こんにちは日本共産党の渡辺みつるです

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復興支援のために何が出来るのか?

2011年11月15日 23時02分34秒 | インポート

 今日は苫小牧市内でも“初雪”が降っていました。私の部屋も寒くて暖房なしではとても仕事が出来る状態ではありません。TV報道で、被災地での“仮設住宅”で生活されている方の状況が報道されていますが、降雪量の少ない地域から内陸地の“仮設住宅”に移転された方が、これからの降雪量に対する不安の声が出されていました。

過日の岩手県の被災地を視察して行政に対する苦情のなかに、「ハウスメーカーが設置した仮設住宅との比較が日常生活に影響している」との切実な声が届いているようです。特に、これから初めて迎える厳寒期だけに健康不安も大きいと思います。

改めて、“被災地支援とは何か”を考えさせられました。

昨日、日本共産党苫小牧地区委員会が取り組んでいる被災地支援ボランティア(宮城県気仙沼市)に3名の代表を派遣しました。6月から毎月ボランティアを派遣していますが、3人の代表は、用意した自家用車(ワゴン車)に党員や後援会員の方々から寄せられた支援物資を一杯詰めて元気に出発しました。地区委員会には、暖房器具(ストーブ)や布団・毛布、冬物の衣類などが山積みです。車に乗せられなかったものは、直接日本共産党の現地支援ボランティアに郵送します。

支援の方法には、物心両面での支援は欠かせません。でも、現地視察で学んだことは、“瓦れき”(災害廃棄物)の撤去です。

“瓦れき”が街づくりの再生に一番の支障になっていると思いました。出来れば、広域連携で“瓦れき”処理に対応することが急がれていると思います。

確かに、受入れは県と道との関係がありますが、一方で“放射能汚染”での不安は消えていません。当然、放射線量の測定で問題がないと言う“瓦れき”があるのであれば、もっと受入れ可能な自治体は積極的に支援する意思表示が大切と感じます。

12月議会まであと2週間に迫りました。質問内容は一定整理出来ましたが、その前に、明後日、初めて市立病院で“PET-CT”の検査を受けます。自らの健康管理をしっかりして市民の声を議会に届けていきます。


被災地視察パート3(最終編)

2011年11月13日 16時32分08秒 | インポート

 北風の影響で街路樹の枯れ葉が我が家の玄関前にたくさん集まってきます。ほうきで集めるより面倒でも1枚1枚拾った方が早いのですが、街路樹を見るとまだまだ葉が残っていて、拾っても拾っても飛んできるので・・・もう少しの我慢ですネ。

 引き続き、被災地視察パート3。今日は、山田町~大槌町~釜石市の実態について書き込みます。

 視察日程が11/10ということで震災後8ヶ月目でした。宮古市を午前9Cimg0206 時にスタートし、一路岩手県で生産量1位の“殻付きカキ”のまち“山田町”に。津波に Cimg0225 よって綺麗な海岸沿いに建設されていた介護施設の跡地を視察しました。その近くで“復興カキ小屋”のノボリが見えました。車窓からは“瓦れき”の山積み、津波で海岸沿いの住宅が消えているところがたくさんありました。(添付写真)

 貸し切りバスは1時間後に“大槌町”に到着。町長さんをはじめ多くの町役場の職員が津波で犠牲になったところです。添乗員は、Cimg0244 「庁舎が耐震化されていないため、地震発生後、町長が管理職を含め全員を外に出し、役Cimg0251 場前の空き地にテントで緊急災害対策本部を立ち上げたそうです。その結果が・・・・」と説明してくれました。海岸には防潮堤があり、「まさかここまで“津波”が襲ってくるとは誰もが考えていなかった」と思います。津波の破壊力は残骸となって残された役場内を見ると一目瞭然です。(添付写真)役場の正面玄関の壁に時計が残っていましたが、3時29分に津波が襲ったことが判ります。

 その日、最後の視察地である“釜石市”に着いたのは午前11時過Cimg0269 ぎでした。街並みは宮古市とは違って、“瓦れき”対策が遅れていました。戸建てや事務所などの建物には、黄色、緑などの旗が建てられ、全壊は撤去などのCimg0272 目印でした。釜石市内では、まだ交差点の信号機が作動していないところがあり、幹線道路が復旧後にも人身事故などが起きているそうです。私たちは、釜石港付近にバスを止め、現状を見てきました。港周辺の商店街は壊滅的で修復されていません。高台にある家は助かったものの、港の防潮堤近くの民家は津波が襲った時のCimg0275_2 状況がそのままに残されていました。(添付写真)

 被災地視察を終えたのはお昼時でした。その足で“いわて花巻空港”から神戸に移動。神戸のホテルに着いたのは午後7時頃でした。(疲れましたが実りある視察!でした)

 神戸市では、11日の午前中に県立「人と防災未来センター」を視察。年間50万人が来場している施設で、修学旅行や女性団体など会場は混雑していました。震災後に来場者が増えているそうです。

 今回の視察の成果は、市議会(特別委員会)の半分の議員が直接被災地を見て、その教訓などを苫小牧市の安全・安心なまちづくりをすすめて行く上で共通の認識にたったことだと思います。国は直ちに被災地復興の手だてを具体的に支援することです。思いやりの気持ちは米国ではありません。日本国民の暮らしを守ることが強く求められています。


被災地視察パート2

2011年11月12日 22時03分23秒 | インポート

 今日は1日中“好天”でしたネ。天気予報では、来週中頃から“雪”マークが付いているので、念のためタイヤ交換と思い、いつもお願いしているタイヤ屋さんに伺ったところ、1時間待ち状態でした。黙って待っているのも、と周辺をウォーキングすると2週間(白老町)に出会った“アブラムシ”(雪虫?)と遭遇しました。気づくとウォーキングしている方はしっかりマスクをしていました。

 さて、昨日に引き続き“被災地視察”(パート2)を書きます。今日は、宮古市の状況です。

貸し切りバスで田老地区から移動して宮古市役所に着いたのが午後3時半でした。私たち19人(西野茂樹委員長)の一行を出迎えてくれたのは、総務企画部復興推進室長と危機管理室の課長、そして市議会の復興対策特別委員長さんらが応対してくれました。震災復興の最中で大変な時期に快く視察に応じてくれるのは大変なことだけに、西野委員長が代表して謝辞と哀悼の言葉、視察目的を挨拶でしっかり伝えてくれました。

宮古市の説明では、震災(津波)による人的被害・建物被害は、死者420人、行方不明者118人、負傷者33人、家屋倒壊数4.675棟(11/7:午後5時現在)で、現在“宮古市復興計画”策定し、2年後までの3年間を「復興期」、その後3年間を「再生期」、それ以降を「発展期」と位置づけ、H31年度までに①「住まいと暮らしの再建」②「産業・経済復興」③「安全な地域づくり」の復興に向けた3つの柱で作業を進めていました。

質疑応答で私は3点お伺いしました。①震災義援金は届いているのか②震災後の行政Cimg0215 への苦情・要望③瓦れき(災害廃棄物)の処理問題です。「“義援金”は県を通じて4.000人に。宮古市で約4億円・・・」とのことでした。(苫小牧市民から届いているのか?と言う声を聞いていたので)、苦情・要望などでは「行政への激励は多いが、スピード感が足りない!仮設住宅(ハウスメーカーとの比較)への不満」など。

「“瓦れき”は現時点で575.000トンとなり31年分Cimg0237 に相当。今年度は広域処理で10.000トンが限界。処理費だけでも約280億円が必要との推計。放射能の影響は基準値以下で広域処理に影響はない」と説明してくれました。

 私は、復興計画を着実に進める上で、その第1歩は“瓦れき”処理が1番だと感じました。当面の課題として、情報伝達の改善と復興財源2.0003.000億円(宮古市の単年度歳入の10倍)の確保を国・県がしっかり支援する仕組みが急がれます。

 明日は山田町、大槌町、釜石市の視察状況について報告します。


被災地視察 パート1(宮古市田老地区)

2011年11月11日 20時05分49秒 | インポート

 夕方、安全・安心のまちづくりに関する特別委員会の一員として被災地(宮古市・釜石市など)等の視察を終え神戸空港経由で帰苫しました。

初日は早朝便で仙台空港を経て東北新幹線で盛岡市へ。そこから、予約していた三陸鉄道のマイクロバスで宮古市田老地区へ直行。三陸鉄道の成ヶ澤亨さんが添乗員として2日間私たちの視察に随行してくれました。目的地までは随時“3.11大震災”での自分の体験談を含めながら8ヶ月経過した現状の復興・救援状況を丁寧に説明して頂きました。(本当にありがとうございました)

今回の視察は岩手県宮古市・釜石市などの被災地と阪神・淡路大震災に復興した神戸市にある県立“人と防災未来センター”を訪問。特に、被災地では8ヶ月が経過しても遅々として進まない“瓦れき”(災害廃棄物)の処理を目の当たりにしただけに、たくさんの写真(デジカメ)を撮りました。報告すべき事がありますので、何回かに分けて報告します。

 最初の視察地は宮古市と合併した田老地区です。22年前に三陸海岸を含め岩手県を車で一周したことがあり、特に旧田老町の観光スポットは鮮明に覚えています。田老地区に向かう道中で、添乗員の成ヶ澤さんから「・・・“津波てんでんこ”という方言を聞いたことがありますか?」と説明してくれました。

古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育によって、今回、釜石市では1.200人を超す死者と行方不明者のなかで3.000人近い小・中学生が“津軽てんでんこ”の防災教育が生かされ無事に避難することが出来たそうです。(2日目に現地を視察しました)のちに“釜石の奇跡”と報道されたことのこと。

 盛岡市から約100㎞を走行すると沿岸部の「田老地区」の街並みが現れました。

 ちょっとCimg0182話しがそれますが、私的に9月に友好都市である秦皇島市(中国)に行って“万里の長城”を見てきました。まさに田老地区には高さ10㍍の防潮堤(地元でも“万里の長城”と言われています)によって津波から住民が守られるはずだったのです。私たちはそのCimg0188 防潮堤に立って街並みを見渡すと、区画整理によって綺麗に配置された住宅街のはずか、いま見えたのは鉄筋建ての骨組みと瓦れきが取り除かれた家屋の土台だけでした。(添付写真)誰しも、10㍍の防潮堤をのみこむ津波は想定していなかったと思います。その 後で、宮古市を訪問すると「今後の復興計画では(専門家の意見も聞いて)防潮堤は14.7㍍にしなければならない・・・」と説明してくれました。続編は明日以降に・・・!


前例のない戦車の公道走行に強い怒り!

2011年11月08日 20時38分49秒 | インポート

 昨夜は、寝る前に“痛み止め”の頓服を飲んだのですが“腰痛”でなかなか眠りに付くことが出来ませんでした。時計を見ると午前3時。その後の記憶がないので、7時まで痛みより睡魔の方が優先されたようですが、お陰様で日中“あくび”が途切れませんでした。

 早朝未明と言えば、6日の夜から7日未明にかけて、陸上自衛隊東千歳駐屯地から90式戦車(添付写真)4両のほか、89式装甲戦闘車やジープなど約60Cimg0176_2 が国道・道道・苫小牧西港の勇払埠頭(港管理組合敷地内公道)を走行しフェリー乗り場の苫小牧西港まで移動するという前例のない“公道走行”を強行しました。“前例”がないだけに、1度行えば“反対”があったとしても実績となり繰り返されることは千歳基地での訓練移転や公道走行を繰り返した帯広市などが物語っています。市の対応は「防衛は国の問題(専権事項)だから・・・」と人ごとですが、真夜中に”ごう音”をたたて公道を走行することは絶対に許すことは出来ません!!

 何故、こうしたことが行われるのか?それは、「新防衛大綱」で打ち出した地球規模での海外派兵の具体的訓練の現れです。大分県の陸上自衛隊日出生台(ひじゅうだい)演習場で10日から実施される協働転地演習に参加するためです。

 これからも北海道であれ、九州であれ、全国各地いつでも公道走行して移動できる訓練が行われます。日本の陸・空・海で米軍と一緒に、空ではF15戦闘機、海では艦船、陸では戦車での訓練です。怖いことですが現実のこと。

特に、ここ1年間を見ても訓練内容は、私たちが生活している苫小牧で明確になっています。上空では訓練移転の規模拡大(最近は市内上空での騒音が頻繁です)、港では米艦船の強行入港、そして今回の戦車による公道走行です。

あの3.11大震災後の救援活動に従事していた自衛隊員の姿に、感銘した方が多かったことは事実です。が、震災復興・原発収束の目途がないなかで、北海道の戦車などが多額な税金を使ってまで訓練をしなければならないのか?まったく理解が出来ません。そんなお金があるのなら、直ちに復興支援に回すべきです。

不思議なことに、今月28日に帰還する予定ですが、その際には苫小牧港に到着後、トレ-ラーに戦車などを積み、東千歳駐屯地に戻るとのこと。最初から、公道走行の必要性がないことを実証しています。

 “慣熟”も訓練のひとつ。私たちが黙っていたら“いつか来た道”の繰り返しになります。 国政の重大問題として、経済・暮らしではTPP、軍事では沖縄普天間基地など。いずれも米国の要求に忠実に従っている野田政権の正体です。