‘デジタル・ネイティブ’と呼ばれる若者が育ってきたらしい。
こんな呼び名はなかったけれど、さしあたって私は何十年か昔には、‘テレビ・ネイティブ’世代に違いない。
NHKに先駆けて、まず日本テレビが放送開始したのは昭和28年のこと。
当時、私は4歳だった。
幼稚園児のころは、NHK放送の最後に‘日の丸’がはためく映像に‘君が代’がなって、一日の放送が終了するまでテレビにかじりついていた。
両親は小学校にあがったら、この子はどうなるのかとかなり心配したらしい。
それでも親の言うことは聞かずに、大人の番組までも見る生意気な子どもだった。
そして小学校の入学式の前夜から、ピタッと夜遅くまでテレビを見ることをやめてしまった、と聞いた。
そんなこともあって、それ以後両親は、私が何かに没頭しても、自由にさせてくれた。
「この子は、大事な事があれば、どんなに好きなことにはまり込んでも、切り替えることのできる子だ」と安心したらしい。
さて、本日、NHK特集「テレビの可能性・吉田直哉が残したもの」を見た。
昭和29年に、NHKに入局したことを初めて知った。
始めはラジオ放送のディレクターだったが、早い時期つまりテレビの創成期からドキュメンタリーやドラマ制作にかかわってきた。
吉田のドキュメンタリーをつくり上げる理念を象徴する番組として、昭和33年に放送された「日本人と次郎長」をまず取り上げていた。
これは前近代の名残である義理人情に縛られた‘日本のヤクザの世界’を描いたものだ。
番組では親分子分の杯を交わす賑々しい儀式を‘集団催眠’にかけるものとナレーションしていた。
また、聖徳太子のお札をかける‘丁半賭博’が行われている賭場の様子なども生々しく映し出していた。
実は、これは警察にも許可(裏の了解)を得て、今で言う再現、つまり‘やらせ’だった。
撮影を依頼したとき、ヤクザの親分に「決して肯定するものではない」と告げた上で、了解を取り付けたものだったという。
賭場の場面は偽の金を用意したと言う。つまり、吉田側が現金40万円を用意して、本当の賭博ではないと言うことで、許された放送だったそうだ。しかし画面に{再現}などと‘注’はつけられていない。視聴者は本当にこととしてみてしまうのだ。当時はそれを受け入れる時代だったという。
吉田は、テレビは自由で多様性のある表現を探ることができる媒体と考えていたらしい。
もともとヨーロッパで始まったドキュメンタリーは、かなりの部分で‘再現(やらせ)’手法をとるものだった。
いや、‘やらせ’と言うことばが悪い。
事実があって、その中にある‘真実’を伝えるために必要な演出として‘再現’があり、そこにはフィクションの要素があってしかるべき、という理念の下にヨーロッパのドキュメンタリーは作り上げられてきたと言う。
その点、日本は生真面目すぎると吉田は考えていた。
あるがまま・ありのままは、土台無理なのである。
記録映画からドキュメンタリーへの可能性を、テレビと言う媒体を使って、ギリギリ追い詰めたのが吉田直哉というディレクターであった。
そして38年に制作した「TOKYO]という番組で、主人公の女性が、この番組に出演したことによって、生き別れた母親にめぐり合えるという天国と、その母親になけなしの金を持ち逃げられてしまうと言う地獄に落とされたことをきっかけに、ドラマ制作に吉田は舵を取ることになった。
代表作は、緒方拳が弁慶を演じた「源義経」、「太閤記」などのフィクションとドキュメンタリーを手法を融合させた大河ドラマを生み出したのだと裏話に思わず感動を覚えた。
最後は「太郎の国の物語」に帰結して、テレビ界を去った。
吉田は、前近代の日本人から明治の日本人、そして現代の日本人まで映し出した。それに留まらず科学番組までも手がけた。
吉田が、テレビの白痴化傾向の中で‘文化としてのテレビ’創造を実践したスケールの大きな稀有なディレクターであったと評価して番組を締めくくっていた。
ドキュメンタリーからドラマ、それらが融合した表現をも試し、手探りのテレビ文化を背負った半生だった。
『事実と実感と意識と表現の間にはズレがある』(野口三千三)
そう語った野口もまた吉田と共通する認識を持っていたと思う。
科学的事実だけを積み上げても真実は伝えられない。
事実は人間がかかわらなくても存在する。
しかし、真実は、人間がそこに感情や情念や情動をも含めて何事かを感じ取ったときにあらわれる。
したがって真実を伝えるときに、何某かのフィクションが盛り込まれることがあってもよい、と考えていたのが野口だった。
事実は事実だ。嘘ではない。
しかし、二人に共通していることは、‘虚実皮膜’とは少し異なる感性の様な気がしている。
そんなことを思いながら、テレビ・ネイティブとしては、懐かしい映像に出会った文化の日の午後だった。
こんな呼び名はなかったけれど、さしあたって私は何十年か昔には、‘テレビ・ネイティブ’世代に違いない。
NHKに先駆けて、まず日本テレビが放送開始したのは昭和28年のこと。
当時、私は4歳だった。
幼稚園児のころは、NHK放送の最後に‘日の丸’がはためく映像に‘君が代’がなって、一日の放送が終了するまでテレビにかじりついていた。
両親は小学校にあがったら、この子はどうなるのかとかなり心配したらしい。
それでも親の言うことは聞かずに、大人の番組までも見る生意気な子どもだった。
そして小学校の入学式の前夜から、ピタッと夜遅くまでテレビを見ることをやめてしまった、と聞いた。
そんなこともあって、それ以後両親は、私が何かに没頭しても、自由にさせてくれた。
「この子は、大事な事があれば、どんなに好きなことにはまり込んでも、切り替えることのできる子だ」と安心したらしい。
さて、本日、NHK特集「テレビの可能性・吉田直哉が残したもの」を見た。
昭和29年に、NHKに入局したことを初めて知った。
始めはラジオ放送のディレクターだったが、早い時期つまりテレビの創成期からドキュメンタリーやドラマ制作にかかわってきた。
吉田のドキュメンタリーをつくり上げる理念を象徴する番組として、昭和33年に放送された「日本人と次郎長」をまず取り上げていた。
これは前近代の名残である義理人情に縛られた‘日本のヤクザの世界’を描いたものだ。
番組では親分子分の杯を交わす賑々しい儀式を‘集団催眠’にかけるものとナレーションしていた。
また、聖徳太子のお札をかける‘丁半賭博’が行われている賭場の様子なども生々しく映し出していた。
実は、これは警察にも許可(裏の了解)を得て、今で言う再現、つまり‘やらせ’だった。
撮影を依頼したとき、ヤクザの親分に「決して肯定するものではない」と告げた上で、了解を取り付けたものだったという。
賭場の場面は偽の金を用意したと言う。つまり、吉田側が現金40万円を用意して、本当の賭博ではないと言うことで、許された放送だったそうだ。しかし画面に{再現}などと‘注’はつけられていない。視聴者は本当にこととしてみてしまうのだ。当時はそれを受け入れる時代だったという。
吉田は、テレビは自由で多様性のある表現を探ることができる媒体と考えていたらしい。
もともとヨーロッパで始まったドキュメンタリーは、かなりの部分で‘再現(やらせ)’手法をとるものだった。
いや、‘やらせ’と言うことばが悪い。
事実があって、その中にある‘真実’を伝えるために必要な演出として‘再現’があり、そこにはフィクションの要素があってしかるべき、という理念の下にヨーロッパのドキュメンタリーは作り上げられてきたと言う。
その点、日本は生真面目すぎると吉田は考えていた。
あるがまま・ありのままは、土台無理なのである。
記録映画からドキュメンタリーへの可能性を、テレビと言う媒体を使って、ギリギリ追い詰めたのが吉田直哉というディレクターであった。
そして38年に制作した「TOKYO]という番組で、主人公の女性が、この番組に出演したことによって、生き別れた母親にめぐり合えるという天国と、その母親になけなしの金を持ち逃げられてしまうと言う地獄に落とされたことをきっかけに、ドラマ制作に吉田は舵を取ることになった。
代表作は、緒方拳が弁慶を演じた「源義経」、「太閤記」などのフィクションとドキュメンタリーを手法を融合させた大河ドラマを生み出したのだと裏話に思わず感動を覚えた。
最後は「太郎の国の物語」に帰結して、テレビ界を去った。
吉田は、前近代の日本人から明治の日本人、そして現代の日本人まで映し出した。それに留まらず科学番組までも手がけた。
吉田が、テレビの白痴化傾向の中で‘文化としてのテレビ’創造を実践したスケールの大きな稀有なディレクターであったと評価して番組を締めくくっていた。
ドキュメンタリーからドラマ、それらが融合した表現をも試し、手探りのテレビ文化を背負った半生だった。
『事実と実感と意識と表現の間にはズレがある』(野口三千三)
そう語った野口もまた吉田と共通する認識を持っていたと思う。
科学的事実だけを積み上げても真実は伝えられない。
事実は人間がかかわらなくても存在する。
しかし、真実は、人間がそこに感情や情念や情動をも含めて何事かを感じ取ったときにあらわれる。
したがって真実を伝えるときに、何某かのフィクションが盛り込まれることがあってもよい、と考えていたのが野口だった。
事実は事実だ。嘘ではない。
しかし、二人に共通していることは、‘虚実皮膜’とは少し異なる感性の様な気がしている。
そんなことを思いながら、テレビ・ネイティブとしては、懐かしい映像に出会った文化の日の午後だった。