ひめちゃんは、堀之内を西に出ます。
いるでふよ
天神田に、シラサギが数羽います
こんなに何名もいることがあるんだ
河原浜町の案山子家族そばの信号を右折します。
なんとなく、大胡城を右回りに廻って帰ります。
少し心細く走行すると、あれ養林寺です
だいぶ前に、『念仏往生伝』大胡太郎の記憶を訪ねてきました。
何かのご縁でしょう
寄って行きます
駐車場も十分な広さがあります。
山門から参拝です。
大胡城のすぐ南になります。
山門は、かつては茅葺きだったのでしょう。
説明板を確認です。
鎌倉時代大胡太郎実秀といえる武将あり。浄土宗の宗祖法然上人に帰依し此の地に草案を立て念仏修行を怠らなかった。
徳川家康公の御家来牧野康成候は天正18年2万石を以て大胡城主となる。大胡太郎実秀の念仏の旧跡なるを聞き、養林寺を創設した。
牧野家は後に越後長岡に転封になり、幕末には戊辰戦争で敗れる悲劇に見舞われるのです。
そのときに寄せられた義援米100俵を、人材を育てることが一番大切と売り払って学校を建設した「米百俵」の物語がありました。
その中心になった小林虎三郎は、赤堀氏の子孫と言うことです。
「赤堀氏の子孫がなぜ越後長岡まで?」と思いましたけど、大胡の牧野家に仕え、主君の転封に従って長岡に行ったと言うことなのでしょう。
大胡太郎館跡の二十堀は分かりません。
でも、石垣が中世の館跡の雰囲気です。
門前の石造物は、ほとんど馬頭観音です
門前は幹線道路だったかな?
石垣が中世っぽいなあ
さて、本堂への道です。
百日紅が咲いてます。
こんなにも、この季節咲いている花だったんだ
あの建物は記憶にあります
前回はしっかり閉まってました。
右手の不思議な建物は手水社のようです。
本堂は開いてます
あれ、呑竜上人ですって
新田出身のひめちゃんちのおかあさんには、呑竜上人と言ったら、大田の呑竜様・大光院です。
(つづく)