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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

境界感覚

2008年11月22日 08時55分45秒 | Weblog
 昨日、夕方になってメールをひらいた。
 午後の部に入ってきた数十通の[meiwaku]メールの中から、So-netのお知らせをひらいて、思わず吹き出した。

   《新宿の母が占う! あなたの運勢》
   ~~2009年を占う特別豪華版~~

 さらにカレンダーも出ているらしい。
 先を読むと、「新宿の母は50年、相談者は300万人」とある。
 あの行列が意味するものが見えてくるものだった。
 さすがに年末だ。
 とりわけ行く先が案じられる不安な年末だ。
 
 その後、夕方のニュースでは、大学生の逮捕者を出した‘大麻汚染’について、大学の取り組みについて特集していた。
 朝日新聞22日付け朝刊でも、大学生だけではなく主婦層にも広がっている内容の記事が一面に載っていた。

 そうしたことから、思い出されることがある。
 子供のころ海水浴帰りに横浜中華街に立ち寄った。
 横浜は港湾都市だ。港町独特の色合いや匂いがあった記憶は鮮明だ。
 たとえば駅周辺のガード下で渋滞に巻き込まれ、父が運転する車中から、街の様子を眺めていると、そのあたりにたむろする男女の怪しげな姿を目にしていた。
 
 昭和20年代後半から30年代にかけて。
‘ヒロポン’という薬物の名前を知ったのは、ちょうどその頃だった。
 子どもが覚えていい単語ではない。
 しかし、そのくらい都会では身近なものだったのだ。
 敗戦のドサクサのなかで、生活苦や戦争のトラウマや将来の不安を抱えて、人々の心身が傷ついたまま戦後の復興が猛烈に始まった時代だった。
 暮れ方、そこで繰り広げられている情景は、子どもなりに‘見てはいけないものに違いない’という認識をおぼろげに持っていた。
 街角には‘占い’の文字が、うらぶれた風情を漂わせているのだった。
 しかし、当時は、住む世界が違う、という暗黙の了解があった。

 ところがこの数年のインターネットでは、玄人さんと素人さんの垣根が取っ払われたようだ。
 現実の街ならば「ここからは足を踏み入れてはいけないところ」と言う境界が歴然と見えていた。
 実際、‘怖いところ’という空気が、少し離れた距離からもからだに伝わってきて、身体感覚として「いけない境界感覚」が備わっていった。
 都会とは、そういうところなのだ。

 しかし、Web上では写真や文字というバーチャルな情報だけで、人を誘う。
 匂いも、肌を刺すような危うさも、空気の味も、三次元の視覚情報から受ける底知れない闇も感じ取れるわけが無い。
 
 安易に大麻を手に入れてしまえる状況だ。
 境界がわからなくなった人間ほど、危険な存在はない。
 境界は身体感覚で聞分けるものなのだ。

 迷うのはいい。
 しかし迷った挙句に、どの道を選ぶのか。
 前にすすむのか、引き返すのか、違った第三の道を選ぶのか。
 その判断に基準になる‘身体の痛み’‘身体の快感’を、インターネットは教えてくれない。

 ボーっとした灯りに照らされていた‘占い’の文字や、大麻汚染のニュースを読むと、敗戦後の時代の姿が彷彿する。しかし、当時は、直接、人を介していたことだった。
 いまや‘よるべなき身’にはWebが寄り添ってくる。

 話はズレるが、中国の高級マンションの売り出しで、頭金を‘お茶’で払うニュースを見た。
 高級茶葉を満杯に詰め込んだ大袋をトラックに積んで運び、マンションのロビーに積み上げているシーンは、圧巻だった。
 その業者は高級茶を扱っていて、マンションを売ることで、加工前の高級茶葉を割安で仕入れることができるそうだ。
 業者は一石二鳥を狙ったものだ、と解説していた。

 テレビ画面に現れた中国における桁外れの物々交換の様相に、「これだよ!」と、おっしゃる野口三千三先生の声を聞いた。
「境界」を感じとる身体感覚は、‘ものの重さ’と‘ものの怪’を、実感することから磨かれるのだ……。
 すくなくとも私の耳に聞こえた‘幻の声’は、そう仰せなのだ!