明確なことは覚えてないが、過去、どこかの美術館、若しくは資料館で見たことがある
幕末の三舟といわれる賢人たちが遺した書を・・・
その三舟の書がこれだ
右から、
・勝海舟 花気渾(まじ)りて百花の如く香し 海舟散人
・山岡鉄舟 芳草匂い碧雲乱る 鉄舟高歩書
・高橋泥舟 進退優遊敬恭を守る 泥舟居士書
勝海舟は言わずとも知れた幕末・明治の幕臣であり政治家だ
幕府では軍艦奉行、維新後は新政府の海軍大輔・参議兼海軍卿・枢密顧問官となる
山岡鉄舟、通称は鉄太郎。あの!千葉周作の門下生であり、のち無刀流を開く
高橋泥舟は義兄であり、泥舟らと江戸治安維持にあたった
維新後は明治天皇の養育係となり、いまでいえば静岡県知事、茨城県知事を歴任した
高橋泥舟は槍の達人!若くして幕府の講武所の槍術教授となる
江戸城炎上の際、幽閉の身を犯して主君徳川慶喜公を警護したことは有名な話
勝海舟、山岡鉄舟とはかり、江戸城無血開城に尽力した
晩年、隠居の身の慶喜公と共に過ごし、世に出ざるの誓いをたて「泥舟」とした
オイラ、三舟のなかでも勝海舟の江戸っ子気質が大好きで、海舟語録を読んでいると、
つい!最後の江戸っ子といわれた雷門の大将(色川)と重なってしまう!!
如何にも海舟!ってーやつを幾つかを紹介しよう!今に通じるものばかりだ
・自分の価値は自分で決めることさ
つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ
・どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ
・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか
どうせなるようにしかならないよ!
・世の中に無神経ほど強いものはない
さて、マクラが長くなってしまったが、三舟に至ったのは、1通のメールからだった
差出人はいつもお世話になっている横浜のyasuさんだ
内容は、「芝の東京港醸造って知ってますか?」というもの
残念ながら存じ上げず、少しずつ調べていくと誠に興味深い話が次から次へと出てくる
こりゃ~歴史が刻まれたとんでもない酒蔵!!じゃん!!
そして、扉を開けるとその奥深くまで引き込まれていった・・・・
さて、「東京港醸造」をネットで検索、東京都港区芝にある造り酒屋さんであること
オイラの会社からも近く、歩いて行ける距離であること
しかし、申し訳ないけど、その存在はまったく知らなかった・・・・
とにかく、港区芝といえば都心のど真ん中!そこに造り酒屋があるとは驚いた!
しかも、単純に古くからある酒屋さんということではなかった!!
江戸、幕末にかけて「江戸城無血開城」とも関連のある酒屋さん!!
本当にたまげたね!!
その歴史は今から約200年前まで遡る
当時、芝近辺には、薩摩藩の上屋敷や蔵屋敷などが立ち並び、さらに以前にもブログで
紹介した「芝浜の魚市場」もあり、界隈は非常に活気に満ち溢れていた
この地に、訳あって、信州飯田藩の御用商であった「若松屋」の次男“林金三郎”は、
酒造りに通じた“齊藤重三郎”と連れ立って、江戸に居を移し、飯田藩主堀家の
下屋敷がある芝の地で造り酒屋「若松屋」を開業したのが「東京港醸造」の原点
東京港醸造の原点となった若松屋は、文化9年から、廃業となる明治42年まで続く
そして、それから100年後の平成23年、齊藤重三郎から7代目、8代目に当たる
親子さんが、酒造業の復活をめざし製造免許を取得!「東京港醸造」を再開させた
特に、創業当時からご近所である薩摩藩とは繋がりが強かったと伝えられている
若松屋では、勝海舟や西郷隆盛をはじめ、歴史上数多くの偉人が奥座敷を訪れては、
此処で“密談”が行われていたと推測される
奥座敷を利用したのは西郷隆盛の他、勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟、それに坂本龍馬!
幕末史を彩る蒼々たる面々の名が伝えられているが、その理由は、
若松屋には、特別な要人を接待するための特別な奥座敷が設けられていたからだ
この奥座敷の裏側には寺院と墓地があり、その先が江戸湾に注ぎ入れる堀だった
つまり、緊急時の逃亡口として非常に最適な立地にあったからだと云われている
なるほど!かの!西郷隆盛も寝泊りした・・というのはこういうことだったのか!
さて、創業当時の「若松屋」であるが、酒蔵知識を持つ齊藤重三郎によってかなり
順調な滑り出しだったそうだ。さらに、ときの老中であり、天保の改革を実行した水野忠邦、
彼を支えたことで知られる十三代・後藤三右衛門は「若松屋」林金三郎の実の弟!
薩摩藩、そして、後藤家を通じて大藩の御用などを務めるようになった「若松屋」、
その繁盛ぶりはかなりのもんだっただろうね!
ところが、天保の改革の失敗で失脚した水野氏、これに連座して「若松屋」には
次々と不幸な出来事が相次ぐ・・・・つづく