で、論じられ、扇動されている。覚醒剤や麻薬にしても、使用者は、<病気の患者>と称されても、必ずしも、<法律的な被告人や犯罪者>として、扱われるべきものでなく、寧ろ、<病人、乃至は、中毒患者>として、位置づけられてしかるべきであり、反社会的な勢力の一員たる<売人やカルテルの構成員>とは、別に、論じられるべきものではなかろうか?<法を犯したことは事実ではある>が、昔は、とりわけ、戦後の闇市・焼け跡の混乱時代には、ある種の不法薬物や吸引行為も、犯罪とは、見なされなかった時代もあったことは、事実であろう。たばこの科学的な病害が、今日、明らかにされつつある如く、時代の解釈により、その法的な取り扱いも、異なってくるような気がしてならない。

<如何に、患者を救済すべきか、立ち直らせるべきか、という観点>こそが、法律的な訴追とは別に、社会的には、必要で有り、そういう発想、患者を社会復帰させるという観点こそが確かになければ、ならないのである。さもなくば、いつまでたっても、下らぬ週刊誌的なネタ探しと、永遠に続く、負のスパイラル以外の何ものでないし、人間というのは、限りなく、そうした下らぬ詮索に終始し、決して、満足することはないであろう。

作品に、表された才能を、正当に評し、客観的に、万人による評価が、唯一、絶対的な評価とすべきで有り、犯罪者であるが故に、不当な評価を受ける権利は決してなかろう。又、決して、そういう評価を許容するような社会であってはならないし、決して、そういう社会的な風潮を許してはならない。社会復帰が可能になるような患者のケアーは、社会の中で、どうあるべきなのであろうか?コカイン患者という十字架を背負ったピエール瀧が、いつの日か、銀幕に、或いは、テレビに復帰できる日を待ちたいモノである。そして、そのとき、日本の社会の民度と成熟度は、どうなっているのか、楽しみである。果たして、そういう日は来るのであろうか?そして、それを迎えるに当たって、我々は、どういうことを行えば良いのでありましょうか?さもなくば、一緒になって、苦労して、作品を作り上げた共演者やスタッフの人たちは、報われることはないであろう。

 



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