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前作『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー作品賞はじめ4部門でノミネートされ、国際長編映画賞を受賞。一躍、日本を代表する映画作家となった濱口竜介の最新作は180分の前作から一転、わずか106分に凝縮され、文字通り観客を煙に巻くミステリアスな作品だ。
長野県の山深い田舎町にグランピング場の建設計画が持ち上がる。企画、運営に携わるのは東京に本社を置く芸能事務所で、拙速な計画がここまで通ったのはどうやら政府の助成金を見込んでのことらしい。住民集会にはろくろく権限もない担当者が2名派遣されるばかりで、住民たちからの理路整然とした質問にも答えることができず、自ずと場は紛糾していく。
見るべき場面はいくつもある本作だが、意外なことに最大のハイライトがこの説明会のシーンだ。『ドライブ・マイ・カー』でも繰り返された“素読み”を用いる濱口メソッドが、『悪は存在しない』というタイトルに自ら疑問を呈していく。不要な感情表現などの演技的虚飾を排し、ただテキストの意味だけを明瞭に浮かび上がらせる技法はまるで現在の日本に蔓延るあらゆる悪をつまびらかにしていくかのようだ(それでいて、今回の濱口の語り口には随所に笑いがこみ上げてしまう余裕がある)。声高に訴えることが必ずしも本質を突いているとは言い難い昨今、最も思慮深く明晰なのはこの山間に集った名もなき人々なのだ。
濱口とは同世代の作家アリーチェ・ロルヴァケルの作品を彷彿とさせるものもある。ロルヴァケルの映画では常に文明と未開、都市と農村、そして人間と自然が対比され、そこには現実と虚構を横断するマジックリアリズムがある。濱口もまた人間同士の愚かな振る舞いに収束することなく、自然に対する人間の傲慢さを観る者に突きつけ、唐突に物語の幕を引く。後に残された観客は映画館を出てもなお、反芻せずにはいられないのだ。本当に悪は存在しないのか、と。
『悪は存在しない』23・日
監督 濱口竜介
出演 大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采都、菊地葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎