「安部公房全集008 1957.12-1958.06」 1998新潮社
まだ1950年代、でもそろそろ終盤。
早く60年代の変化を感じたいものだ。経済のユートピア、国民総中流時代に向けて安部公房の作風・態度はどう変わっていくのか、行かないのか。政治的な発言は無くなっていくのか、芸術についてはどうか。演劇にはもっと力が入るのは70年代になってからか。まだまだ先だ。
エッセイ「アスピリン・ドラマ論」ではだいぶ予想が違っていたようだが、IT革命とメディアミックスの方向への見方は合っていたね。
エッセイ「「アイドル」的思考」・・・「アイドル」って『怠けもの』って意味だったのか・・・アイドリング、待機中みたいな感じかな。
戯曲「仮題・人間修業」は、以前の「人間修業」の前段階から始まるのね。天国も地獄も同じで、好き勝手生きてきた人間が罰も受けず喜び、人生を我慢して天国へ行った人間が後悔に苛まれるというのは面白い。
エッセイ「「裁かれる記録」「砂漠の思想」」これまでも、砂についてたびたび記述があったが、満州が半砂漠的だったという。なるほど、それが「砂の女」につながるのかもしれない。
エッセイ「裁かれる記録「ばらを摘み取れ」」で、「よい子教育」批判をしているのですが、安部公房がTVアニメ「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」を見たら果たして絶賛するだろうか。言っていることの方向性は同じだと思うのですが・・・そして認識破壊からの実存確認・新しい価値の創造というような態度とか。ははは。
エッセイ「裁かれる記録[あとがき]」に「記録はつねに、記録自身によって裁かれる」・・・本当ですね。
エッセイ「先進国」で、「エジプトとシリアが一緒になってアラブ連合」という記述を見た。???ああ、3年くらいでシリアは抜けたのね。Wikipedia
エッセイ「カラフト犬」安部公房はねこを食べたのか・・・食糧難の飢餓から。そりゃ、「タロウ・ジロウ」言ってられないわ。「南極物語」が白々しくなるだろう。
エッセイ「鏡」今日の被害者はあすの加害者!自己批判を忘れる人々。
エッセイ「記録精神について」 芸術は、作品によってはじめて認識される世界。
対談「芸術と言葉」 芸術はケイレン。
戯曲「幽霊はここにいる」 幽霊を認めるのであれば、そもそも日本国民の定義とは。税金は?
3回目か4回目かの改作になるわけだよね。「人間修業」からの。流石によく練られているわ。そして、とうとう幽霊は正体を現す。ああ、なるほど、鏡を見たがらない理由がそこにあったのか。