濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

サーカス その2

2013年02月18日 | ひとりごと・・

暖房が効いた部屋を一歩外にでると一気に冷気の洗礼を受ける
横浜はまだシトシトと雨が降っており、予報では「明日も雲が居座りスッキリしない空」
「午前中はチラッと雪が舞う可能性があり、朝より夜の方が冷えるので、帰り道は一段と
厳しい寒さになる・・・」そうだ

さて、海を渡った「帝国日本芸人一座」のなかに“曲独楽の松井菊治郎一座”がいた
日本を経ったとき菊治郎は31歳。希望を胸に海を渡ったものの、巡業中、体調は悪かった
菊治郎は久しく肺結核をわずらっており、明治元年3月6日(1868.4.8)、夢半ば、
ロンドン郊外のアッパー・スタムフォード街20番地において客死する

その2日後、ロンドンはみぞれまじりの大雪だった
江戸から同行した菊治郎の後見人「高野広八」が葬儀をだし、菊治郎の遺骸は、ロンドンから
54㎞はなれた所にある「ウォーキング共同墓地」(現・ブルックウッド墓地)の一等墓地に
埋葬された・・・

「曲独楽(きょくごま)」は、独楽を使った日本古来の曲芸であり、実際他人の目に触れて
芸人らしい記述が登場するのは1600年代の事である

博多からやってきた初太郎という少年が、京都の四条河原で鉄芯の独楽の演技をして
これが大評判となり、大阪まで公演したという記録が残っている

さて、この伝統ある“曲独楽”で生計をたてようとチャレンジした友人がいる
ほんの一時期であったが、“曲独楽”と聞くと彼の顔が浮かんでくる・・・

彼と出会ったのは磯子にあった先輩のアパートだった
聞けば売れない役者をしており、「仕事がないから金がない。」そんなわけで、
先輩のアパートに転がり込み“居候”として住み着いていた

アパートを訪ねるといつも先輩は不在、しかし、居候はたいていゴロゴロしており、
人懐っこい笑みを浮かべ、あたかも彼の家と勘違いするほど違和感なく迎えてくれる

おまけに彼の話は実に面白かった!!
いつの日か、先輩を訪ねるのではなく、「彼の話し」を聞きにアパートを訪ねる!!
これがオイラの楽しみでもあった

それから暫くして彼に大きなチャンス!が訪れる
テレビドラマ『翔んだライバル』への準レギュラー出演が決まり、さらに、映画でも
準主役に大抜擢される!日活ロマンポルノで大ヒット!した『ピンクのカーテン』だ!
当時大人気だった美保純の相手役(準主役)として大抜擢される

さらに、俳優だけでは飽き足らず、当時人気絶頂だったツービートに憧れ、やがてお笑い
芸人を目指すことになる。彼は迷わずビートたけしに弟子入り、晴れて「たけし軍団」の
一員となるのである。記憶は定かではないが、確か9番目の弟子だったと思う

いままでオイラの話し相手だった彼が一躍大スターになっちまう
が、それだけ売れても一向に居候生活を止める気配はない。
少しでも時間が空けばアパートでゴロゴロしている
そんなわけで、テレビや映画の裏話(楽屋話)をたくさん聞くことができた

彼は、芸人としてはイマイチだったが、彼の楽屋話は天才的なものがあった!
それは笑い過ぎて腹筋が痛くなるほどで、いつも涙を流しながら聞き入っていた

しかし、なんの前触れもなく、彼は忽然と姿を消してしまう
あとでわかったのは彼が「たけし軍団」を辞めたということ・・・
まだ「携帯電話」などなかった時代、連絡の取りようがなかった・・・

それから数年後の正月だった
NHKの演芸番組を見ていて驚いた!行方不明の彼が相棒とともに「曲独楽」をしている
じっくり目を凝らしてみたが、間違いなく彼だった

すると、仲間の数人がそれを見ていたようで、「あいつ独楽回しになっちまったぜ!」
久しぶりに元気な顔を見た。なにより、彼の“生存”を確認できたが嬉しかった
しかし、曲独楽師としての彼を見たのはこれが最初で最後だった

それから月日が流れ、数十年後のこと。再びテレビのなかで彼を見つけた!
たけし軍団の“そのまんま東”が宮崎県知事に立候補したときのこと
東のとなりに見覚えのある顔・・・・

かれこれ20年以上も経っており、髪もずいぶん薄くなっていたが、彼に間違いない
彼は、たけし軍団在籍中から親しい間柄だったそのまんま東とは、軍団を抜けた後も
付き合いが続いていた

そして、知事選に立候補した東からの要請を受け、選挙活動のスタッフとなり、東が
宮崎県知事に就任してからは、知事の政務秘書を務め、その政務秘書の仕事ぶりは、
しばしばテレビでも特集が組まれるほどだった

すると、仲間の数人がそれを見ており、「あいつ秘書になっちまったぜ!」
再び、テレビで彼の“生存”が確認できた!!

彼の名は吉川敏夫(よしかわとしお)という。軍団時代の芸名は「クロマニヨン吉川」
すでに所帯を持ちふたりの子供もいるという

機会があれば、コタツに入りながら、じっくり昔話でも聞きたいね~~
腹筋が痛くなるまで・・・

サーカス

2013年02月18日 | ひとりごと・・

昨日(17日)から、9年ぶりに横浜で“サーカス”の興業がスタートした!!!
先日、会場となるJR桜木町駅前を通ったら、真っ赤なテントが設営されていた
テントの主(あるじ)は創立110年を迎えるサーカス団「木下大サーカス」だ

木下大サーカスといえば、国内最大のサーカス団であり、かつ、ボリショイサーカス(露)、
リングリングサーカス(米)と並んで「世界三大サーカス」のひとつとして世界的にも
高い評価を受けている

ところで、横浜がサーカス発祥の地であることはご存じだろうか?
横浜が開港したが1859年。それから5年後の1864年、アメリカ・リズリー・
サーカス団が来浜、外国人居留地(現在の山下町)で日本初となる興業を行った
しかし、結果は散々・・・日本初の興業は“大失敗”となった

なぜなら、興業が行われた横浜の外国人居留地は外部と遮断するため掘割で仕切られ、
さらに、入り口にある橋のたもとには関所が設置されており、厳重な監視体制のもと、
簡単に町人が出入りできる環境になかった

ちなみに、関所の内側を「関内(居留地)」、その外側を「関外」と呼び、現在の市役所、
県庁などがあるハマの中心部「関内(かんない)」は、当時の“名残”なのである

話は戻るが、初めのサーカス興業、客は殆どこない
困り果てたリズナーが目にしたのが日本の“見世物”だった。当時の見世物とは、
芸種別に一座を組んで個々に興行を行っており、手品、足芸、独楽(こま)など、
所謂、日本の昔ながらの“伝統芸能”だった

そのとき、リズナーは閃いた!
これを“ひとつの集団”に編成。「サーカス」と同じ興業スタイルで売りだしたら
儲かるんじゃねーか!?

早速、足芸の濱碇定吉一座、手品の隅田川浪五郎一座、また、曲独楽の松井菊治郎一座を
スカウト!「帝国日本芸人一座」を編成、米国、そして欧州諸国などで興業をうつ!!
これが行く先々で大当たり、かくしてプロモーターのリズナーは大儲けしたそうだ

キャリーパミュパミュが欧米でデビューし、喝さいを浴びる150年もまえのこと

さて、日本人が、それも芸人という“民間人が初めて外国に渡航”することになった
慌てた幕府、初めて、現在のパスポートに当る「御印章」を発給する

この光栄な第一号御印章は隅田川浪五郎のもので、最初に出国したのは松井菊治郎一座、
時は慶応2年10月25日、浪五郎さんは、イギリスへ向けて横浜港を出航した

遅れること4日後、第一号御印章の隅田川浪五郎一座が米国サンフランシスコへ向けて
横浜港を出航する。そのころ我が国は、“幕末”の真っただ中、翌年、慶応3年、京都で
坂本龍馬が暗殺される。それからほどなくして大政奉還が行われ、元号も慶応から明治と
改元された

海外公演中の「帝国日本芸人一座」、一行は、明治2年1月14日、ニューヨークで
千秋楽を迎え、その後、解散したと伝えられているが、そんなわけで、ちょんまげの
御一行さま、公演先の外国で幕府崩壊、そして、明治新政府の成立を耳にすることになる

現在放映中の大河ドラマ「八重の桜」、これと時同じころ、横浜港から「帝国日本芸人一座」が
世界へと旅立っていったのである

備えあれば憂いなし

2013年02月18日 | ひとりごと・・

横浜は、日替わりで天気がめまぐるしく変化している
予報によると、暫くは、天気は周期変化し、気温のUP&DOWNが激しくなりそう!
週の始まりは冷たい「雨」からスタートした

ちょうど今日は、二十四節気の「雨水(うすい)」
空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころを意味しており、それゆえ、
この時節から寒さも峠を越えるように思えるが、横浜の“冬”はこれからが本番!
サクラが咲くころまでは気が抜けない

さて、巷では、インフルエンザがジワーっと蔓延しているようだ
オイラの会社でも“本社”で社内感染が相次ぎ、某管理部門では、ひとりを除き全員が
感染したらしい・・・こうなると「自己管理」というレベルではなく、企業としての
「危機管理」に問題あり!?


しかし、どれほど危機管理が徹底していても防ぎようがない“突発的”なこともある
ロシアの隕石、これには驚いた!だれも空から隕石が降ってくるとは思っていない!
確率的には「どこに落ちても不思議ではなく、日本でも可能性がある」と言っていた

そして、気の毒だったのがアルジェリアとグアムでの事件
なかでも、グアムの事件現場になった“タモン”は観光客であれば誰しもが訪れる処
オイラも事件現場のすぐ隣のホテルに滞在したことがあるし、車が突っ込んだお店の
2階で食事をしたし、確率からいえば僅かであろうけど、けして“ゼロ”ではない

元来、「危機管理」とは“国家間の安全保障”が最重要課題だった
が、いまじゃ、防災や防犯、テロ対策、企業経営などさまざまな危機(マルチハザード)
が対象となっており、特に、東日本大震災以降“自分の身は自分で守る!”という意識が
急激に高まっているように感じる

もはや、リスクマネジメント(Risk management)も企業だけの問題ではなくなってきた
日頃から、いかなる危険による不測の損害を最小限に食い止めることができるか?
関内、福富町、そして野毛あたりをフラフラしている場合じゃなかった!!
少しは真剣に考えなくちゃ・・・・深く反省・・している!?

こういう突発的なことがあると、すぐに浮かんでくる言葉がある
「備えあれば憂いなし」

中国最古の歴史書であり、堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集「書経」
にある殷の宰相「傳説」のことばである

原文は、
「これ事を事とする(するべきことをしておく)乃ち其れ備え有り、備えあれば患い無し」
とあり、「憂い」は「患(い)」とも書く

某保険会社のキャッチコピーとして世に広まったものであり、これに類似したものとして、
「後悔先に立たず」「転ばぬ先の杖」「念には念を入れよ」などがあり、先人たちも
いろんな経験(失敗)を重ね、こうした危機管理の精神を警鐘してきた

ところが、「備えあれば・・」を“供えあれば”と勘違いしている輩がいた
聞けば毎日欠かさず「神様」や「仏様」にお供えをしているというから感心する
しかし、これだけ不測の事態が相次いでいる現世、もはや、神頼み(信心)しておくのも
あながち間違いではない・・・かもしれない

供えあれば憂いなし!

いつやるんですか!?
いまでしょう!!