志賀島は、日本書紀や古事記にも記述が見られ、筑前国風土記に
神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述も見られる。
これには、古代の半島・大陸との海上交通における志賀島が泊地
としての役割が反映されていると考えられる。
また、現在整備中であるが、島の西側に首切塚(蒙古塚)がある。
これは、文永11年(1274年)、元寇で攻めてきた蒙古軍が志賀島
で捕虜となり、うち120人ほどが首切塚で斬首されたとされたと
あり、この霊を鎮めるために建立されたものである。
しかし、なんといっても志賀島といえば「金印」」であろう。
天明4年(1784年)、甚兵衛という志賀島の農民が田んぼを耕して
いる最中に金印(漢委奴国王印)を偶然発見したとされる。
教科書にもでてくる「金印」
漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、志賀島から
出土されたものであり、発見された場所は蒙古塚の近くにあり、
「金印公園」として整備されている。
ところで、金印にはどんな意味があるのか・・・?
東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証し
として、その定められた地位に応じ玉印・金印・銅印などが与えら
れたことから、志賀島から金印が出たことで、邪馬台国(卑弥呼)
=九州説が論じられている。
さて、すっかり志賀島にハマっているが、これだけ宣伝すれば島の
観光協会も何か考えてくれるだろう!名誉島民として表彰する。
その副賞は島の海産物とか・・・・
天高くまた肥える夏・・・トホホ
神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述も見られる。
これには、古代の半島・大陸との海上交通における志賀島が泊地
としての役割が反映されていると考えられる。
また、現在整備中であるが、島の西側に首切塚(蒙古塚)がある。
これは、文永11年(1274年)、元寇で攻めてきた蒙古軍が志賀島
で捕虜となり、うち120人ほどが首切塚で斬首されたとされたと
あり、この霊を鎮めるために建立されたものである。
しかし、なんといっても志賀島といえば「金印」」であろう。
天明4年(1784年)、甚兵衛という志賀島の農民が田んぼを耕して
いる最中に金印(漢委奴国王印)を偶然発見したとされる。
教科書にもでてくる「金印」
漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、志賀島から
出土されたものであり、発見された場所は蒙古塚の近くにあり、
「金印公園」として整備されている。
ところで、金印にはどんな意味があるのか・・・?
東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証し
として、その定められた地位に応じ玉印・金印・銅印などが与えら
れたことから、志賀島から金印が出たことで、邪馬台国(卑弥呼)
=九州説が論じられている。
さて、すっかり志賀島にハマっているが、これだけ宣伝すれば島の
観光協会も何か考えてくれるだろう!名誉島民として表彰する。
その副賞は島の海産物とか・・・・
天高くまた肥える夏・・・トホホ
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