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八甲田死の雪中行軍真実を追う 100 名山深田久弥

2014-01-21 09:57:05 | 日記
八甲田死の雪中行軍の真実を追う
三上 悦雄
河北新報出版センター
新田次郎八甲田山死の彷徨の書かれる前にすでに地元青森県で独自に調査をし八甲田連峰吹雪の惨劇を出版していた小笠原 孤酒さんがおられました。
後に作家新田次郎氏はこの小笠原弧酒の資料を参考、取材を元に八甲田死の彷徨を書き上げました。
小笠原弧酒に対して当時の流行作家新田次郎氏の取材協力するのは自身のためにならないと忠告する人もいました。
それは有名作家新田次郎の影響力を恐れたからでした。弧酒が時間をかけて五部作のうち二部をようやく書き上げている間に新田次郎氏は八甲田死の彷徨を早々に書き上げてしまいました。
新田次郎氏から届いたその本を読み弧酒はがく然としました。それは八甲田山の行軍、遭難事故は軍部の暴走によりおきたと結論づけられていました。
弧酒は自身が育った故郷青森でおきたこの遭難事故が人々の記憶から忘れさられ真実を語る当事者が亡くなる前にはそれを調査しようとわずかな私財を売り払い取材を続けました。
何も新田次郎氏にとんびに油揚げをさらわれ訳では無く自身の郷土愛それは遭難事故の犠牲者の多くが青森に集中しその名誉が汚されたと感じたからです。
そしてそこに同郷の新聞記者三上悦雄が現れます。新田次郎氏との関係、小笠原弧酒を取材し事の真相に迫ったのがこの八甲田雪中行軍の真実を追うです。
新田次郎と小笠原弧酒、三上悦雄と間にある違いは二人は青森県人であると言う事です。
どちらが正しいと言うのではありません。新田次郎氏は流行作家後の二人は取材記録を通して真実を残そうとほんそうした一市民。 自分自身も以前ブログで八甲田山の遭難は無謀で後の軍部の暴走に歯止めがかからずに悲劇的なその後の長い戦争に結びついたと書きました。
しかし八甲田山の遭難事故の教訓が後に日露戦争の勝利へ結びついたと言う見方をもあります。
郷土愛に満ちた青森県人の2人が言いたかった事はけっしてむだ死にでは無かったと言うことにつきると思いました。

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