大将との出会いは34年前に遡る
オイラがまだクソ生意気なガキンチョ!で、血気盛んなころである
「三社祭を見たことがあるか?」
「聞いたことはあるけど見たことないです」
「そうか、今週末だから浅草まで遊びに来いよ!案内してやる」
当時、横浜で仕事を通じて知り合った大将の弟さんからの誘いだった
祭りの当日、オイラは見物客として軽い気持ちで浅草へとでかけ、
実家である雷門の「ウナギ屋」さんで大将にご挨拶
すると、大将は、
「祭りは見るもんじゃないよ!嫌いじゃねーだろう!?すぐに支度しな」
この一言がきっかけとなり、あれから30有余年!欠かすことなく、毎年、
三社祭に参加している。もちろん「担ぎ手」の一員として・・
「もし来なけりゃ、ヘッドロックしてでも連れてくるからなア~!」
三社祭と言えば、江戸(東京)を代表し、全国的にも有名な祭り
2日間で約200万人の観衆が祭り見物に押し寄せ、祭り好きといわれる
連中にとっては憧れの祭りでもある。しかし、担ぎ手が殺到、喧嘩が絶えず、
あるときを契機に“原則”地元の人間しか神輿を担ぐことができなくなった
そんなわけで、オイラがお世話になった当時は規制なんていうものはなく、
なにより、大将の家業であるウナギ屋の屋号が染め抜かれた半纏!
文句やイチャモンをつけるようなチャレンジャー!?は皆無だった
むしろ、半纏の屋号に気付き、揉め事なしで本社神輿の華棒を担ぐなど、
ありえないような“特典”というか、“特権”が担保されていた
さて、雷門のうなぎ「色川」、創業は文久元年、大将は六代目当主
昭和50年代、色川は知る人ぞ知るという隠れた名店であり、浅草の旦那衆、
その筋の幹部、噺家さん、芸能人、政財界の著名人がお忍びでくる店だった
とてもじゃないが、オイラのような若輩が軽々しく出入りできるような
お店ではなかったし、暖簾をくぐるにはかなりの覚悟が必要だった
あれから30年・・・・
アド街、和風総本家、鉄腕DASH!など、大将は「最後の江戸っ子」として
いろんなメディアに紹介されるようになり、いつしか店の前には大行列!
例え、親戚がこようとその列に並ばずして「色川のうなぎ」にありつけない
その賑わいは年を追うごとに激しさを増してくる
オイラですら“優遇”されることなく、雨であろうと外で待たされる
順番が来て、店に入ると大将が、「悪りーなア」とひとこと
それから何も注文することなく、大将と祭りの話で盛り上がる
三社祭、牛島神社の例大祭、第六天、鳥越の夜祭、など
その間、オイラは一切注文することなく、大将が出す「焼き鳥」「肝焼き」
そして、好物の「白焼き」を本ワサいただく
頃合いを見て、大将が必ず聞いてくれる「メシは食うか?」
「お願いします」と答えれば、飛びっきり上等な「ウナ重」がでてくる
そして、帰りには、必ず女将さんがオミヤで家族分のウナ重を持たしてくれる
そんなわけで、単なる色川の担ぎ手の一員という関係でもなく、客とお店・・
という関係でもない。長年のお付き合いのなかで、オイラと色川さんとの
関係は、大げさに言えば親兄弟のようなものだった
なにより、あのクソガキだったオイラを更生させ、「馬鹿でいいんだよ。
利口になんかならなくていい。気が利く人間。つまり、気配り、目配りが
大事なんだよ」と教えてもらったが、なかなか上手くできない
これは、オイラの永遠のテーマであり、日頃から意識し続けている
2014年3月24日
その日、仕事を終え、行きつけの整体で大将が急逝したとの知らせを受けた
「冗談だろう!よしてくれよ!!」
しかし、浅草界隈の住人達から相次いで同じ連絡を受ける
エプリールフールには早すぎるし、どうも嘘ではないらしい・・
大将は、前日の夜(日曜の夜)、異変を訴え、某病院に救急搬送された
救急車までは自力で歩行したが、乗る寸前、へたり込んでしまったらしい
が、誰もが大事になるほどの事態を想像できず、数日間、「検査入院」して、
何もなかったように、店を開けるものと信じて疑わなかったという
入院の翌日、娘婿が駆けつけ大将を見舞う
その婿さん対しての言葉が「悪り~なア」
大将のなかで最大級の感謝の意を表した言葉。シャイで、「ありがとう」とは
照れくさくて言えない。オイラもよく耳にしたフレーズである
まさかこれが大将の最後の言葉になるとは・・・
24日の昼過ぎに容態が急変、15時26分、家族、そして色川の担ぎで数名が
見守るなか、大将は息を引き取った
大将の信条は何事にも「まっつぐ」
まっつぐ・・とは、真っ直ぐが訛ったもので、言い換えれば「曲がったことが
大嫌い」「自分の信念はなにがあっても変えない」ということだと思う
江戸っ子は、真っ直ぐは「まっつぐ」、いつも一直線!と威勢がいい
いつか大将が言っていた
「江戸っ子はなア、義理と人情とやせ我慢。これっきゃないんだよ!、
これが江戸っ子の心意気、まっとうに生きなきゃ、お天道様に申し訳ねぇからな」
仕事をやり繰りし、大将の亡骸とやっと対面できたのは26日
安らかで、頬には赤みが差し、少し微笑んでいるかのように見えた
千歳から東京へ向かう機内、もし対面すれば「号泣」するんじゃないか?
そう思いながら浅草を目指した
しかし、号泣どころか、涙の一粒も流れてこない
なぜなら、三社祭では、何度も大将の隣で仮眠する機会があり、あの時となにも
変わらず、耳を澄ませば寝息が聞こえてきそう
亡骸と言う感覚はなく、気持ちよさそうに寝ている大将を起こしちゃいけない!
あまり大声で話をしていれば「うるせーんだよ!」と怒鳴られそう!
その日、千束のお寺でお通夜、翌日に葬儀、町屋の火葬場で大将は荼毘に付され、
浅草ビューホテルで精進おとしと、淡々と時間だけが過ぎていく
大将の葬儀に相応しく、生憎の空模様のなか、多くの参列者が大将との別れを惜しんだ
大将が召されてから1週間、いまだ夢を見ているよう。逝ってしまった!という感覚は
まったくない
大将!本当に逝っちゃたんですか?シャレでしょう!?
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