続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

太平記の記憶・谷中観音

2024-01-21 19:33:52 | 邑楽紀行

昨夜から雨が降り続いていました

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、貧乏カッパでお散歩です。

今日は一日中室内犬で過ごします。

夕方は雨が上がって、ひめちゃんは南の方にいつもどおりお散歩です

赤城山には、まだ雪の残る所があります。

久しぶりに、ミックス犬のピーくんと逢いました

 

 

 

こぶ観音への道中、こぶ観音⇒と一緒に谷中(やなか)観音⇒もあります。

でも、途中でなくなります

谷中観音、はて行った事があるぞ

検索すると、こぶ観音の先でした。

 

 

気になって、1月5日出かけてみました

谷中集会所が境内にあるのです。

 

懐かしい優しさにあふれる如意輪観音に再会出来ました

あけましておめでとうございます

そしてお久しぶりです

 

由緒も確認です。

この観音様は夫婦和合・安産・長寿・ふくとくをみちびき、病気や苦難を救う霊験あらたかで、ご利益多く、老若男女の熱い侵攻を集めていることで古来幽明、本堂の霊仏は春日作で中野藤内左衛門景春の持仏である。

景春は中野城三代の城主で元弘三年五月八日新田義貞生品神社にて鎌倉倒幕の兵をあげた時、弟義春と参陣し北条高時を討ち幕府を倒す。義貞に従って建武政権に参加、足利高氏反旗をひるがえすや、各地に転戦。

延元二年三月六日義春越前金崎城で戦死、翌三年二月脇屋義助に従って越前鯖江で戦う。同年閏七月二日足羽七城総攻撃、総大将新田義貞藤島城に向かう途中矢面に立つのを景春がいさめたが聞き入れられず義貞戦死。その死骸の前に景春はぬかずいてあと追い自害。

景春殉死の知らせに悲しんだ奥方は山深い押落に庵室を結ぶ。

妙言尼と号し如意輪観音を安置して朝夕夫の冥福を祈る。

慶長三年九月中野氏の家臣の子孫 金井左五右衛門・神藤外記、押落の庵跡から谷中の現在地に如意輪観音を移し、世人に広く礼拝の御堂を建てる。

宝永五年四国修行僧堯親、東上州三十三観音霊場を定め、第九番札所となる。

 

ご本尊は、新田義貞に従って越前でなくなった中野藤内左衛門の持仏です

中野藤内左衛門は、生品神社の旗揚げから、新田義貞と一緒に行動していたのですね

太平記の記憶です

 

ウロウロしていると、車が乗り付け、家族で降りて鐘を鳴らして参拝し、慌ただしく去って行きます

普通に参拝する人達がいるようです

 

 

さて参拝です。

合掌

 

 

扉に案内が張ってあります。

ここは特定のお寺がかかわっているのではなく、地域で守っているようです

 

 

境内の石造物の皆さんです。

 

合掌

 

 

藤棚の奥にあった建物も確認です。

聖天山・神明宮・馬多楽神です。

とりあえず一礼です

 

 

売店によって、御朱印を求めます。

前回は開いてなかったと思います。

 

 

『上州の観音札所』(みやま文庫 内山信次・平成3)によれば、

(東上州卅三所)九番 谷中村 如意輪観音

        邑楽郡邑楽町大字中野字谷中

近年改修された立派な御堂である。境内には公民館、水飲み婆、便所、茶店、おみやげ用のかんのんせんべいまでそろっている。

明治三七年に金井喜四郎、多々木熊次郎等が上げた御詠歌の額が残っている。

 世をいとふ心のほども片掛くる

 たゞたのむべし法のちからを

 

御詠歌の額はわかりませんでした

でも、お土産用のせんべい類はありました

ざらめせんを買って帰りました。

手頃な値段でとてもおいしかったです

庶民が気楽に参拝出来る観音様でした

コメント
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