いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

影絵切り絵もここまでに

2012年09月30日 | お絵かき

 私は影絵や切り絵の作品を見るのが大好き。黒とそれ以外だけのコントラストだけで作られた境界線からここまで美しく想像力の大きな世界が広がるのか、と思うのだ。版画やステンドグラスも好き。私が気が向いたときに描く絵は境界線があいまいなものが多いのだけど、あえてその境界線をはっきりとしているというところに強く惹かれるのかもしれない。

 真っ先に浮かんだ方が影絵の大御所のこの方。一人一人の表情の豊かさと透けて見える色彩の美しさに心奪われる。

藤城清治 影絵の世界

 ちなみにこの話題を書こうと思ったきっかけは、切り絵でこのようなお洒落な作品を見たからであった。流麗で細かくてレースみたい。はさみだけで作ったというけれど、どのように切ったのだろう。普通のはさみではなさそうだし、普通の切り方ではないだろうな。アクセサリーもあるみたい。

hinaaoyama's photostream

 


練度の高い正直

2012年09月29日 | 日記

 お詫び、ということについて、考えてみた。自分に落ち度があればあるほど、謝らないケースって意外に多くないだろうか。そのために、人を困惑させていることもあったりするのだ。本当に謝るべき時は、どんなに情けなくてもみっともなくても誠意を込めて謝る必要がある。ただ、そういうときはそんなに多くなかったりするので、普段から謝りすぎるというのはどうかと思う。伝わりたいときに伝わらないのほど情けないことはないから。


 山田ズーニーさんの本を読んでいたら、練度の高い正直、ということばが出てきた。もともとは司馬遼太郎氏の言葉。未公開講演録IV「司馬遼太郎が語る日本 」に書かれているとのこと。非常にこたえた。正直にもレベルがある。山田さんの言葉を引用したい。


 「単なる「吐き物」は相手にとって迷惑なだけだ。うそは人を動かさない。しかし練度の低い正直も、かえって人には迷惑だ。何度も練り、鍛えて、質のよいものに仕上げた正直こそが、人を動かす。」


  無用な喧嘩、争い等で心が痛むような事態が起こらないためにも、この言葉を胸に焼き付けておきたい。


 


 久しぶりにフランクを弾いた。懐かしかった。半年間弾いてきた大切な曲、また思い出したときに取り出そう。


 


ドビュッシー 音楽と美術 展

2012年09月23日 | 気になる場所、風景

 ブリヂストン美術館の「ドビュッシー 音楽と美術」展に行ってきた。

 クロード・アシル・ドビュッシー(1862~1918)は「私は音楽と同じくらい絵が好きなので」と語っており、多くの画家、詩人たちと交わった。また神話や歴史からも多くのインスピレーションを得た作品を作った。

 20代後半に作られたカンタータ「選ばれし乙女」という歌曲はロセッティの詩「祝福されし乙女」がもとになっていて、ロセッティ自身が描いた「選ばれし乙女」の絵が展示してあった。若くして昇天した乙女が、天国の宮殿の手すりから、地上に残した恋人を慕う。バーン・ジョーンズが描いていた物思いにふけりながら本を読む王女サプラ、モーリス・ドニも描いていたくつろぐミューズたちやカンタータ「選ばれし乙女」の表紙に登場する乙女はうっとりとした雰囲気で輪郭もぼんやりどことなくはかなげ。純真でありながら背徳的で神秘的という説明がなされていた。バーン・ジョーンズの王女サプラ、ドレスと花のピンクが印象的だった。

 ドビュッシーは熱心に雑誌を読みカフェを訪れていた。そして画家ルロール、作曲家ショーソン、高級官僚フォンテーヌに作品制作を依頼され、画家モーリス・ドニとともに若き芸術家として支援を受けていた。一緒に支援を受けていたというモーリス・ドニの絵の曲線美と独特の色遣いに釘付けになった。薄いピンクとブルーまたは緑色の組み合わせ、黄色と緑色の組み合わせがどことなくゴッホを思わせる雰囲気だった。

 ルノワールとも接点のあったドビュッシー。「ピアノに向かうイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロール」の二人は他の女性と付き合っておきながらロゼと婚約騒動を起こしてしまい、交流を持っていた多くの人物を敵に回したドビュッシーに温かく接し続けたルロール家の娘さんたち。画家が自発的に描いたと言われているこの絵、娘さんたちの表情もやさしくのびやかだった。

 古代への回帰ではマラルメの詩「牧神の午後」にインスパイアされて作曲されたドビュッシーの代表作「牧神の午後のための序曲」がテーマになっていた。舞踏家ニジンスキーの扮する肉体美溢れる牧神と不思議な格好をして踊っているニンフの姿が目に焼き付いている。ニジンスキーは「メナドを追いかけるサテュロス」という壺の絵に描かれている人物と似たような恰好をしていた。最後の場面というニンフのスカーフの上に横たわる牧神のあぶなさ。フルートの妖しそうな旋律がさらに官能的に。

 ペレアスとメリザンドはモーリス・メーテルリンクによる戯曲に基づいたドビュッシーが完成させた唯一のオペラ。王太子ゴローと王太子妃メリザンドは結婚したものの、メリザンドは弟ペレアスと恋に落ちてしまうという禁断の悲恋物語。シャルル・ビアンキーニによる舞台衣装の絵が素敵だった。そしてなんといってもよかったのが音声ガイドに入っていた「わたしの長い髪が」というアリア。ドビュッシー本人によるピアノ演奏とメアリー・ガーデンによる歌がすばらしかった。

 アール・ヌーヴォーとジャポニズムにもドビュッシーは深く関わっている。モーリス・ドニのアラベスク文様、エミール・ガレの曲線美あふれる花瓶に心惹かれていた。そして葛飾北斎の富嶽三十六景神奈川沖浪裏の絵を自分の作品である交響詩「海」のスコアの表紙にした。印象的だったのは彼が愛用していたというアルケルというカエルの文鎮。大きくて重そうなのだけどかわいらしいカエルを愛用していたドビュッシーになんとなく親しみを感じた。

 ドビュッシーは海に愛着を持っており、海を描いた画家たちからもインスピレーションを受けた。モネによる「雨のベリール」。荒れ狂う海の波をあらわす激しい筆遣いから聴こえてくる波しぶき。ジョルジュ・ラコンプによるハート形をした周囲から波がうねるようにはい出ている「紫色の波」。かと思えばモネの「黄昏、ヴェネツィア」をはじめとした静まり返った水面。「海」や「水の反映」が聴こえてくる。

 ドビュッシーは自然界の絶えず変化するゆらめきを大切にしながらも、それだけではなく、心の内側にあるものも重視した音楽を作ったと言われている。カディンスキーは「現代人の魂のひび割れた音」が彼の音楽から聴こえると言った。終止といわれる不協和音からの解決を必須とせず、和声の呪縛から解放された響きをもたらしているところからも感じ取れそうだ。従来のもので満足せず、幅広いテーマから常に新しく革新的なものを求めていった作曲家だったのだ。

 幸いガイドブックを買ったので、ドビュッシー自身にはそこまで詳しくない割にはまとなりのない文章をたくさん書いてしまったが、彼の残したものの大きさに圧倒され、彼の音楽をもっと聴きたい、そして彼が表現したという心の内側にある魂のひび割れた音もさぐりたいと心底感じることのできた二時間だった。

 


勝手な体質

2012年09月22日 | ピアノ・音楽

 今日は街に出て服を買いに出かけた。秋物がほとんど占めていた中夏物がセールスで置いてあった状態。自分の好きなサイズと色、デザインとがぴったりというのを見つけるのが至難の業だったりするが最終的にスカートとセーターを購入。

 そしてピアノの練習。弾いていて自分がいかに勝手な体質かがよく分かった。たくさんの曲を弾きたい、と思いながらも、これだこの曲だこの曲に恋している、と思えるぐらいその曲にはまらないと、人前で弾いてよいだろうといえる段階にまで達せない体質になっていることが判明。つまり本番に載せる曲はすべて恋するまで入れ込まないといけないようなのだ。幸いハイドンさんにはだんだんエキスを感じつつあるのだけど。

 しかもさらに困ったことに、人前で弾く前提となっている曲以外の曲にも、恋したくなっている曲が存在しているという忌まわしい状況。なんということだろう。その忌まわしい存在となっている本番用ではない恋したくなっている曲は次の本番に載せる、と決めたらよいのだろうか。しかしこの本番が終わったら、忌まわしい対象に対してときめきすら感じなくなったりというまさに勝手そのものの状態に陥っていることもあったりするのだが。。。

 難しい曲を複数弾かれる方たちや、一度の本番にたくさんの曲を弾いているプロの方たちは、演奏するすべての曲に恋しているのだろうか?そうできるような訓練がなされているのだろうか?それから伴奏をしている方たちなんかはどうなのだろう?どちらにしてもものすごいエネルギーの持ち主だと改めて感じたのだった。


テレム・カルテット~

2012年09月21日 | ピアノ・音楽

 テレム・カルテットというアンサンブル・ユニットをみなさんはご存知でしょうか?ロシアの4人のグループで、伝統の民族楽器を使い、ジャンルを超えた音楽を楽しませてくれるグループで、今年のラ・フォル・ジュルネにも大活躍しました。まず楽器が面白い。バラライカを目の前で見たのは初めてだったのですが、大きくて迫力がありました。ものすごい超絶技巧の持ち主でありながらユーモアあふれる演奏でチャイコフスキーの四季の「トロイカ」を歌付で演奏したりしては盛り上げてくれていました。一度ステージを見ただけでたちまち好きになり、その後の無料ステージ、2回見ました。とにかく楽しかったのです。友達とこの日の大ヒットだと言いながら盛り上がりました。帰りには彼らこそ真の芸術家だと感じた記憶がよみがえってきました。

 昨晩はバッハのテレム・カルテットのCDを久しぶりに聴こうとしたのですが、夜に聴いたらかえって暑くなってしまいました。でもこれからどんどん聴きたくなりそうな気がします。元気を出したいときにはかなり効き目あり。

 あまり暑苦しくないテレム・カルテットのバッハの動画を見つけました。いや、暑苦しくないなんて失礼でした。とても素敵な演奏です!

 


演奏会に行ってきました インバル指揮東京都交響楽団 マーラー・ツィクルスより ツィクルスⅠ

2012年09月16日 | ピアノ・音楽

 昨日、何気なく新聞を見ていたら、演奏会の宣伝が大きく写っていたのが目に入った。都響こと東京都交響楽団によるマーラー・ツィクルスというのをやっているらしい。なんと運がよかったことに、今日、みなとみらいホールの公演が行われ、しかも席も余っているということを知った。指揮者はエリアフ・インバル氏、演奏は東京都交響楽団。インバル氏はマーラーやブルックナーに定評のある指揮者。twitterなどでもよい情報が流れていたうえに、主人もぜひ聴きたいと言った。私もマーラーの「巨人」は思い出もなじみもある曲だった上に、マーラーの生演奏をぜひ聴いてみたいと思った。急遽行くことにした。

 演奏者、曲目は以下の通り。

指揮:エリアフ・インバル

管弦楽:東京都交響楽団

ソリスト:小森輝彦(バリトン)

 

さすらう若人の歌 バリトン:小森輝彦

Ⅰぼくのあの娘が式をあげる

Ⅱ野に出かけたよ 朝露まぶし

Ⅲもえたぎる刃が ぼくの胸の内にはある

Ⅳぼくのあの娘の 青い双の目

   休憩

交響曲第1番「巨人」

第1楽章 ゆっくりと、引きずるように

第2楽章 力強い動きを持って、急がずに

第3楽章 厳かに威厳をもって、引きずらぬように

第4楽章 嵐のように激しく

 プログラムの解説にこう書いてあった。与えられた形式の範囲内で言いたいことをまとめきる作曲家と、書いているうちにどんどん言いたいことが膨張して、収拾がつかなくなってしまいがちな作曲家がいる、と。そしてマーラーは後者だと。強く同感。作曲年代、初演の年代と独唱者、指揮者、楽器編成もきちんと書いてあり、解説文もいいと思っていたら、なんと西洋音楽史について鋭い見解を示している岡田暁生氏だった。

 さすらう若人の歌は初めて聴いた曲だ。マーラーの処女作であり、「巨人」と双生児のような関係にあると書いてあったが、Ⅰの曲からいきなり「巨人」のモチーフが登場したのには驚いた。祝祭とはいえ、いとしい人の婚礼でどことなく悲しくきしんだような雰囲気だった。Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの曲とも、マーラーらしいモチーフがあちこちに散らばっていて親近感がわいた。今後のマーラーがどのようになっていくかという芽のような雰囲気がよく出ていた感じがした。

 交響曲第1番「巨人」はるかかなた遠方でかすかなpp。何の楽器だろうと思ってみたらヴァイオリンがかすかな音を鳴らしていた。そこからテーマが登場するまでの絶え間なく鳴りつづけるppやpの抑えた感じがたまらなかった。次第に解放されまろやかなテーマへと入っていくまでの過程が。。。そして解放!オーボエによるかっこうの歌声が美しい。オケなので当然特定の場所に楽器が配置されていて配置されたあるべき場所から立体的に音が鳴っていてしっくりとしたものになっていた。楽器の配置による音響効果もマーラーは考えながら作曲していたのかもしれない。音楽の森のステージだった。

 スラブっぽい弾むような雰囲気ではじまる第2楽章。大好きな楽章だ。第1楽章からほとんど切れ目がなく、アタッカで始まったところからかっこよかった。その後もずっしりとしながらも躍動感にあふれていて、まさに生の歓びを体全体で表しているような感じがした。インバル氏は非常にめりはりのあるパリッとした動きをしており、その彼の動きから伝わる思いをオーケストラの方たちがしっかりキャッチしているのが感じられた。ホルンのざらざらした音(ミュート)や、弦楽器をたたく音が登場するなど遊び心が感じられた(マーラーがそのような指示を出していたのだろうかが非常に気になるところ )音楽の歓びが全体からずっしりと伝わってきて、私も思わず体を動かしてしまった。

 しばし間の後第3楽章。有名な葬送行進曲。この曲を聴くと映画「マーラー」を思い出す。フランス民謡の「鐘がなる」を不気味な短調にしたようなインパクトの強さが、話の不穏な進展とぴったりで非常に印象が強かった。この曲、出だしはコントラバス、そしてファゴットなんですね。楽器のことは全く意識せずに聴いていたのだが、実際に見てみて、どんな楽器で演奏されているのかが分かってよかった。インバル氏、両手をあげて思いっきり広げられたりと、抽象的な指示を出していた。指揮者は単に拍子をとるものではなく、イメージをその瞬間瞬間で伝えるということをしているのだと痛感した。もちろんその前に綿密なリハーサルがあると思うが、それでも、やはり、指揮者が体全体から瞬間で放出するイメージや言語による力の大きさが感じられた。退屈しやすい楽章とも言われているが退屈どころかすっかり楽しみながら聴かせていただいた。

 そして第4楽章!プログラムの解説には「冒頭における、ナイフを自分の胸に突き立てるような第1主題の阿鼻叫喚」と書いてあったが、もう、この阿鼻叫喚から盛り上がるところが好きで好きで、今回も祈るような気持ちで聴いていたらやってくれましたよもう。涙が出そうでたまりませんでした。そこからは音楽の流れにすっかり乗せられ我を忘れていた状態。ここまで甘くなってもいいのかと思えるようなやさしく美しいメロディーが天から降り下りてきたり、かと思ったらそれまでの甘さを遮断すべく厳しく激しいシーンになったり。知っていたはずのシーンだが、それぞれのシーンの動きが耳だけでなく体全体からしみ込んでいくようだった。インバル氏と都響のメンバーたちのエネルギーと想像力をふんだんがでていたような、そんな演奏だったように感じた。

 マーラーの「巨人」は、感情の振れ幅も、音の振れ幅もここまで大きい曲だったのか、と感じた。CDでも、曲の壮大さは感じられるけれども、実際の音の振れ幅を正確に感じ取ることはできないのかもしれない。音の遠近感や振れ幅を肌で感じるのは生演奏が一番だと、実感してしまった今日の演奏会だったのだった。

 音楽で大切なものは伝えたいものをはっきりとさせることだというのも感じた。インバル氏はそれをはっきりと持っていて都響のメンバーに明確に伝えていた。そのためめりはりと立体感のある演奏になっていた。

 演奏会終了後は割れんばかりの拍手。オーケストラが去った後も拍手は鳴りやまず、指揮者のインバル氏が再登場したときは再び拍手。本当に終わるのが名残惜しい演奏会だった。あの巨人がリピートされたらいいのに、と思ったぐらい。

 オーケストラに詳しくない者の、思いのたけを書いた感想文なので読みにくいところが多々あると思いますがご了承ください。

 この瞬間、マーラーと都響とインバル氏のファンになってしまったのでした。オケいいなあ、もっと聴きたい、しょっちゅう聴けたらいいのにと思ったのでした。

 かといってピアノを放置というようなことはしませんのでご心配なく。


フーガはどこからやってくる

2012年09月11日 | ピアノ・音楽

 まず、この動画の曲を聴いてみてください。動画左上の文字は見ないでください。見える方は目をつぶってください。

 

どこかで聴いたことがあるようなないような曲ですが、明らかに2声のフーガですね。2声のフーガと言えば真っ先に連想されそうなのがバッハのインヴェンションですが、インヴェンションにはこんな曲はなかったですね。

 では次にこの動画の最初の曲を聴いてください。

 こちらは楽器はチェンバロですが、曲はおなじみの曲ですよね。

 そしてもう一度最初の動画に戻ります。

なんだかバッハのインヴェンションに似ているような気がします。

しかし、この曲を作った人は、な、なんと、あの

 

 

 

 

 

 

 

フレデリック・フランソワ・ショパン

曲名は「フーガイ短調 KK.IVc/2」

なのです。

 実はこの曲、PTNAのピアノ曲事典にもちゃんと掲載されています。twitterでフォローしている方が紹介してくださいました。ショパンはバッハを尊敬しており、例えばプレリュード(前奏曲 )はバッハの平均律クラヴィーア曲集に敬意を示して作られているし、他の曲もハーモニーの作り方などバッハに近い(そしておそらくこのフーガよりも複雑な)要素が含まれています。バッハを研究していたと思われるので、このような曲を作っていてももっともだと思うのですが、他の曲からショパンに対して持っていたイメージとはかなり違っていたのに衝撃を受けました。、簡素ですっきりしていてかっこいい。ピアノの詩人と言われるショパンですが、この曲に限ってはチェンバロで弾いてもぴったりな気がします。作曲年は1827年という青年期説と1841年という中年期説とに分かれています。また作品番号はショパンの曲の作品番号によくついている「Op」ではなく「KK.IVc」という記号がついています。実はこの記号、ワルツ、マズルカ、変奏曲の数曲にもつけられていますが、身近ではなかったので興味深く感じました。

 それにしてもあれだけショパン、ショパンと言っていた時期もあったのに、この曲の存在にかすりどころかまったく気づかなかったとは。。。

 ちなみに紹介してくださった方がこの曲を知ったきっかけが、ポーランドのインターネットラジオによる、Wim Ten Haveという方の編曲による弦楽版(version for strings)によるものだったのも衝撃的でした。この曲の存在も知らない人が多い中、なんとすでに弦楽版に編曲までしていた方がいらっしゃったのですね!腰を抜かしそうでしたが、この弦楽版というのもぜひ聴きたいものです。

 まだまだ謎はありそうです。 この曲の楽譜、楽器店では見たことないのですがきっとどこかにあるでしょう。探し当ててみたくなりました。

 音楽の世界は謎多き世界、まだまだ謎めいたものが、身近なところでうごめいていそうな気がします

  (ある方から情報をいただきました。〇音から出ているショパンピアノ遺作集に楽譜があるそうで、31~2歳ごろに書かれ、主題はケルビーニのものだそうです。ありがとうございました。)



練習会

2012年09月10日 | ピアノ・音楽

 先日は練習会がありました。7月はじめの相模湖以来2か月ぶり。本番後しばらく気が抜けていたのですが、そろそろ気を引き締めたいと思った矢先でした。

 時間はたっぷりありました。メンバーの方たち、いつもながら見事な選曲と曲の仕上がり。前回の7月から1年近く経過したのでは、と私には思えるような状態。本当にピアノが好きなのと同時に、長い蓄積と努力があるのだろうと感じました。難曲のショパンソナタの2楽章分を続けて見事に弾かれたメンバーさんもいらっしゃいました。過去そのような曲を弾かれたことがあるにせよ立派です。新境地を開いた人もいました。リスト演奏の代名詞のようだったメンバーさんがヘンデルの組曲やスカルラッティのソナタやベートーヴェンのソナタのカノンのような楽章を弾かれていたのにも勇気づけられました。旋律部だけが書かれている楽譜をもとにその場で伴奏アレンジを加えて演奏されていた方もいました。とにかくみなさん、よく練習されています。そしてレパートリーも多いし上手です。いったいいつ練習されているのでしょう、毎回感じる疑問点です。

 そいう状態の中私は気が抜けたままではまずいと思い、ハイドンのジプシートリオの第2楽章を音を聴きながら弾きました。音の数は少なく演奏自体は全く難しくないのですが、自然なフレーズに聴かせるためにはごまかしがまったくきかないという、隠れたむずかしさを持った曲です。フォームから直さなければならない状態だということが分かり、気を付けてひいたつもりですが、おそらく不自然なところがあったと思います。それからラヴェルのクープランの墓フォルラーヌ。先日書いた通り、ネットラジオ番組ottava armosoで流れてきて一聴惚れした結果弾くことにした曲。ドビュッシーほどではないと思うのですが、今までの私なら選びそうになかったタイプの曲で、幅を広げたいという思いがありました。独特の古風でのどかな、それでありながらちょっぴり小悪魔的な雰囲気を持った音型と和音に強く惹かれたので投げ出さずに練習できそうな気がしました。この曲を弾くうえで私が特に意識したいと思ったことは、独特の和音の響きを味わいながらセピア色の舞踏の雰囲気をだすということ。反復も多いので表情に変化をつけ飽きないような演奏にする、ということでした。それから近くの友人と連弾を考えていた仮面舞踏会の片方のパートも弾きました。

 どちらもなんとか弾いた、という感覚でした。音楽にはなっていないと思います。しかしひそかに録音した演奏を後で聴いてみたら、思ったほどはひどくはなかったようです。ラヴェルのフォルラーヌは似合っているという感想もいただきうれしかったです。しかし、音に張りがない感じ。もっと引き出そうと思ったら引き出せそうな奥行きのある音が出せるようになりたい、と思った次第です。

 最後のローテーションではかつて習ったベートーヴェンのソナタ第5番第1楽章とシューマンの夕べにを弾きました。大好きな二曲でしたが、いつの間にか弾けなくなっていて残念だったので、練習会前一週間ぐらいから気晴らしがてらに弾き始めたのですが、特にベートーヴェンは弾けなくなっていてショックでした。こんなこともできなくなっていたのと愕然。いや、ベートーヴェンだけではなく、メカ的に動きのある曲自体が弾けなくなっているような気がしました。今年になってゆったりした曲ばかり練習していたからかもしれません。ピアノの技術には、音色やフレーズ感をとらえた演奏をするというテクニックの面と、手を広げたり高速の動きが続いたりするというメカの面があるという話をききました。そして年齢とともにメカは衰えるけれどもテクニックは衰えない、という話もきいています。なので私は自分の実力に合わせメカ面では多くを望まずに音色などの基礎を身に着けテクニック面を磨き、音楽性のある演奏をすることを第一にめざそうとしてきたのですが、本当にメカ的な動きのある曲が弾けなくなってしまうとそれはそれでさみしい。音楽性を求めるのは非常に大切だと思うのですが、それでなくても衰えの激しいメカ面を衰えるままにしておくのはつまらないなあ、と思い、少しずつ練習に採り入れるようにしてきました。しかし、この「練習」、練習というようなちゃんとしたものではなく、ガーツと弾いてスカッとするという、ストレス発散的な要素もありましたね。数日間続けて弾いていたら、弾けなくなっていたところは弾けるようになってきたので、練習会で披露しよう、と思い、披露したのですが。。。。なんとか通して弾きましたが、あやしいところはあやしいまま、こっそり録った録音を聴いたら、なんだこりゃというひどいものでした(汗)やっぱり今主に練習している曲というのと、地道な(そう、地道だと思います!)レッスンの力というのは、私にとっては大きな要素だと思いました。でも、やっぱりメカ的に厳しい曲もまだがんばってみたい。バランスをうまくとることが大切ですね。

 その後楽しい話で盛り上がりました。きらきら星をいろいろな作曲家の曲にアレンジしたらどのようになるか試しに作ってみたという楽譜にはびっくり。バッハ、古典派、ロマン派、近現代、だけでも笑えたのですが、十二音技法や日本の俳句になぞらえたアレンジもあって楽しませていただだきました。世の中には面白いことを考える人がいるものですね。

 世の中には面白いこと、ということで思ったのですが、みなさんがよく知っている作曲家でも、意外な側面を感じさせる曲を作ったりしています。次回はその話で。


今日はジョン・ケージの誕生日

2012年09月05日 | ピアノ・音楽

 今日はアメリカの作曲家ジョン・ケージの誕生日です。現代音楽とは無縁だった私。しかしOttava armosoという番組で特集をやっており、いつのまにか惹きつけられていたのに気づきました。もちろん斬新で不協和音がたくさん含まれた曲もありますが、このようなゆったりとした美しいピアノ曲も作っているのです。ただずいぶんピアノの背が低いのですが。。。本当に演奏されたピアノの高さはこんなに低かったのでしょうか?そしてこのような無理な姿勢で弾いていたのでしょうか?

John Cage "In A Landscape"

 かと思えば、まさに現代音楽まっしぐらの不協和音まっしぐらと思えそうなピアノ曲もあります。楽譜も面白いです。音符を囲んでいる○と数字の意味が気になります。この曲からメロディーや和声を探し当てようなどと考えたりしてはいけません。他の楽器の使われ方も斬新ですし、ピアノも普通のピアノではなくものすごく改造されたピアノのようです。このようなピアノのことを「プリペアド・ピアノ」というそうですね。

John Cage "Piano Concerto"

かと思えば、どことなく亜熱帯の南国を連想させる音楽もあります。ちょっと和風な雰囲気も感じられます。のどかな気分になってきます。先ほどのピアノコンチェルトはこりごりと思われた方も、この曲は聴けるのでないか、と思っています。

John Cage "Music for Marcel Duchamp"

 彼の曲にはどのような楽器、いや物を使って演奏されたのか分からない曲もあるようです。

 そしてJohn Cageといえばやっぱりこの曲でしょう!この曲を聴かないわけにはいきません!!!

 現代音楽に詳しい方からお聞きした話なのですが、ケージは、「耳を傾ける、という行為の対象が音楽である」ととらえていたそうです。すなわち、街のざわめき、人の声、あらゆる物音でも、それらに意識が向いたとき、それは音楽になる、とケージはとらえていました。そう考えれば考えるほど、ケージは、耳を傾けることの大切さを伝えてくれたのではないか、という気がしてきます。

  耳を傾けると音楽、ということは、便器に「リチャード・マット」とサインをしただけで泉と名付け作品として発表し、目を向けると美術だととらえることを提唱したマルセル・デュシャンとも似ているような気がしてますます面白く感じられました。

 ちなみにケージは辞書でmusicの前にmushroomがあったという理由で、キノコの研究にも取り組み、ニューヨーク菌類学会の創立に関わったそうです。Wikipediaによるとキノコから創作や思想の着想を得ており、みずからの音楽論とキノコの関係について語り、キノコの生態が出す音について想像し、エリック・サティの音楽をキノコにたとえたそうです。

 人間的にも魅力的なケージの虜に。。。なりかかっています。ただ、彼の曲を演奏する勇気や力量はさすがにありませんが。