四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その8:早起きと朝食を食べるという習慣:
現役の時には、何が何でも、朝、決まった時間に起床して、身支度を調えて、出勤しなければならなかったが、引退してしまえば、前日、多少飲み過ぎても、何も、決まった時間に起きる必要は無い。もっとも、どういう訳か、ゴルフをしていた頃には、必ず、目覚まし時計を掛けていても、自分で、どんなに、前日遅くに就寝しても、眼がぱっちりと開くモノであることは全く、不思議である。それに較べて、毎朝、午前5時に起床して、6時半頃には出発するという生活を繰り返していると、こういう生活のリズム感が身体の中に宿ってくるモノであろうか?自然に、バイオリズムがそうなってくるのであろう。恐らく、鬱病などと云うものも、ある種のタンパク質が脳内細胞に溜まり始めるのが原因であるとも云われるが、ある種のバイオリズムがどこかで、変調をきたした結果、精神的な障害が生じるのであろう。この短い自転車遍路巡礼のなかで、何か、「汗をかく」と云うこと、それは、どうやら、身体が汗をかくだけでなくて、実は、頭も、脳内の血流も一生懸命、筋肉も体内の全細胞も、緊急事態であると思ってだろうか、実は、運動をして、汗をかいているのかも知れないと、こんな風に、勝手に考え始めました。多分、朝、早くから起床することも、又、声を上げて、お経をあげることも、きちんと、朝食を摂取することも、どうやら、生活習慣のルーティンの一環であって、或いは、農作業でも、肉体労働でも、何であれ、労働するということも、とりわけ、汗をかくこと、陽に当たること、雨に打たれることも、ずぶ濡れに濡れることも、大いなる自然・宇宙と一体となる契機や橋渡しなのかも知れないと感じ始める。実は、人間の肉体は、その精神との間で、そうした関係性の中で、微妙に保たれているのではないかと思わざるを得ない。食事を摂取すると云うことも、いつもカロリー計算をしてしまうが、今回は、毎日、腹が減っていて、朝と晩の一日2回の食事は、それどころではない。提供された食事は、嫌いなものも難なく、口にして、お腹の中で、その日のエネルギーの回復と明日へのエネルギーの蓄積に廻され、決して、累々と蓄積されて行くモノではない。毎日が、プラス・マイナスが、零ベースで、均衡していて、バランスよく、機能しているのであろう。これが、自然に、毎日、行われていれば、しかも、これが、毎年、毎年、長年、行われていれば、決して、糖尿病予備軍と正規軍の間を行ったり来たりする必要は無いのであろう。身体を動かすと云うことは、そういう意味からも、バランスが、よくなるのであろう、そしtれ、何よりも、自然と、或いは、広い意味での空海の目指した宇宙との一体化を所作振る舞い、読経、印を結ぶことで、或いは、真言を唱えることで、目指すことになるのかも知れない。そういうことの一端を、ほんの少しだけ、実感出来るものなのかも知れない。比叡山での「千日回峰行」などというモノは、更に、食事も水も運動量も、ましてや、場所もとんでもない急峻な山岳地帯で行うわけだから、凡人の遍路とは較べものにならないのであろうが、それでも、そういうことのほんの万分の一でも実感出来ることは、ありがたい貴重な体験である。一日山道を夜間に、60Kmも歩けるのだろうか?もはや、これは、歩くのではない、翔ぶが如く、まるで、山猿の如きであろうか?それも、千日もの長い期間に毎日、天気も体調も関係なし、季節も、しかも、睡眠時間3時間も限られていたら、肉体的な疲労はどのように回復させるのであろうか?精神に異常はきたさないのであろうか?最期の9日間に亘る断食、断水・不眠・不臥の荒行はどうなるのであろうか?それだけでも、こちらは、宿坊や民宿・ホテルで、戴きますと、ご馳走様と唱えるだけでも、(うっかりすると、腹が減っていて、そんな約束事すら忘れてしまいそうであるが、、、、、)ひょっとして、万分かの価値が、そこにはあるのかも知れない。いつでも、そうしたことが出来ることであると確信することと、実際に、毎日、毎日、実行することは、これは又、別の次元なのであろうが、それでも、凡人は、それに気が付くだけでも、宜しいではないだろうかと勝手にそう考える次第である。さて、帰宅してから、きちんと、戴きますとご馳走様が云えるであろうか?そろそろ、身体が、とりわけ、太腿の筋肉や脚が悲鳴をあげ始めていることに気が付く。
現役の時には、何が何でも、朝、決まった時間に起床して、身支度を調えて、出勤しなければならなかったが、引退してしまえば、前日、多少飲み過ぎても、何も、決まった時間に起きる必要は無い。もっとも、どういう訳か、ゴルフをしていた頃には、必ず、目覚まし時計を掛けていても、自分で、どんなに、前日遅くに就寝しても、眼がぱっちりと開くモノであることは全く、不思議である。それに較べて、毎朝、午前5時に起床して、6時半頃には出発するという生活を繰り返していると、こういう生活のリズム感が身体の中に宿ってくるモノであろうか?自然に、バイオリズムがそうなってくるのであろう。恐らく、鬱病などと云うものも、ある種のタンパク質が脳内細胞に溜まり始めるのが原因であるとも云われるが、ある種のバイオリズムがどこかで、変調をきたした結果、精神的な障害が生じるのであろう。この短い自転車遍路巡礼のなかで、何か、「汗をかく」と云うこと、それは、どうやら、身体が汗をかくだけでなくて、実は、頭も、脳内の血流も一生懸命、筋肉も体内の全細胞も、緊急事態であると思ってだろうか、実は、運動をして、汗をかいているのかも知れないと、こんな風に、勝手に考え始めました。多分、朝、早くから起床することも、又、声を上げて、お経をあげることも、きちんと、朝食を摂取することも、どうやら、生活習慣のルーティンの一環であって、或いは、農作業でも、肉体労働でも、何であれ、労働するということも、とりわけ、汗をかくこと、陽に当たること、雨に打たれることも、ずぶ濡れに濡れることも、大いなる自然・宇宙と一体となる契機や橋渡しなのかも知れないと感じ始める。実は、人間の肉体は、その精神との間で、そうした関係性の中で、微妙に保たれているのではないかと思わざるを得ない。食事を摂取すると云うことも、いつもカロリー計算をしてしまうが、今回は、毎日、腹が減っていて、朝と晩の一日2回の食事は、それどころではない。提供された食事は、嫌いなものも難なく、口にして、お腹の中で、その日のエネルギーの回復と明日へのエネルギーの蓄積に廻され、決して、累々と蓄積されて行くモノではない。毎日が、プラス・マイナスが、零ベースで、均衡していて、バランスよく、機能しているのであろう。これが、自然に、毎日、行われていれば、しかも、これが、毎年、毎年、長年、行われていれば、決して、糖尿病予備軍と正規軍の間を行ったり来たりする必要は無いのであろう。身体を動かすと云うことは、そういう意味からも、バランスが、よくなるのであろう、そしtれ、何よりも、自然と、或いは、広い意味での空海の目指した宇宙との一体化を所作振る舞い、読経、印を結ぶことで、或いは、真言を唱えることで、目指すことになるのかも知れない。そういうことの一端を、ほんの少しだけ、実感出来るものなのかも知れない。比叡山での「千日回峰行」などというモノは、更に、食事も水も運動量も、ましてや、場所もとんでもない急峻な山岳地帯で行うわけだから、凡人の遍路とは較べものにならないのであろうが、それでも、そういうことのほんの万分の一でも実感出来ることは、ありがたい貴重な体験である。一日山道を夜間に、60Kmも歩けるのだろうか?もはや、これは、歩くのではない、翔ぶが如く、まるで、山猿の如きであろうか?それも、千日もの長い期間に毎日、天気も体調も関係なし、季節も、しかも、睡眠時間3時間も限られていたら、肉体的な疲労はどのように回復させるのであろうか?精神に異常はきたさないのであろうか?最期の9日間に亘る断食、断水・不眠・不臥の荒行はどうなるのであろうか?それだけでも、こちらは、宿坊や民宿・ホテルで、戴きますと、ご馳走様と唱えるだけでも、(うっかりすると、腹が減っていて、そんな約束事すら忘れてしまいそうであるが、、、、、)ひょっとして、万分かの価値が、そこにはあるのかも知れない。いつでも、そうしたことが出来ることであると確信することと、実際に、毎日、毎日、実行することは、これは又、別の次元なのであろうが、それでも、凡人は、それに気が付くだけでも、宜しいではないだろうかと勝手にそう考える次第である。さて、帰宅してから、きちんと、戴きますとご馳走様が云えるであろうか?そろそろ、身体が、とりわけ、太腿の筋肉や脚が悲鳴をあげ始めていることに気が付く。