続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

続・多賀城南門と壺のいしぶみ2024

2024-09-29 11:25:25 | みちのく紀行

小雨の朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、大急ぎで堀之内を回ります。

少し濡れて帰宅です

彼女らは、今日は1日中室内犬の予定のようです

本日は、アーカイブの写真でご容赦くださいませ

 

2年前(2022年)の9月、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の帰りよくケンくんちに寄りました。

ひめちゃんはケンくんが大好きでした

初めは用心していたタバサねーちゃんも、何時の間にかケンくんが好きになっってました

タバサねーちゃん、まだ足腰も丈夫で、弾む足取りで帰りました

 

 

 

 

だいぶできあがっている多賀城南門そばの、多賀城碑(壺のいしぶみ)を確認です。

 

西の文字だけははっきり見えます。

後はよく分かりません。

 

説明板を確認です。

新しいかな

 

下野国境から約147km、上野からだと300kmくらいかな

上野国は、蝦夷征伐軍の通り道でした。

食料を調達されたり、従軍させれたり移民させられたり、かなりの負担を強いられていたでしょう。

そんな民衆を見かねて、小師・道輪は山上多重塔を建てたのです。

 

朝鮮半島の付け根にあった国・靺鞨(まつかつ)まで3000里(約1600km)、海を越えて交流があったのでしょう。

かつては、会津から阿賀野川沿いに日本海に出る道があったとか言いますね。

また、津軽の北岸に、十三湊(とさみなと)という大都会があって、港には様々な国の舟も集っていたという話もあります。

(『封印された「あずまみちのく」の古代史』相原精二 2011 洋泉舎)

いずれにせよ、靺鞨は多賀城と多くの交流があったのでしょう

 

 

さて、壺のいしぶみを後に復元された南門を横目に、多賀城政庁跡に向かいます。

100名城スタンプは、多賀城政庁跡の奥の方です。

あの南門を通って、政庁への大路を歩けるのは、都から来た3人だけだったとか聞いた事があります。

何年か前、あやめ祭りの時、ボランティアガイドさんが解説してくれました。

 

政庁への大路を上ります。

以前より整備されています。

右の丘の上にも建物が建ってます。

帰りに探索しましょう

 

この大路を上ります。

 

まもなく、多賀城創建当時の南門ですって

創建当初はここにあり、後に120m南の位置に移動したんですって

 

振り返って南門です。

政庁跡への階段を上ります。

伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)に焼き討ちされた石、見つかるかな?

 

 

(つづく)

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