小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

その後の3羽

2012年09月15日 | 自然・植物・昆虫
その後の3羽
シジュウカラの雛が、春先に、無事、巣立ってから、もう何ヶ月が過ぎただろうか?幼かった雛鳥たちも、杉並の庭の梅の樹に懸かっている巣箱が、懐かしいのか、それとも、巣立ちの場所を覚えているのか、分からないが、時々、ズビッ、ズビッ、と鳴きながら、花桃の樹や、ムクゲの細い枝に、しっかりと、羽ばたきながら、やってくる。生活圏内が、この住宅地の近くで、きっと、形成されているだろうことが、これからも、分かろう。幼かった雛鳥も、今や、立派な成鳥になって、青虫などの餌を自分で、捕獲して、この周辺を飛び回っている。一寸、気になるのは、3羽ではなくて、いつも、2羽なのが、少々、気になるところであるが、、、、、、、、。もっとも、巣立ちの時に、3羽のうち、うまく飛べなかった2羽に、個体識別票をつけたわけではなかったので、本当に、それらの個体かどうかは、識別不可能であるが、、、、、、。こちら側で、巣立っていった雛鳥が、又、戻って来たと、勝手に、邪推しているに過ぎないかも知れないが、、、、、、、。いずれにせよ、それでも、やってきてくれるのは、嬉しいし、窓越しに、野鳥の元気な姿が、観られることは、都会の中での贅沢な楽しみの一つである。



BS 戦国武将の決断、徳川家康

2012年09月14日 | 映画・テレビ批評
BS 戦国武将の決断、徳川家康
関ヶ原以後、そのわずか一日の戦いで、作られた集権型幕藩体制が、実はそうではなく、あの戦い自身も、見方によれば、黒田も伊達も、もっと長期化すると戦略を練っていた節があるし、決戦の時に、遅れた秀忠軍も、視点を変えれば、撤退に備えたり、第二回戦を見据えていたりしたという見方も、確かに、頷けなくはない。主力部隊なしでの戦さを決断した家康も、流石に、豊臣恩顧の陣営に、いつ、裏切られるかと、怯えながら決断したのは、さすが、「負けない戦い」の真骨頂であろうか?日本人のリーダーの原型みたいに、観られている家康自身も、外様の豊臣の大名を分権的に、つなぎ、西国不介入という方針の下、地方分権統治をせざるを得なかった当時の背景とか、なかなか、これまでの歴史観とは、異なる見解が、述べられていて、興味深かった。小早川の寝返りだけでなく、毛利との不戦密約など、或いは、関ヶ原自体が、初めから想定された戦場だったのか、先走って、先鋒が、進みすぎた結果だったのか?戦場での「想定外」の連続的な事態に対して、如何に、リーダーとして、決断したのか?「想定外の事態が、当たり前な状況」(何が起きても、不思議ではない状況)の中で、絶望の中の寛容を大切にして、乗り切ったのは、やはり、欧米型の、或いは、信長型のリーダーシップとは、異なる日本型の在り方を、再考しているのかも知れない。その点では、これまでの家康のイメージを覆すような論点、脳外科医の茂木氏による見方など、歴史学者だけの解説とは、異なる面白い視点であったと感じられた。



神林長平著、SF長編「ぼくらは都市を愛していた」

2012年09月13日 | 書評・絵本
神林長平著、SF長編「ぼくらは都市を愛していた」

17世紀、フランスの思想家である「バスカル」は、「人間は、水上に漂うひ弱な葦に過ぎないが、それは、“考える”葦である。」と、、、、、、。或いは、デカルトの「我、思う、故に、我在り」、一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、しかしながら、この長編SF小説を読んでいると、何が、現実で、何が、仮想的な現実で、自分とは、何物であり、その意識とは、どういうものであり、この世界は、本当に、現実世界で、自分は、その中で、実存しているのかさえ、定かではないそんな錯覚に陥ってしまいそうである。意識とは一体、何なのか?読み進むにつれて、次々と、考えさせられることになる。
綾田(あいでん)ミウ情報中尉の戦闘日誌の最後に書かれていた言葉、「書くという行為は、祈りだ。私は今初めてそれを知る。」孤児院で一緒に育った双子の弟は、元公立高校教師の援助交際で、辞職し、公安課に入ったカイムである。それが、漢字での「皆無」であることが、小説の最期に、判読される。
体間通信機能を有するという人工神経網が、体内に、作られ、通信情報を無意識のうちに受信していて、意識すればそれが、聞こえてくるような現象、意識を読むと言っても、直接他人の心を覗き込むのではなくて、他人の言葉を、”盗み読む”のである。携帯の通信機に書き込まれたテキスト情報のようなものである。そういう体間通信装置を、体内に、移動カプセルのように、取り込まれる。
携帯を使って誰もが今何をしているかという「さえずり」(つぶやき?)すらもリアルタイムに、テキストデータとして、これを使えば、感知できてしまうと、「情報震」というこの世界の全ての論理装置の意味を失わせる情報震現象が、突然起きる。本震とそれに次ぐ規模の大きな余震という二波の「情報震」で、地球上の全ての光電子デジタル聴きの息の根を止められ、再起不能な状態までに破壊されてしまう。但し、奇怪な点は、影響を受けるのが、デジタルデータのみであるという点であるが、微生物を含めて、動植物に何らの影響を与えるモノではない。
この現象を引き起こした根本的な原因とは、一体、何なのか?
世界中のデジタルデータをほぼ同時に一斉に、揺らしている力の正体とは?そもそも、それは、何を揺らしているのか?全く分からない。原因もメカニズムも媒体も、それらの問い事態が無意味なものであるし、対処方法も、明らかではない。
果たして、敵性知的主体が存在して、何らかの意図を持って活動しているという可能性があるのか?
観測機器が破壊されても、人体という感覚器でもって、任務を継続することが可能なのか?
ただ、生きていさえすれば良いという厳しい任務でもある。
現代は、「知らない」と言うことは、即、死に繋がる、死ぬという意味になる。「情報無くして命無し」、逆説的に謂えば、情報が命ならば、盗聴というのは、命の横取りであるのか?
人間にとっての現実とは、「言語情報」であり、「言葉そのもの」である。
自分の身体がやがて、透明になり、その質量を失った空間を無数の青白く細いレーザー光線が、貫いていく。目を開けたらそこには誰もいない。空の箱に存在するのは携帯の端末によって記号化された「人間」という観念の発信器が飛ばす「言の葉」という「情報の断片」のみである。
情報震による被害は、地勢と相関する濃淡があることが、分かった。無人に近いほど、耐震効果があるらしい。原因の分からないコンピューター上やネット上のエラー状況は、情報震によるものと疑われる。デジタル機器=あらゆるデータを量子化して処理し保存するという技術の発明とそのネットワーク化という科学技術の進歩、いずれ手書きの文書以外は、判読不明の文字化けしたデータの羅列以外になってしまうであろう。
人為的なサイバー攻撃であるという宣戦布告無き戦争の開始なのか?、
人類自滅の元凶は、ヒトという生物が持つ「疑心暗鬼」という鬼であろう。「情報震」は、そうした鬼に、力を与え、活性化させたのである。猜疑心という自己の観念によって、自滅の危機に追い込まれた。
自分の意識は無味無臭で、透明であるが、実は、体臭と同様に、かなり、臭いものではないか、体間通信機能は、その透明性をどのようにすれば見ることが出来るのかという問題を解決する装置としても使えるかも知れない。
2020年、都市はその全機能を停止することになった。通信システムの全てが沈黙した。誰も語らない、都市は沈黙している。再起動や復旧は、成功した例をみない。もはや、都市ではない、死んでしまったのである。壮大な“記憶回路の喪失”である。
戦闘日誌であるからには、事実記録に徹するべきであり、それを阻害する思いは、雑念、言い換えれば、“ノイズ”で、それを記録、記載し始めている。
情報震の主体とは、人類の対策を無効化するという手段でもって、我々人類に応答してきているのであって、そのようなコミュニケーション手段もあるだろうと言うこと、人類の情報震に対する対策を彼らに対する人類側からのメッセージであると受取っている可能性があるということ。
それも、意識そのものを有している相手とは、或いは、人類に悪意を持っている相手だとは、断言出来ない。人類の高度情報化への進化を脅威と感じる何か、そんなそうした主体が存在するのだろうか?デジタル信号を嫌うウィルスのようなものとかが、いるのではないか?自己免疫疾患のような、アレルギーのようなものが、、、、、、。人類は、自らの高度な情報化環境に対して、無意識・無自覚の内に、アレルギー反応を起こし、それが、情報震を引き起こしたのではないか?

記憶の方が正常で、記載された頁がない。記憶の方が現実よりも正しいのだ。
情報震は、CD面に刻まれたデータ、その微少なビットの配列すら変化させる物理的な作用力を発揮しているから、手書きデータも消去することもありうるだろう。その作用力は、ヒトの時間的感覚や記憶や意識といったものにも、影響を及ぼしているのかも知れない。人の脳内情報にも、影響が及んできているのか?
人間の記憶というものは、書かれている現実によって、容易に、“書き換えられてしまう”ようである。今、書かれていることだけが、現実に起きていることである。書いたことを消してしまえば、現実には、それはなかったことになる。何とも、不可解なことである。
人は、他人と情報を交換し続けなければ、不安になり、人間関係こそが、人を動かす原動力になっている。他人と関係することで、得られる情報を通じて、本当は、生きているのか?まるで、SF小説であるにも関わらず、今日的な問題、現実の意識と仮想現実の世界、その間で、生活する生身の人間の意識、デジタルとアナログ世界での狭間の問題、等、多いに、考えさせられることになる。

8年間の戦闘日誌記録が消失してしまった。「どこにも、記述がないという現実、客観的な事実、
書くという行為は、祈りだ。私は今初めてそれを知る。」という現実、情報震があった日付だけが、残っている。情報震は、人間の認知情報機能に直接干渉するのだろうか?
体間通信という得体の知れない人口神経網は、“偽の”記憶や知覚を送り込んでいる可能性がある、そうすれば、人口神経網は、他人に自分の意識を割り込ませて、その他人に暗殺などの犯行を実行させることも可能になる。自己のアイデンティティーを分裂させ、分身をも作り出すことも可能になる。
記憶すらも、人工的に作り出されることになる。同じ虚構体験が作り出される。

単独ではひ弱な毛のない猿にすぎないヒトは、様々なモノを作り出して劣った能力を補ってきたが、その最高傑作が、「都市」であると。それは、田舎の延長線である都会というものでは“ない”。総合的な人工的環境システムを実現している巨大機械(メガマシン)である。それは又、ヒトの常識(=独りではいきられない)に対抗できる力を個人に与えた。そして、私達は、「都市」を愛した。
都市という他者の脳内世界、他者の意識内に、紛れている。決して仮想世界ではない。この人々の一人一人は、過去の彼らの意識から、再構築されたものであるが、ここでは、全てアクティブに、ダイナミックに活動している。

体間通信や疑似テレパシー能力といったものを使えば、人が手にしている携帯の内部情報をリアルタイムで、直接読み取ることが可能になる。通信情報の全てをアクセスしているクラウド内の情報を読み取り、感じ取ることが出来る。ソーシャルメディア内での個人の書き込みを継続的に追跡し、その持ち主が、どういう信条や思想の持ち主なのか、どんな社会階層でいき人生の価値観や生き方、食べ物や異性の好みまでも、人となりや本音が分かる。

自分自身のことを、自分は自分であると考えている。そういう自分というのは、「脳内に生じる仮想的な存在」にすぎない。この町の人々は、都市という意識に投影された自己、自分を皆持ち、自分は自分であると意識して生きている。都市がすべての情報機器やネットから収集し保存していたデータから再構築した、そうした各人の意識は、そのままではデータにすぎなくて、それは、変化しない静的なモノですが、それを駆動しアクティブにすることで、本物と変わらない人生を各人が得ている。しかし、その現実こそが、虚構であると。
化身の自分のほうが、主役になるとき、それが、都市との意識統合の完成である。
情報震の実際の被害とは、単にデジタル機器を媒介にした通信障害、「人と人とのコミュニケーション障害」なのである。人類は、疑心暗鬼に陥り、大量破壊兵器を無差別に使用して、人類を絶滅危機除隊に追い込んだ。人類の集合的な意識が、何らかの原因で、統合失調症状態に陥った。
人類は、今や、私は私であると言う意識を体外に投影し、投射する技術を作り出した。デジタルネットワークというまさしく、蜘蛛の巣のようなスクリーンへと、脳内の自己の化身を投影する技術を全世界の人間達がそれに向けて自己の複製を投影し始めるようになった。その集合体は、まさしく、人類の集合的な意識と行って良いモノだろう。コミュニケーション不全による都市の崩壊危機である。
何が現実で、何が仮想現実だったかと問うことには意味が無いと思われる。そのような問いかけがナンセンスになる。「意味が無意味になる」。これこそが、情報震の被害というか、効果であろうと、各個人が意識している現実だけが現実である。というのが今の状況で、本来存在するはずの共通の現実という基盤を情報震が揺さぶって、日々を入れてしまったために、こうなってしまったのだろうか。

人間同士のコミュニケーション手段に、情報震がひびを入れてしまったのかも知れない。その原因とは、量子効果を利用したデジタル技術が発展したことが、現実崩壊、人間の共通意識、今や時間すら共通していないことがわかったが、その基盤を揺るがすことになったのかも知れない。量子論は、本来、ミクロの世界だが、人間という大きなモノが、多世界に分裂するなどは考えられないが、情報震は、それをやってしまったのかも知れない。人間の意識野というのは、もしかしたら、自分の脳内ではなく、例えば、地球といった場に投影されているのかも知れなくて、その地球場をゆらすのが情報震なのかも知れないと。
意識がそのように、体外に、或いは、意識の複製が体外にも投影されているものならば、幽霊の存在や幽体離脱や、輪廻転生もオカルト現象も説明出来るかもしれない。
真の世界とは、人間の感覚や理解を超えて拡がっていて、因果関係も時空も物質もエネルギーもない、或いは、それらが、みんなごちゃ混ぜに存在する混沌の場で、人間はそのごく一部を意識し、意識することで、小さな現実を生み出し、その仮想的な世界、真の世界とはかけ離れた遠いところで生きていると、
世界というのは、「皆無」、カイムで、でも何もない皆無というものが在る。これが、私達の感じている現実である。トウキョウというモノは本来ない。街もなかった。今それを生み出しているのは、一人一人の存在で有り、これを自覚し、知ることこそ、人生を生きていることの意味なのであるから、、、、。

この長編SF小説を読んでから、3.11の未曾有の大震災に対する見方も、都市と情報ネットワークという観点から、考え直して見る必要性があるかも知らないし、”絆”とかという言葉に代表されて提起された人と人との相互コミュニケーションの在り方、破壊される前の世界が、本当に、現実で、破壊された後の世界が、果たして、現実なのか、単なる「大地震」というものでは、語りきれない、或いは、SF小説という範疇だけでは、語れないモノが、あるようである。終末論なのか、それとも、創世記なのか、それは、一人一人の読者の意識の中に、問われているようである。未だ、数十万人という人々が、故郷に、帰還できない現実が、そこにあるが、、、、、、、、。




プロフェッショナル、仕事の流儀、高倉健特集を観る

2012年09月12日 | 社会戯評
プロフェッショナル、仕事の流儀、高倉健特集を観る
今公開されている映画の「あなたへ」の撮影現場に密着取材した二回連続の特集インタービューである。大滝秀治とのシーンで、映画だけ観たのでは、その後で、高倉が涙を流したことは、分からなかった。むろん、事前に、大滝が台詞の中で、「久しぶりに美しい海ば見た」という何気ない言葉に、高倉でさえ、台本を読んだときには、何で、こんな台詞が、、、、、、と思ったそうであるということは、知っていたが、、、、、。ところが、実際に、87歳の先輩の大滝との演技を終えた後に、高倉の心の中で、特別な思いがよぎったことが、改めて、このドキュメンタリーから、判読できる。「気持は映る」という哲学の体現、仰々しくない演技の中に、寡黙な孤独な演技の中にも、映画は、他の芸術同様、絵画でも、音楽でも、舞踏でも、その感性や、気持ちは投影出来ると、、、、、。だから、私生活ですら、そのイメージが、演技に反映されないように、気を配り、生活臭や色を消し去って、厳しく律してきたと、確かに、ジャン・ギャバンやロバート・デニーロ、マーロン・ブランドの演技、実生活のイブモンタンに憧れるという理由も、成る程、理解しうるモノがある。未だ、残された時間を無駄にせずに、孤高の崇みへと、若いスタッフにも、映画作りの大切な時間を共有しながら、1作でも多くの映画に、出演してもらいたいものである。スタッフへの気配りも、そういう哲学が、反映されているようである。次回作まで、又、一時期、消息を絶つのだろうか?そして、その後に、スクリーンに戻ってくるきには、どんな演技が、期待できるのであろうか?海を泳ぐシロナガスクジラのようだと表した北野たけしの如く、車椅子でも、何も喋らなくても、最期は、宜しいのではないだろうか?ただ、そこに、いるだけで良いではないか?



SUMOU海を渡る:欧州大陸相撲選手権を観る

2012年09月11日 | 社会戯評
SUMOU海を渡る:欧州大陸相撲選手権を観る
巨人・大鵬・卵焼きの世代は、大鵬が、白系ロシア人の血を曳いていることは、広く知られていることであるが、それが、ウクライナ人であることを初めて、このEテレの番組で知った。ロシアも、ウクライナも、ハンガリーや、アゼルバイジャンも、皆、欧州では、欧州大陸相撲選手権大会が、開催されているように、どういう訳か、人気があるという。しかも、レスリングや柔道の選手達が、その担い手達であると、、、、、。空手や、柔道は、既に、カラテやJUDOという言葉でも分かるように、国際的な拡がりの歴史が古いが、相撲は、この番組を視る限りでは、まだまだ、その指導システムや、総合的な援助組織が、不十分であるように感じられる。それは、まるで、相撲協会が、旧態依然として、国際化に十分取り組んでいない証拠にもなる。せいぜいが、海外興業お披露目程度で、お茶を濁す程度でしかない。既に、ハワイ力士や、トンガの力士達、或いは、モンゴル、果ては、バルト諸国や、欧州出身の力士が、活躍しているにも関わらず、積極的に、海外へのSUMOUの普及を、意図的に、「一国相撲純粋主義」に固執する余り、躊躇ってきたにも関わらず、他方、現実的には、海外力士の跋扈無くしては、現状を支えきれないことを、追認せざるを得ないという事実が物語っている。蹲踞や、仕切りや礼の意味も、分からずに、土俵の神様との対話もなくて、神技を、只単に、格闘技の延長線上や、相手への敬意の心を忘れたスポーツに成り下がってしまうのは、何とも、情けないことである。相撲協会は、内部組織の改革と同時に、文部科学省とも協力して、もっと、国技の相撲を、海外に、正しく、普及させ、テレビや、広く、ネット放映をすべきではないだろうか?もっと、積極的に、現地での日本人指導者や、現地指導者、インストラクターやコーチの組織的な養成を、行うべきであるし、実際、現地の彼らは、そうした組織的科学的な援助の手を真摯に待ち望んでいることが、映像からも窺える。知らぬは、日本人だけで、「純粋一国相撲主義」は、もはや、世界には通用しないであろう。それこそ、土俵のもっと合理的な作り方、レスリングのグラウンドを、相撲の練習場に変更できるようなキットを、援助するとか、手引き書を各国語に翻訳するとか、インターネットにアクセスすれば、誰でも、必要な知識(相撲の歴史や技の解説、科学的なトレーニング方法について)が入手出来るとか、一朝一夕には出来ないであろうが、熱心なサーシャのような力士志望の若者にも、挑戦の機会が与えられるように、海外普及に、組織的に、努力してもらいたいものである。それは、同じように、相撲協会だけではなくて、日本人自身に対しても、問題提起しているように思えてならないが、、、、、、、、、。



NIMBYという言葉を考える

2012年09月10日 | 社会戯評
NIMBYという言葉を考える
もう随分と、昔のことになるが、杉並では、ゴミ焼却施設の不足から、その処理が追いつかず、新なた焼却場の建設が、持ち上がり、一時期、随分と、環境汚染、とりわけ、ダイオキシンによる空気の汚染撹拌と車による渋滞や通学する子供への事故の争点となり、大きな反対運動が、繰り広げられたことがあった。最終的には、ゴミ処理の問題を先取りする形で、合意が形成さえ、今では、先駆的な焼却場建設の杉並モデルと評価さえされている。むろん、核のゴミとは異なる問題ではあったが、Not In My Back Yard(=NIMBY)、総論は、賛成であっても、各論になると、自分の所には、勘弁してくれ式の地域エゴが、むき出しになってしまうものである。ゴミや下水処理や、刑務所、インターチェンジですら、今や、環境アクセスの調査が、不可欠で、事前に、何年にも亘って、慎重に、地域住民とのコンセンサスを培ってゆかなければ、単純に、かの国のように、強引にお上のご威光だけで、ことは進まないのが現状である。それにしても、仮に、急に、今居住しているところに、幹線道路が、突然、拡張され、立ち退きを要求されたら、果たして、どう対応するだろうか?NIMBYを振りかざして、老人行動隊でも結成して、、先頭に立って、反対運動でもすることになるのか?改めて、原発による核の最終廃棄処理施設の建設の難しさを知ることになる。



酒屋の廃業の貼り紙に思う

2012年09月09日 | 社会戯評
酒屋の廃業の貼り紙に思う
偶然、我が老犬の散歩道の途中で、坂上屋という明治以来、百十数年に及ぶ歴史を有した酒屋さんが、廃業する旨の貼り紙を、見つけた。私が、未だ、小学校に、上がる前の昭和29年頃、この酒屋さんでは、アイス・キャンディーやら、かき氷、或いは、銀色の丸形の台に、同じく、平べったいスプーンとバニラ・ウェハースを、その脇に、添えた、当時にしては、まだ、珍しかったアイスクリームを、祖母に、連れられて、食べに行くのが、楽しみだった。氷の文字が白地に、赤く染められた旗が、懸かって、夏の暑い日差しを遮るように、大きな簾も立てかけられていて、一時の清涼を愉しむ、子供にとっては、至福の空間であった。まだ、当時は、一升瓶で、醤油や、味噌・塩、ビールなどを御用聞きで、配達して貰っていた時代だから、専売権を有する酒屋は、それなりに、地域密着で、保護されていたのであろう。今や、先買権も、酒の小売り免許も自由化され、近場のスーパー、コンビニでも、競合商品が、より安い価格で、販売されていて、さすがに、百数十年という歴史だけでは、到底、太刀打ち出来なかったのであろうことは、想像に難くない。自社ビルを兼ねたマンションを建てているので、生活には、きっと、困らないのであろうが、何とも、時代の趨勢とは、こういうことを意味しているのであろうかと、少々、寂しい思いになる。行きつけだった床屋の廃業といい、小さい頃の風景が、段々、消え去ってゆくのは、淋しい限りである。後には、どんな店が、テナントとして、入るのであろうか?昔の風景が、ふと、瞼の裏に、蘇ってくる。



秋の夜長の虫の声

2012年09月08日 | 自然・植物・昆虫
秋の夜長の虫の声
東京、杉並の庭木には、毎年、草ヒバリや秋の虫たちの鳴き声で、その一角は、喧しい。姿が見えないが、様々な鳴き声から、色々な種類の虫たちが、生息していることがわかる。夜になると、暖まった都会の空気も、さすがに、清々しいひんやりとした空気に変わる。我が老犬も、聞こえているのか、いないのか、分からぬが、子守歌のように、聴きながら、ぐっすりと気持ちよさそうに、眠っている。夏の終わりの雷雨のせいだろうか、庭の草木も、しっとりと濡れて、土も、適度に、湿っている。気化熱の為か、打ち水効果のように、草木の周りは、涼しげである。いつまで、この虫の声は続くのであろうか?毎年のことであるが、網戸越しに、秋の夜長の虫の声を聴きながら、眠りにつくのは、何とも、風情があって宜しいのではないだろうか?一寸した草木を植えておけば、バッタやカマキリも、我が猫の額ほどの庭にも、住み着いている。今年も虫の鳴き声が終われば、まもなく、本格的な秋の深まりの到来になろうか、、、、、、。一時の虫の声を少しでも長く聴いていたいものである。



只今、午睡、爆睡中!

2012年09月07日 | 動物・ペット
只今、午睡、爆睡中!
といっても、私のことではない。我が17歳と7ヶ月の老犬のことである。小諸の家では、玄関を開け放して、ドアーに取り付けたネットを通して、松の木々の間を抜けてくる涼しい風に当たりながら、冷たいタイルに、四肢をだらしなく、投げ出して、横になっているだけで、つい、ウトウトと、一日中、風通しの良い日陰で、飯を食べることすら忘れて、寝ているのが日課である。それ以外は、食事と排泄も兼ねた散歩だけである。しかしながら、東京に戻ってきたら、なかなか、そういう訳にもゆかず、留守居の時も、冷房を効かせておかなければ、人間同様、脱水症状を呈されても困ってしまう。何せ、もう、老犬なのであるから、、、、、、。家の中では、トイレ・シートを敷き詰めておいても、滑ってしまったり、自分自ら、勝手に、動かしてしまい、結局、行き着く先は、折角敷き詰めたシートが、ボロボロになってしまうのが、関の山である。毛皮を着ているので、自分で、勝手に、一番冷たい所で、且つ、風通しの一番良い場所を見つけては、うたた寝を決め込むのである。本日は、開け放してある風呂場の窓から、吹いてくる風が、脱衣場経由、廊下を横切って、私の書斎の入り口から、窓へかけて、吹き抜ける場所を見つけて、早速、ブルーのトイレ・シートとは、関係無く、思いっきり四肢を伸ばした状態で、午睡、爆睡中である。時には、朝食が済んだ後からでも、平気で、寝ているが、、、、。あまり、午睡が長いので、時々、昼夜、倒錯するのであろうか、それとも、認知症の始まりなのか、真夜中や明け方に、チャカチャカと、廊下を歩いたり、遠吠えをしたりするので、困ってしまう。この調子だと、今夜も、その可能性を否定しきれないかも知れない、、、、、、、、。もう、自分の好きなように、やってくれて宜しい、、、、、、、、、。



退院後1ヶ月検診にゆく

2012年09月06日 | 社会戯評
退院後1ヶ月検診にゆく
手術直前のX線撮影の画像と、術後、並びに、退院後の最新のX線撮影の画像を見ながらの診察である。それにしても、何と整形外科の患者の多さと言ったら、例えようがない。大半が年寄りであるが、中には、若い人も混じっている。全て、これでも、データ・ベースで、予約時間が、事前に確定されていて、しかも、到着すると自動的に、診察券を入れると、窓口番号の指示・再確認の紙が発行されて、待合室で、診察の順番を待つという極めて合理的なシステムである。おまけに、今、何人待ちかも、スクリーンで確認出来る。未だ、車の運転が許可になっていなかったので、小さな子供のように、山の神の付き添いで、受診である。画像を覗き込むと、それにしても、腰の尾骨付近にしっかりと食い込んだボルトの補強金具は、すごい迫力である。よくぞ、こんなものが、腰骨の中に、据えられたものである。まだ、歩行が、やや不安定なので、20分や30分歩行できても、杖がないと、少々、不安になるが、担当医からは、もう、杖に頼らないように、長時間歩行訓練と爪先立ちの筋肉訓練を、継続するようにという指示が下された。何とも、リハビリも、これまでの常識とは違って、素早いテンポである。我が老犬との散歩も、負けじとばかり、頑張ってお供しなければならない。どちらが、散歩の主体なのか、分からないこともないが、、、、、、、。やっと、車も自転車もOKが、下された。これで、少しは、行動半径も拡がるかな、、、、、、、、。次回の検診は、10月末である。果たして、杖にたよらなくても、よくなるか?



高倉健、「あなたへ」を、夫婦で観る

2012年09月05日 | 映画・テレビ批評
高倉健、「あなたへ」を、夫婦で観る
もう、我らの健さんも、81歳にもなるらしいが、あと何本の映画に、出られるのであろうか?もう既に、最終章なのであろうか?学生の頃、銀座の並木座で、池辺良や鶴田浩二とともに、出演していたまだ若かった寡黙な演技の高倉健、「昭和残侠伝」シリーズの2本立てをよく観たものである。あれから、優に、40年は、経過しているのであるから、、、、、、、。こちらも、歳を重ねたが、考えてみれば、銀幕の向こうでも、余輩を重ねた訳である。どういう訳か、鶴田浩二の演じる役所は、両拳を軽く握っていて、映画が終わると、自然に、僕たちは、両拳を握って、往来を闊歩したことを、今でも懐かしく想い出す。もう、池辺も、鶴田も、鬼籍に入ってしまったが、アーカイブ映画を観るにつけても、三者三様の後ろ姿の演技が、忘れられない。寡黙な演技で定評のある高倉健は、今回の作品でも、いかにも、木訥な中年刑務技官の役所で、癌で亡くなった妻の故郷の海での散骨を、問い直す旅に於ける見知らぬ人々との心の交流を、各地の美しい映像とともに、演じている。「あなたへ」、「さようなら」、という残された2枚の葉書、とりわけ、「さようなら」という言葉を使った妻の真意が、「あなたの時間を大切に、生きて欲しい」という意味を見出し、その寡黙な演技の中で、ボソボソと、低い声で、呟く。奇しくも、(高倉健・田中裕子)、(長塚京三・原田三枝子)、(佐藤浩市・余貴美子)、(三浦貴大・綾瀬はるか)、の各世代の異なる役所の夫婦像を対比させながら、それぞれの個性的な俳優の演技も、面白く愉しめる。一寸、長塚は、健さんの前では、持ち前の演技が、固かったように、思えたのは、何故だろうか?それに比べると、ビートたけしや草彅剛、岡村隆史、の役回りは、それなりの持ち味を出せる役回りだったのではないだろうか?挿入された山頭火の句も、秀逸である。大滝秀治は、もはや、伝説になるような言い回しで、短い台詞が一人歩きするような印象である。高倉や大滝の寡黙な演技を、もっと、今後も、観てみたいものであるが、、、、、、、、、。いつまで、可能であろうか?最後のシーンで、妻の生家(?)の朽ち果てた写真館に飾られている、唄を唄っている少女の写真を眺める演技は、男の孤独と哀愁、亡き妻への暖かい想いを感じられて、何とも、観ている側には辛い。夫婦揃って、観るのも宜しいのではないか?



プロ野球が面白くない!

2012年09月04日 | スポーツ
プロ野球が面白くない!
とりわけ、セリーグは、最悪である。久しぶりに、首位と最下位の試合を、テレビで観てみることにした。それも、男女ゴルフの中継が、韓国勢ばかりで、初めから、面白くなかったので、消去法での選択である。成る程、これでは、素人目にも、面白くない訳である。試合の流れが、アッという間に、変わるのは、スポーツを多少経験したことのある人であれば、容易に分かろうが、やはり、同点に追いついた後でのバスター打法で、自ら、チャンスの流れの目を摘み取ったり、初めから、素人でも分かるような一発狙いの振りに対して、何も考えずに、不用意なコントロール・ミスの逆玉で、一発を喰らって、逆転を許すなど、確かに、こんな試合では、お金を払って、試合を見に行く人間の気が知れない。テレビを観ていても、思わず、終いには、スイッチを切ってしまった。いつから、こんなレベルに成り下がってしまったのであろうか?まだ、私達が子供の頃は、チーム同士の試合結果もさることながら、監督同士の采配、三原・水原の監督采配、選手起用、そして、何にもまして、個性豊かな選手自身の燻し銀の技量、勝負強さ、など、浮かれたマスメディアによる人気とは別次元でのそんな表には出てこない水面下での戦いに、その一挙手、一投足に、幼い心は、一喜一憂したものである。又、それが、プロ野球の魅力ではなかったのか?今や、選手もいつの間にやら、老朽化し、小粒化して、所謂、「旬のおいしさ」が、乏しくなってしまった。そこそこの活躍で、細く長く、程々の成績で、プロ野球も、ハングリーさに欠けて、安定サラリーマン化してしまったのだろうか?何とも、淋しい限りである。これでは、ますます、視聴率も下がり、女子サッカーや他の競技に、その地位を取って代わられ兼ねないであろう。口うるさい往年のファンは、どう思われるであろうか?



ヤングなでしこに、思う

2012年09月03日 | スポーツ
ヤングなでしこに、思う
少し、前のことになるが、ドイツでは、自国の主審に対して、手厳しい程のハンドによるPKの宣告をしなかったことを、メディアが、批判しているそうである。又、米国の選手も、ハンドを認めて、PKにならなかったことをラッキーだったと、メディアに公言してもいるそうである。佐々木監督は、一言も、主審への不満を口にせずに、米国を称えている。又、日本選手も、同じように、米国やフランスを祝福して、未来志向へと、進もうとしている。それは、表彰式での「なでしこトレイン」による入場発想や、表彰台でのお辞儀のユニークさにも、その表情にも、多いに、象徴的に表現されていた。こういう先輩達の柔軟な発想と未来へ向けての柔軟な気持の転換は、今後のヤングなでしこ(U-20)にも、当然、引き継がれて然るべきであろう。きっと、「進化」する過程というのは、こういう物なのかも知れない。それに較べて、男子サッカーは、TV観戦しないで本当によかった。試合後の韓国選手による竹島の領土主張のプラカード(明らかに、オリンピック憲章違反であるが、、、、、)といい、在日Jリーガーの活用と言い、兵役免除の飴玉と言い、何とも、国際的なスポーツの品性が、疑われても、仕方ない。なでしこジャパンが、何故、人気がでるかという理由は、こんなところにもあるのではないだろうか?それにしても、男が、余りにも、だらしなさ過ぎると思うのは、私だけの感慨だけであろうか?世の男性諸氏は、如何なる感慨をお持ちであろうか?、、、、、、、、、、、と。女子レスリング、女子サッカー、女子バレー、女子卓球、など、、、、、、、、。(苦笑い)なでしこにあって、U-23 の男子サッカーにないものとは、何であろうかと考えさせられる。フランスやアメリカの女子サッカー選手に対する試合後のキャプテン宮間が示したスポーツマン・シップやフェアー・プレイ精神を賞賛する現地報道は、国際化の一定程度の成果と個々人の民主主義的思考の成熟さを物語るもので、今後も、歴史的に継承されるべきものではなかろうか?私は、チーム・プレーとか、絆などと言うものより、もっと大切な個々のプレイヤーの完成度、発想の柔軟性、考える個の充実とチームとの調和を、そこに、見出したいと考えるが、、、、、、、、。それらこそ、ヤングなでしこにも、引き継がれるべきものであり、進化を継続されるべきものではないだろうか?もっとも、それは、スポーツに限ったものではないが、、、、、、、、、。



今年の夏も又、雨蛙に遭う

2012年09月02日 | 自然・植物・昆虫
今年の夏も又、雨蛙に遭う
夜になると、簾には、光を求めてというよりは、光に群がってくる虫を狙って、様々な生き物がやってくるが、今年も、又、小さな雨蛙が、数匹、やってきた。冬には、玄関脇の我が老犬のリードを繋いでおく鉄パイプの中に、冬眠していて、春先には、小さなパイプの穴から、ヒョッコリと、顔を出す始末である。今年も、元気に、夏場に、顔を見せてくれるのは嬉しい。道路上に、雨が降ったときなどは、車のライトに照らされて、ピョンピョン、飛び跳ねて、運悪く、タイヤに轢き殺されてしまうものも出てくるが、森の樹に隠れていて、元気に、過ごして貰いたいものである。それにしても、森の中から、グェッ、グェッ、と啼く声は、何の声なのだろうか?蝉でもないし、カジカ系の蛙の鳴き声だろうか?



ファスト・フィッシュに想う

2012年09月01日 | 男の手料理・食
ファスト・フィッシュに想う
病院食に出てくる魚は、全て、骨が除去されて、切り身になっていて、食べやすく加工されている。とりわけ、鮭や鰆(さわら)等が、多かったが、、、、、、。今や、小売りの世界でも、食べやすく、加工された骨なしの所謂、ファスト・ファッションならぬ「ファスト・フィッシュ」の普及が、既に、時代の趨勢であるようである。以前、ベトナムや中国で、骨抜き魚の加工などを行っていたが、確かに、この流れは、時代の要求、ニーズかも知れない。これまでは、魚の骨の構造を熟知して、その骨に沿って、箸を入れて、身と骨をほぐして、食卓で食べる手法は、もはや、職人技的なノウハウであったが、これからは、そういう訳にもゆかなくなるかも知れない。どちらが良いかどうかでは無くて、既に、「時代の趨勢」なのかも知れない。更に、炭火焼きとか、煮魚とか、湯煎だけで、十分で、パックを切るだけで、自分で、焼いたり、煮たり、加工せずに、食べられるようになることは必至であろう。今に、箸で食べるのではなくて、魚も、手で摘まんで食べるような時代が来るかも知れない。(苦笑) 何とも、早い・簡単・便利、おまけに、安いときたら、もう、この流れは到底、止められないであろう。