小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

一発屋芸人列伝評後書きのPS:

2018年07月15日 | 社会戯評

一発屋芸人列伝評後書きのPS:

 

 

新聞を読んでいたら、なかなか、面白い記事があった。

一世を風靡した茶の間の英雄達も、テレビ画面から一旦は消えた負け組と嘲られがちであるが、一度は、瞬間的であれ、その頂点を極めたのであるから、その芸(?)といえるかどうかは、わからないが、必ずしも、単純に、負け組とかと、断定できないものであろう。

しぶとく、別のジャンルで、過去のブランドの栄光を利用して、隙間産業で、したたかに、生き延びているのも、事実であろう。流行語や、社会現象になるべくしてなるその芸(?)とは、一体何なのであろうか?頂点を一度は極めたのであるから、再び、<頂点を求めることなく、むしろ、敢えて、頂点を目指さない生き方>であるという。短時間で、謂わば、時間を凝縮したような、視覚的な、或いは、話芸ではなくて、パーフォーマンスで、笑わせるという、あたかも、生産性を最大限化させる方向性に、いつの間にか、視聴者のニーズ(?)が、変わってきてしまったのであろうか?商品が、大量生産されるにつれて、当然、流通量が増えれば、増えるほど、飽きられるスピードも、増してきて、ライフ・サイクルも、短くなってしまう訳である。そうすれば、当然、バージョン・アップや、付加価値をつけてゆかなければ、永続性は、維持されなくなり、失速してしまうことは、必然である。

 天国も地獄も、両方とも、観た一発芸人達にとって、長い人生は、まだ終了したわけではなくて、人生には、仮に、その成功度合いを高度としてみた時に、そんな高低差が、あるのも事実なのであろう、そして、そのどん底から、再び、死んだふりをしながら、したたかに、負けたふりをしながら、低空飛行でも、再びの頂点を望むことなく、人生を生き抜くことは、何か、もう、人生哲学のその向こう側に、あるような時空を超えたものを目指しているかのようである。それにしても、働き方改革ではないが、ライフ・バランスとか、オン・オフの切り替えとか、議論されているが、いつの間にか、お笑いの業界では、圧倒的な生産性の局限化の結果としての一発屋という芸(?)を、不可避的に、生み出してきたのだろうか?お笑いには、記憶に残る生き方があっても良いのかもしれないが、その人間の人生には、人々の記憶に残る芸人の人生というものは、許されるのであろうか?

 



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