昨日はレッスンでした。あまり長くはない曲なのですがたくさんの指摘と課題が。やっぱり地道にやるしかないと痛感。逆算したら期間を決めてペースアップしたほうがよさそう。
ちょっといろいろバタバタしています。そうしているうちにブログの更新、またさぼってしまいそうなので少しつぶやきました。
今週の絵も描かなくっちゃな~。こちらもネタだけはそろっています。
昨日はレッスンでした。あまり長くはない曲なのですがたくさんの指摘と課題が。やっぱり地道にやるしかないと痛感。逆算したら期間を決めてペースアップしたほうがよさそう。
ちょっといろいろバタバタしています。そうしているうちにブログの更新、またさぼってしまいそうなので少しつぶやきました。
今週の絵も描かなくっちゃな~。こちらもネタだけはそろっています。
憧れの人とか、憧れの曲とか、憧れの演奏とか、憧れの本とか、憧れの考え方とか。。。
憧れという言葉は、素敵に見える。けれども、それは、手が届かない、という、前提も見え隠れしたりしている。
憧れと、理解とは違う、ということを言っていた人がいた。厳しいけれど、図星だと思ったし、目から鱗が落ちるような気がした。それを知っているのと知らないのとでは違いが大きいと思った。
私は基本的によほどのことがなければ、演奏家のファンにならない(とはいえ、演奏会に行くと、その人のファンになりましたとよく書いている。それは無責任発言だったかもしれない。演奏がよかったのでまた聴きに行きたいにとどめておくのが正解かもしれない)ファンになるのには責任が伴う。実はファンになったら自分がなくなるぐらいアイデンティティに影響を受けるのが分かっているから、そうなっても本当にいいと思えない限り、本当のファンにはならない気がする。特にピアニストのファンになるのは覚悟がいる気がしてならない。師匠にしたいと思えるぐらいでないとと思うのだ。
いや、実はファン経験もある。初のファン経験は中学生の時のニューミュージックの某グループ。友人が聴いていたのを知り聴きだしたらよくて、来る日も来る日も聴きまくり、そのグループについて書いてある雑誌はすべて読んだ。いいことが書かれているとうれしくて、嫌なことを書かれていると気分が悪くなっていた。受験生だったがむしろいい張り合いになっていた。そして次は歴史上の人物と洋楽。アイデンティティはかすかに揺らいだものの、そういうときは幸せだった。(その間に好きだった異性もいて憧れもあったような気がするが、なにもなかったのでノーコメントです)大学入試から大学にかけてピアノとクラシックやジャズに芽生え、憧れの対象がショパン、バッハ、ベートーベンになっていた。しかし、その学生時代、ある教官と学問のファンになってしまい進路まで影響を受けたのは非常に大きかった。そしてそれは、傍から見たら、幸せでわがままだったように見えるが、実際は、私のキャパを超えたものになっていた。そしてそこには理解というものが大きく欠落していた。(そして実は相手にとっては単に迷惑なだけ、にもなっていた)それ以来、ファンになるのには責任が伴うと思うようになった。
限られた人生、理解ということを抜きに、あるものの憧れやファンになるのだとしたら、そうすることで幸せでいれること、自分も大切にできることを前提にしたい。いや、そう理性ではいかないというのも分かっているけど。。。
けれども大切にしたいものは、憧れだけではすませずに、理解したい。今まで私は、憧れという言葉を軽々しく使いすぎた。むしろ憧れだけで理解しないことが多かった。憧れはいいけれど、本当に大切にしたいものは、理解にまで持って行きたい。
あけましておめでとうございます。
職場近くで椿が咲いていたので携帯で写真を撮って久しぶりに水彩色鉛筆で描きました。(線などについては言わないでくださいね。色つけ重視です)
今年もよろしくお願いします。
師走とはいったものであっという間に12月30日、今年もあと二日を残すばかりになりました。
相変わらず落ち着きのない日々を送っていたのですが、その間にもちょこちょこ楽しんでいました。久しぶりに第九を聴きに行ったのもその一つ。カンブルラン氏指揮読売交響楽団演奏の第九でしたが、好きな演奏でした。流れがしっかりとみられ躍動感がありました。第3楽章が特に美しくて、こんな第3楽章のあり方もあったのかというぐらい。第2楽章もかなり早かったのですが、この第3楽章を作るためにはこの速さが必要だったのではないかという話を同行した友人が話してくれました。カンブルランの指揮、前回のラヴェルでも感じたのですが音楽の作り方がなんともいえず素敵だった気が。本当に楽しいひとときだったな~。
ピアノのレッスンではクープランの墓のフーガは地道にパートごとにやり直そうということになりました。全パートを合わせるのは来年になってからでよいと。各パートをしっかり把握しないからには、ということでした。3声なのでその前に2声を合わせるのも必要ですしね。
今年の音楽については「ビバ フランス」。ほとんど取り組んだことのないフランスものに取り組んだ一年でした!道は険しいですががんばりたいです。
来年はどのような年になるでしょうか?
時間がなくなってきたのでそろそろこの辺にします。横浜で書く、いや、今年の記事はこれが最後かもしれません。
よきお年をお迎えください!
お詫び、ということについて、考えてみた。自分に落ち度があればあるほど、謝らないケースって意外に多くないだろうか。そのために、人を困惑させていることもあったりするのだ。本当に謝るべき時は、どんなに情けなくてもみっともなくても誠意を込めて謝る必要がある。ただ、そういうときはそんなに多くなかったりするので、普段から謝りすぎるというのはどうかと思う。伝わりたいときに伝わらないのほど情けないことはないから。
山田ズーニーさんの本を読んでいたら、練度の高い正直、ということばが出てきた。もともとは司馬遼太郎氏の言葉。未公開講演録IV「司馬遼太郎が語る日本 」に書かれているとのこと。非常にこたえた。正直にもレベルがある。山田さんの言葉を引用したい。
「単なる「吐き物」は相手にとって迷惑なだけだ。うそは人を動かさない。しかし練度の低い正直も、かえって人には迷惑だ。何度も練り、鍛えて、質のよいものに仕上げた正直こそが、人を動かす。」
無用な喧嘩、争い等で心が痛むような事態が起こらないためにも、この言葉を胸に焼き付けておきたい。
久しぶりにフランクを弾いた。懐かしかった。半年間弾いてきた大切な曲、また思い出したときに取り出そう。
この記事、書こうかどうか迷っていたのだが、書くことにする。乏しい知識であるのは分かっているが、書かないでいたら、本当に書かないで風化させてしまいそうな気がしたので、やっぱり書くことにした。幸い出展作品リストもあったので、助けを借りながら書くことにする。
昨日は「世界報道写真展」を観に行った。会場は恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館の地下一階だ。展示会自体知らなかったのだが主人が関心を持っており、それならと思って出かけた。東日本大震災の爪痕を撮影した7名の写真家による作品も含め、124の国と地域、5247人の応募の中から厳選された報道写真、約170点が紹介されていた。世界の報道写真となれば最近の荒れた世界情勢を反映した生々しい写真が多そうな予感がしたので、それなりの覚悟をもってでかけた。海外の雑誌、少し読んでいたことがあったが、日本のメディアでは写さないと思われるような生々しい写真もそれなりに載っていたので、おそらくそれぐらいインパクトの強いものが多いだろうとも。
しかも今日本は岐路に立っていると思う。このような写真を観ることによって、世界のことを自分のこととしてとらえられるようになるかもしれないという思いもあった。
入口に入るなり、ほぼ裸でやせこけた息子を抱きかかえる母親の写真が目に入ってきた。大賞を受賞したイエメンのサヌアでサレフ大統領に対する抗議の最中に負傷した息子を抱きかかえる女性の写真だった。このような写真を観ると言葉を失う。
エジプトのムバラク大統領が講演をしたあとに、カイロのタハリール広場で叫び声、聖歌、悲鳴をあげる群集を撮影したデモ参加者たちの表情をうつした写真からは人々の激しい怒りが伝わってきた。
リビアの独裁者だったカダフィ大佐関係の写真もあった。独裁的なカダフィ体制に対する体をはった市民の抗議運動、カダフィ軍の攻防、そしてカダフィ大佐の遺体もあった。独裁体制をなくすためにここまでの戦いを経なければならなかったことに衝撃を受けた。
抗議運動が暴動へと発展した写真が数多くみられ、心が痛くなった。撮影した人たちも命がけだったにちがいない。実際受賞者のなかにはその後巻き込まれ命を落とした方もいたとのこと。
日本の東日本大震災の写真もあった。津波によって壊滅状態になった名取市の様子、墓の上に載ってようやくバランスを取り戻した電車、がれきの前で涙する女性、娘の卒業証書を持って笑顔を見せる母親の写真、福島第一原発の写真、避難区域内で飢え死にした牛の写真、福島第一原発から500m圏内を歩く動物保護運動家の写真があって、あのおそるべき日のことがたちまちよみがえってきた。政治家の方たちはこれらの写真を見るべきなのではないかと思った。
中国の毛沢東崇拝を表した写真、北朝鮮の金正日崇拝を表した写真も生々しかった。
児童結婚の写真もあった。女性は16歳以下で、なんと一桁の女性もいた。非常に美しい衣装で着飾られていたがそれだからこそかえっておそろしい気がした。国、地域、社会階級を問わず行われているのだという。
他にもある意味これが世界の現実なのだろうか、と思えるような写真がたくさんあり、あまりの衝撃に言葉を失いそうだった。
しかし、おそらく写っている本人は厳しい現実を過ごしていると思われながらも、人間のたくましさや希望を感じさせるような写真もたくさんあった。ウクライナの抗議運動の毅然とした女性リーダーの写真、コンゴ川の急流で伝統的な漁法で捕った魚を口にくわえる漁をしていた少女の写真、ラジオが主なメディアであるハイチのラジオ局で人生相談番組に出演している女性、HIV陽性で娘を育てる女性、ロシアの黒海東岸リゾート、ソチのレストランで歌う多くのアーティストたち、アイルランドのラグビーで泥まみれの試合をしている選手たち、男子200メートルバタフライ決勝で競い合う選手たちの写真からは、懸命に生きる人たちのたくましさを感じさせられた。他にも人々の日常を感じさせられるような写真も見られた。
予想通り、いや、予想以上にインパクトの強い写真ばかりだった。風景から、人々の表情から、背景の人たちの切実な状況が大きく伝わってくる内容だった。人間の弱さ、強さ、醜さ、尊さを丁寧に伝えていたと思った。写真による視覚面の伝える力の大きさを感じた。日本のメディアではおそらく出さないだろうと思える写真も多かったからこそ、観に行ってよかった。心臓にはあまりよろしくないかもしれないけれども、世界情勢を知り自分のこととしてとらえるためにも、足を運ぶ価値があったと思った。
ちなみに会期は6月9日~8月5日 (月 )とのことだ。まだ始まったばかりである。
前回の日記から、あっという間に一週間がたっていた。ピアノの本番も納期がきつかった仕事もひと段落。友達と遊んだあとの一週間は長いだろうと思っていたが、終わってみれば非常にはやかった。
まとまりはないものの、音楽ネタも実はあった。
ためていた録画を観た。ニコライ・ホジャイノフ氏のピアノ・リサイタルと、らららクラシックのラ・フォル・ジュルネでした。ショパンコンクールのファイナリストでもあったホジャイノフ氏の実力については話にはきいていたものの、実際に演奏を聴いたのははじめてだった。演奏された曲は、プロコフィエフのピアノ・ソナタ 第7番 変ロ長調 作品83、ショパンのバラード 第2番 ヘ長調 作品38、シューベルトの幻想曲 ハ長調 「さすらい人」 D.760でした。非常に味わい深い魅力的な演奏で、たちまち惹きこまれた。特に印象的だったのはプロコとシューベルト。両曲とも私にはあまりなじみがなかったのだが、曲の魅力をふんだんに伝えていたと思う。らららクラシックのラ・フォル・ジュルネも盛りだくさんの内容だったが、