小雨の朝です
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、大急ぎで堀之内を回ります。
少し濡れて帰宅です
彼女らは、今日は1日中室内犬の予定のようです
本日は、アーカイブの写真でご容赦くださいませ
2年前(2022年)の9月、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の帰りよくケンくんちに寄りました。
ひめちゃんはケンくんが大好きでした
初めは用心していたタバサねーちゃんも、何時の間にかケンくんが好きになっってました
タバサねーちゃん、まだ足腰も丈夫で、弾む足取りで帰りました
だいぶできあがっている多賀城南門そばの、多賀城碑(壺のいしぶみ)を確認です。
西の文字だけははっきり見えます。
後はよく分かりません。
説明板を確認です。
新しいかな
下野国境から約147km、上野からだと300kmくらいかな
上野国は、蝦夷征伐軍の通り道でした。
食料を調達されたり、従軍させれたり移民させられたり、かなりの負担を強いられていたでしょう。
そんな民衆を見かねて、小師・道輪は山上多重塔を建てたのです。
朝鮮半島の付け根にあった国・靺鞨(まつかつ)まで3000里(約1600km)、海を越えて交流があったのでしょう。
かつては、会津から阿賀野川沿いに日本海に出る道があったとか言いますね。
また、津軽の北岸に、十三湊(とさみなと)という大都会があって、港には様々な国の舟も集っていたという話もあります。
(『封印された「あずまみちのく」の古代史』相原精二 2011 洋泉舎)
いずれにせよ、靺鞨は多賀城と多くの交流があったのでしょう
さて、壺のいしぶみを後に復元された南門を横目に、多賀城政庁跡に向かいます。
100名城スタンプは、多賀城政庁跡の奥の方です。
あの南門を通って、政庁への大路を歩けるのは、都から来た3人だけだったとか聞いた事があります。
何年か前、あやめ祭りの時、ボランティアガイドさんが解説してくれました。
政庁への大路を上ります。
以前より整備されています。
右の丘の上にも建物が建ってます。
帰りに探索しましょう
この大路を上ります。
まもなく、多賀城創建当時の南門ですって
創建当初はここにあり、後に120m南の位置に移動したんですって
振り返って南門です。
政庁跡への階段を上ります。
伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)に焼き討ちされた石、見つかるかな?
(つづく)