暖房が効いた部屋を一歩外にでると一気に冷気の洗礼を受ける
横浜はまだシトシトと雨が降っており、予報では「明日も雲が居座りスッキリしない空」
「午前中はチラッと雪が舞う可能性があり、朝より夜の方が冷えるので、帰り道は一段と
厳しい寒さになる・・・」そうだ
さて、海を渡った「帝国日本芸人一座」のなかに“曲独楽の松井菊治郎一座”がいた
日本を経ったとき菊治郎は31歳。希望を胸に海を渡ったものの、巡業中、体調は悪かった
菊治郎は久しく肺結核をわずらっており、明治元年3月6日(1868.4.8)、夢半ば、
ロンドン郊外のアッパー・スタムフォード街20番地において客死する
その2日後、ロンドンはみぞれまじりの大雪だった
江戸から同行した菊治郎の後見人「高野広八」が葬儀をだし、菊治郎の遺骸は、ロンドンから
54㎞はなれた所にある「ウォーキング共同墓地」(現・ブルックウッド墓地)の一等墓地に
埋葬された・・・
「曲独楽(きょくごま)」は、独楽を使った日本古来の曲芸であり、実際他人の目に触れて
芸人らしい記述が登場するのは1600年代の事である
博多からやってきた初太郎という少年が、京都の四条河原で鉄芯の独楽の演技をして
これが大評判となり、大阪まで公演したという記録が残っている
さて、この伝統ある“曲独楽”で生計をたてようとチャレンジした友人がいる
ほんの一時期であったが、“曲独楽”と聞くと彼の顔が浮かんでくる・・・
彼と出会ったのは磯子にあった先輩のアパートだった
聞けば売れない役者をしており、「仕事がないから金がない。」そんなわけで、
先輩のアパートに転がり込み“居候”として住み着いていた
アパートを訪ねるといつも先輩は不在、しかし、居候はたいていゴロゴロしており、
人懐っこい笑みを浮かべ、あたかも彼の家と勘違いするほど違和感なく迎えてくれる
おまけに彼の話は実に面白かった!!
いつの日か、先輩を訪ねるのではなく、「彼の話し」を聞きにアパートを訪ねる!!
これがオイラの楽しみでもあった
それから暫くして彼に大きなチャンス!が訪れる
テレビドラマ『翔んだライバル』への準レギュラー出演が決まり、さらに、映画でも
準主役に大抜擢される!日活ロマンポルノで大ヒット!した『ピンクのカーテン』だ!
当時大人気だった美保純の相手役(準主役)として大抜擢される
さらに、俳優だけでは飽き足らず、当時人気絶頂だったツービートに憧れ、やがてお笑い
芸人を目指すことになる。彼は迷わずビートたけしに弟子入り、晴れて「たけし軍団」の
一員となるのである。記憶は定かではないが、確か9番目の弟子だったと思う
いままでオイラの話し相手だった彼が一躍大スターになっちまう
が、それだけ売れても一向に居候生活を止める気配はない。
少しでも時間が空けばアパートでゴロゴロしている
そんなわけで、テレビや映画の裏話(楽屋話)をたくさん聞くことができた
彼は、芸人としてはイマイチだったが、彼の楽屋話は天才的なものがあった!
それは笑い過ぎて腹筋が痛くなるほどで、いつも涙を流しながら聞き入っていた
しかし、なんの前触れもなく、彼は忽然と姿を消してしまう
あとでわかったのは彼が「たけし軍団」を辞めたということ・・・
まだ「携帯電話」などなかった時代、連絡の取りようがなかった・・・
それから数年後の正月だった
NHKの演芸番組を見ていて驚いた!行方不明の彼が相棒とともに「曲独楽」をしている
じっくり目を凝らしてみたが、間違いなく彼だった
すると、仲間の数人がそれを見ていたようで、「あいつ独楽回しになっちまったぜ!」
久しぶりに元気な顔を見た。なにより、彼の“生存”を確認できたが嬉しかった
しかし、曲独楽師としての彼を見たのはこれが最初で最後だった
それから月日が流れ、数十年後のこと。再びテレビのなかで彼を見つけた!
たけし軍団の“そのまんま東”が宮崎県知事に立候補したときのこと
東のとなりに見覚えのある顔・・・・
かれこれ20年以上も経っており、髪もずいぶん薄くなっていたが、彼に間違いない
彼は、たけし軍団在籍中から親しい間柄だったそのまんま東とは、軍団を抜けた後も
付き合いが続いていた
そして、知事選に立候補した東からの要請を受け、選挙活動のスタッフとなり、東が
宮崎県知事に就任してからは、知事の政務秘書を務め、その政務秘書の仕事ぶりは、
しばしばテレビでも特集が組まれるほどだった
すると、仲間の数人がそれを見ており、「あいつ秘書になっちまったぜ!」
再び、テレビで彼の“生存”が確認できた!!
彼の名は吉川敏夫(よしかわとしお)という。軍団時代の芸名は「クロマニヨン吉川」
すでに所帯を持ちふたりの子供もいるという
機会があれば、コタツに入りながら、じっくり昔話でも聞きたいね~~
腹筋が痛くなるまで・・・