濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

清和月

2016年05月23日 | ひとりごと・・

現在、二十四節気は「小満(しょうまん)」夏の太陽の日差しを浴びて、すべての生き物が
生き生きと輝き、万物がすくすくと成長していく時期をいう。(5/21~6/5)

また、七十二候は「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」
蚕(カイコ)が桑を盛んに食べ始める頃ということだ・・・5/25まで

いまじゃ“カイコ”と聞いてもピーン!とこない若い人も多いのでは?
カイコを育てて繭をとることを養蚕(ようさん)というが、これも知らないか?
そして、クワの葉でカイコを育て、そのカイコが作った繭から糸をとる製糸業・・・

ところで、ご存知のように、1859(安政6)年に横浜が開港、これで外国との貿易が始まり、
絹は主製品として諸外国へ輸出されるようになった。明治から昭和初期にかけて生糸は、
日本からの輸出の70%~40%を占めていたそうだ

その結果、日本は、1900年頃からは中国を抜いて世界一!の生糸輸出国になった
当時、最大の輸出先はアメリカ。当時の日本は、生糸で稼いだお金で近代化のために必要な
機械などを購入。このように、その当時、唯一、外貨が稼げたのは「生糸」があったからだ

なんと!信じられないかもしれないが、横浜では、港北区・青葉区・緑区・瀬谷区・戸塚区・
泉区・保土ケ谷区の7区は養蚕が盛んだったという記録が残されている
ということは、横浜市は18区あるので、7区と言うと、市内の三分の一以上を占める

とくに、横浜にとってラッキーだったのは、カイコの伝染病によってヨーロッパで生糸が
品薄になっていたことだ。横浜に運ばれた生糸は高値で売れ、成功を夢見る人々も多く、
こうした連中はこぞってハマを目指したそうだ。どれだけ生糸が富をもたらしたのか?

明治期の国家予算はいくら少なかったとはいえ、横浜の豪商達が扱った生糸の輸出額は
国家予算に迫るものがあり、三渓園が自宅だった原三渓をはじめ、ハマの豪商達が得た
利益は半端じゃなかった!!短期間で王侯のような財力を手に入れたそうだ

ハマでは、初代茂木惣兵衛、原善三郎などが弁天通に店を構え、お互いに商売を盛り上げ、
有力生糸商人として成長していく・・・

そして、アメリカで、低価格で大量生産が可能なナイロンが開発される1940年代まで、
紡績は日本の主産業として発展を遂げることになるが、世界最高水準の技術で織りなす
シルクスカーフの「横浜スカーフ」は、いまもなお、世界でも有名なナショナルブランドだ

小満の次候は「紅花栄(べにばなさかう)」、そして末候は「麦秋至(むぎのときいたる)」
このように、5月の七十二候には、かつての重要な産業に関わる言葉が盛り込まれている

さて、5月の別名「皐月」は知っている人も多いかもしれない
ほかにもある。「清和月」は、この季節を簡潔に言い表した言葉である
平和で、優しく、朗らかな季節・・・オバマさんもこうした気持ちで広島を訪問してほしい

また、「木葉採月(このはとりづき)」は、蚕の食べる新鮮な桑の葉を採る月を意味する
何度か休眠を繰り返しながら成長したカイコが、最後に猛然とした食欲で桑の葉を食べる
そうすると、いよいよ糸を吐いて繭を作り始める・・・

いずれにしても、5月は、農家にとってカイコの世話と田植え、そして地域によっては、
麦の収穫、ありとあらゆる作業が重なり、一年で一番忙しい時期だ!!
ここから生まれたのが「猫の手も借りたい」という言葉だ

昔から、猫は大切なカイコをネズミから守ってくれる
そのため、時期になると、農家同士で猫を貸し借りすることもあったというから驚く!!
このように、猫の手もかつては大いに役に立っていたそうだ

最近の猫はネズミも捕らないし、ぎゃくに、ネズミに追われる・・・
これこそ、窮鼠猫を噛む・・・
5月に入り絶好調!!最下位から優勝を目指す!!ハマの某球団そのもの

最新の画像もっと見る

コメントを投稿