映画、<人間失格 太宰治と3人の女>を観る:
演出家の蜷川幸雄を父に持つ、蜷川実花監督による映画で、独特な映像手法と色彩感覚に溢れた中で、この重い主題をどのように表現しているのかということで、観ることにした。主演の太宰治に、小栗旬、妻の津島美知子役 宮沢えり、大田静子役 沢尻エリカ、山崎富栄役 二階堂ふみ、脇役陣を 坂口安吾役 藤原竜也、三島由起夫役 高良健吾、編集者役 成田凌、等が、固めて、お友達キャスティングに近い若い俳優陣達で、製作されている。
確かに、映像美としての数々のシーンは、初めの真っ赤な彼岸花が咲き誇る中で、子供達と歩く姿から、最初の入水自殺に失敗した、海岸での生還するシーンへと、等など、色彩感覚の表現は、確かに、写真家出身の才能が映像表現にでも各シーン、各シーンに、十二分に生かされているように思われる。
自明の史実に即しながら、重いテーマである、<堕ちるというコトとは、>或いは、<家族というものとは、>更には、志賀直哉、川端康成、井伏鱒二、等は、人物としては映画にでていないが、太宰の台詞として、表現されているものの、残念ながら、主題が、<太宰治と3人の女>ということである以上、三島由紀夫(高良健吾)や坂口安吾(藤原竜也)との議論は、なかなか、文学史的には、興味深いモノであって、残念ながら、史実通りかどうかは分からぬが、もう少し、深掘りを期待する観客には、一寸、物足りないものがあろうか?
どうも、小栗旬には、濡れ場が不得意そうに見えて仕方がない。これでは、沢尻エリカ様から、或いは、女性監督である蜷川実花監督からも、多少のクレームはつかなかったのであろうか?もう少し、ぐいぐいといっても良いのでなかろうかと、勝手に、観る側は、そんな風に受け止めてしまう。個人的に言えば、妻の役の宮沢りえの静の演技と、最期に入水自殺する山崎富栄役の二階堂ふみの情念の演技には、光るものがあり、評価されてしかるべきであろう。
太宰役の小栗旬が発する、<人間は恋と革命のために生まれてきた>他、これらの台詞の言葉も、どうも、流れの中で、重く受け止められないのは、どうしたモノであろうか?本という中で、同じ言葉を読者が、受け止めるインパクトと、映画の中で、俳優が発する台詞を介して、受け止めるものには、<どこか、違い>が生じるモノなのであろうか?
後年、大田静子の日記にもとづいた、その娘である大田治子による、<斜陽日記>の刊行をみても、この当時の小説を書くと言うことに対する苦悩と実生活で身重の妻と愛人の出産という同時進行は、いかばかりのモノがあったのであろうか?
<人間は堕ちる、生きているから堕ちる>、<壊れてないと書けないんです、小説なんて>
<愛されない妻よりずっと恋される愛人でいたい>、<私赤ちゃんが欲しい>、
<人間は恋と革命のために生まれてきた>、<死ぬ気で恋、する?><おまえを、誰より、愛していました>
<本当の傑作を書きなさい>、<あなたは、もっと凄いものが書ける>、<壊しなさい、私たちを>
<死にたいんです一緒に>、<行き詰まったら、みんな死ねばいいんです>、<私と彼にしかできないことがある>、<戦闘、開始!>、<生きなくていいです>
<私ばかりが幸せでごめんなさい>、
<ぼくは太宰さん文学が嫌いです>、<たかが不倫じゃないですか>
もし、太宰が、この映画を観たならば、どのようなコメントを寄せるであろうか?それにしても、自分が誕生した頃の時代・地理的な背景を考えると、成る程、そういう時代だったのかとも、想像される。もう一度、読み返してみるとしようか、、、、、、。