
昨日(17日)から、9年ぶりに横浜で“サーカス”の興業がスタートした!!!
先日、会場となるJR桜木町駅前を通ったら、真っ赤なテントが設営されていた
テントの主(あるじ)は創立110年を迎えるサーカス団「木下大サーカス」だ
木下大サーカスといえば、国内最大のサーカス団であり、かつ、ボリショイサーカス(露)、
リングリングサーカス(米)と並んで「世界三大サーカス」のひとつとして世界的にも
高い評価を受けている
ところで、横浜がサーカス発祥の地であることはご存じだろうか?
横浜が開港したが1859年。それから5年後の1864年、アメリカ・リズリー・
サーカス団が来浜、外国人居留地(現在の山下町)で日本初となる興業を行った
しかし、結果は散々・・・日本初の興業は“大失敗”となった
なぜなら、興業が行われた横浜の外国人居留地は外部と遮断するため掘割で仕切られ、
さらに、入り口にある橋のたもとには関所が設置されており、厳重な監視体制のもと、
簡単に町人が出入りできる環境になかった
ちなみに、関所の内側を「関内(居留地)」、その外側を「関外」と呼び、現在の市役所、
県庁などがあるハマの中心部「関内(かんない)」は、当時の“名残”なのである
話は戻るが、初めのサーカス興業、客は殆どこない
困り果てたリズナーが目にしたのが日本の“見世物”だった。当時の見世物とは、
芸種別に一座を組んで個々に興行を行っており、手品、足芸、独楽(こま)など、
所謂、日本の昔ながらの“伝統芸能”だった
そのとき、リズナーは閃いた!
これを“ひとつの集団”に編成。「サーカス」と同じ興業スタイルで売りだしたら
儲かるんじゃねーか!?
早速、足芸の濱碇定吉一座、手品の隅田川浪五郎一座、また、曲独楽の松井菊治郎一座を
スカウト!「帝国日本芸人一座」を編成、米国、そして欧州諸国などで興業をうつ!!
これが行く先々で大当たり、かくしてプロモーターのリズナーは大儲けしたそうだ
キャリーパミュパミュが欧米でデビューし、喝さいを浴びる150年もまえのこと
さて、日本人が、それも芸人という“民間人が初めて外国に渡航”することになった
慌てた幕府、初めて、現在のパスポートに当る「御印章」を発給する
この光栄な第一号御印章は隅田川浪五郎のもので、最初に出国したのは松井菊治郎一座、
時は慶応2年10月25日、浪五郎さんは、イギリスへ向けて横浜港を出航した
遅れること4日後、第一号御印章の隅田川浪五郎一座が米国サンフランシスコへ向けて
横浜港を出航する。そのころ我が国は、“幕末”の真っただ中、翌年、慶応3年、京都で
坂本龍馬が暗殺される。それからほどなくして大政奉還が行われ、元号も慶応から明治と
改元された
海外公演中の「帝国日本芸人一座」、一行は、明治2年1月14日、ニューヨークで
千秋楽を迎え、その後、解散したと伝えられているが、そんなわけで、ちょんまげの
御一行さま、公演先の外国で幕府崩壊、そして、明治新政府の成立を耳にすることになる
現在放映中の大河ドラマ「八重の桜」、これと時同じころ、横浜港から「帝国日本芸人一座」が
世界へと旅立っていったのである
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます