「安部公房全集020 1966.01-1967.04」 1999新潮社(2007年2刷)
座談会など面倒くさいのだが、だんだん知っている名前が増えてくると読みやすい気がするのはなぜだろう。同じようにわけのわからないことを言っているのに。
小説「カーブの向う」 あれあれ、020を読み終わってからタイトルを見直したが全然内容を思い出さないぞ。ラストの部分を読めば大抵の作品は思い出すものだ。しかし、なにも思い出さないというのはどういうことだ。わたしが記憶喪失になったのか、認知症なのか、それとも作品の方が印象の薄いものだったのか。ああ、記憶喪失だ!私じゃなくて主人公が。やっと私は思い出した。印象が薄い作品というよりもわけのわからないものだった。
三島由紀夫との対談、ああ、自決事件はこれから4年後なんだな。安部公房はどういう反応を示したのだろう。全集の中でそれに触れた文章はあるのだろうか。無いわけがないとは思うが。対談の内容などはどうでも良くて、そんなことばかり思って読む。
シナリオ「他人の顔」はなんかほかの作品とドッキングしてないか。
展開がわかりやすくていいのだが、逆に作品は難解になっているかもしれない。
対談「テレビ時代の思想」
大宅壮一「まあNHKのようなものは、御用マスコミ的な性格を持っていますね」
座談会「『21世紀の日本』を考える」安部公房・星新一・小松左京・福島正美・石川喬司
政府が募集をしたらしい。さすがにこのメンバーであるから政府はコテンパンですわ。「審査員を審査しよう」なんてね。まあそうですわな。政治が口を出せばなんでも怪しげなものになるわけで、特に文化的なものなんかはそうですわな。たいてい答えありきでそれに沿ったものが求められるという。
福島さんの車の自動運転予測は当たりましたね。そうですよ、この座談会から20年じゃできていません。50年かかりましたよ。
小説「人間そっくり」 もうね、読んでいるのが嫌になる。嫌になるのに止められない。安部公房の作品にはこの傾向のものがあるよね。押し売り的な形は「友達(闖入者)」と同じだ。それにして何回『気ちがい』というのか。そして誰が気ちがいなのだろう。登場人物全部か?言葉遊びか理論(屁理屈)か。いったいどれだけ用意周到な気ちがいか。どこかで解説でも読んだかもしれないな、そういう状態に陥っていくは自分に自信を持っている理論家だと。根本的な問題を置き去りにして目の前の理論(理屈)で勝利しようとする。なるほど、用意周到な詐欺なんかに引っかかりやすいかもしれない。
そして結局迷路から抜け出せなくなった。
ああ、「ラピュタ(ラピュータ)」は「ガリヴァー旅行記」に出てくるのか。
※P351上段後ろから4行目、安岡「ぼのいったような意味だと思う」・・・「ぼ」?「ぼく」ですか?まさか、こんな全集で、しかも2刷りだよ。抜けているんじゃなくて「ぼ」と言ったんだろう。それとも「ぼのいった」という表現があるのかも・・・www
エッセイ「友達ー「闖入者」より」
演劇用の指示書らしい。こういう解説(答え合わせ)こそが読者としては欲しいのだが、作者的には『自分で読み取れ(わかる奴だけついて来い)』という態度なんだろうな。どうなんだろ。いや、そういうのは評論に任せているわけか。評論家と作家が互いに闘って育て合うみたいな理想を持っていたみたいだし。
エッセイ「時をたがやす」 時間開発の時代は21世紀になっても続いていますよ。
戯曲「黒い喜劇 友達」 やっぱりねえ、これは反共にしか見えないわ。「おまえのものはみんなのもの」で死ななきゃ救われないという。それにしても主人公の生き方にも疑問がわくね。自己中な個人主義で地域においても会社においてもコミュニケーションがうまくとれてなかったのではないか。安部公房の人間はそういえばみんな単純な損得みたいなもので動き、感情はネガティブなものばかりのように思える。『愛』は無いよね、どころか否定されているみたいだ。どこかに(感情的に)喜んでいる登場人物はいたかね?