いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

いろいろ

2011年07月31日 | 読書

 最近改めて読んでいるブログがあります。本ブログで紹介しておきながら、いつの間にか自分は読まなくなっていたのに、ある方がちゃんと読んでくださっていたのを知り、改めて読もうと思った伊熊よし子さんのブログです。そのブログの記事に、いいタイミングでピアニストの萩原麻未さんの記事が出てきました。このブログで紹介するのはちょっと恐縮なのですが、出身が同県だし、演奏も一度だけですが聴いたことがあるのです。初めて聴いた演奏もすごいなあ、うまいなあと思ったけれど、世界的なピアニストになられましたね。最近演奏を聴いていないので聴いてみたいです。(9月にハープとデュオの演奏会があるようです)


 本も読みました。『音楽演奏の社会史』大崎滋生氏著 ある方のブログに紹介してあり興味が湧き購入していたのですが、なかなか最後まで読めずにいました。しかしやっと読めました。興味深い内容を誠実に書いていると感じました。でも今のところ内容がまとまらず。。。音楽を純粋な音の並びとしてだけではなく、社会的なコンテキストや演奏慣習で見る必要がある、ということと、過去の慣習を知ったとしても過去の音楽が初めて演奏された時点に戻ることはできない(たとえば当時の社会的環境と現代とは違うし、人々のとらえ方も明らかに違う)ので、本当に完全には音楽の復興はできないのだけど、当時の環境を知り近い状況を作ることによって、立つべき前提を確認することによって近づいたり意味のあるものにしたりできるのでは、といったような内容だったと思います。


 ほかにも読んだ本がありました。『からだで変わるピアノ』宇治田かおるさん著、ピアノを弾くうえで体の使い方が非常に大切だということを述べた本ですが、まずピアノが好きだということ自体が才能だ、その人の演奏はその人しかできない、という内容で勇気づけられた私です(甘い?)。フォルテのところはピアノで、ピアノのところはフォルテで練習するのもあり、とのこと。


 『オーケストラが好きになる事典』緒方英子さん著、も読んでいました。オーケストラに出てくる楽器の奏者たちの裏話が興味深く語られていました。ヴァイオリンは篠崎史紀氏、ピアノは横山幸雄氏でした。それにしてもピアノ以外の楽器の奏者って、楽器に対しておどろくほど神経を使っているのだなあと。おどろくべき話もあったのですが、また気が向いたときに紹介します。


 そして読む予定の本を他にも何冊か買っているということは、それらの本と確かに縁があるということなのですが・・・・。


飲み会

2011年07月29日 | 日記

 飲み会に行きました。職場の人たちと横浜市内のイタリアンと飲み放題の店に行ったのですが、楽しかったです。こちらに来てから横浜市内でそういう飲み会に行ったの、実は初めてでした。お互いなかなか時間が合わなかったのもあり。結構飲んだのでくらくらです。


 意識はちゃんとあるので明日はなんとか起きれるでしょう。


 


「かっこう」という曲

2011年07月29日 | ピアノ・音楽

 横断歩道や駅で時々流れるドイツ民謡のかっこう。リコーダーの入門曲にもなっています。「ソ」と「ミ」という2音だけで森の中にはいった気分になれる強力な曲だと思います。

 さてこのかっこう、最初の音と2番目の音とどちらが強調されるでしょうか?主に出回っている掲載楽譜に従うと、3拍子の基本から考えたら、最初の「ソ」が強調されるように思えそうですが、なんとなく違和感を感じます。むしろ2番目の「ミ」に重心を持って行ったほうが自然な気がします。そうだとすると、楽譜も「ソ」は3拍子の3拍目、すなわち弱起から始まり、次の「ミ」が1拍目になるのが自然なのではないか、と思えたのですが、そのような楽譜はあるのだろうか、と思いました(追記:ドイツ民謡「かっこう」ではありませんが、ヨナーソン作曲の「かっこうワルツ」でそのような楽譜を見つけました)。弱起ではじまる楽譜でいくとすると「レドレ」のところ、「ド」が1拍目になってしまい不自然ですが、2回目の「ソミ」の後は2拍分休符が入るとつじつまが合います。

 ちなみにかっこうの楽譜、「ソ」、または「ミ」が2分音符になっていたり、8分音符が紛れ込んでいたりとバリエーションがあるようです。しかし3拍子の基本を学ぶのだとしたら、ドイツ民謡のかっこうを採り入れるときには気を付けたほうがいいかも、と門外漢ながらも感じた次第です。または楽譜通り「ソ」が1拍目で始まるのだととらえるのだとしたら、ワルツは3拍ではなくて、1小節分が1拍で4小節分でひとまとまり、という話の根拠のひとつになるような気がしてきました。


スタッカートだけどつなげた感じに

2011年07月29日 | ピアノ・音楽

 久しぶりに楽譜入りの記事を書きます。楽譜はサイトから引っ張ってきました。楽譜を写真にとって載せていた時期(マメだった・・・)と比べたら明らかに手抜きで、あまりよろしくないのですが、写真にとって載せようと思ったらさらに腰が重くなりそうです。ご了承ください。

 ベートーヴェンソナタ第5番の第3楽章は16小節目から第2主題に入ります。前の第1主題からがらりと一転し、のどかな雰囲気になりますが、なぜかスタッカートがついているのです。スタッカートに忠実に従いただただ切って弾こうとするとフレーズ感がなくなってしまい、まずいことになります。特にこの楽譜の水色で囲んだ。右手高音部でいうと19小節目の最後の音「ミ♭」と20小節目の最初の音「シ♭」の間が難しいです。小さな単位では18小節目の後半から、大きな単位で行くと16小節目から有機的につながった感じで弾きたいです。ここでいうと少なくとも19小節目最後の「ミ♭」よりは20小節目の「シ♭」のほうが音量が小さく、そしてちょっぴりですが落ち着いていく方向に向かうようにしたいのですが、「ミ♭」と「シ♭」とが関係ないように聴こえるようなぶつ切れ現象、「シ♭」のほうが音量が大きくなるという現象、「シ♭」のところの和音のミスタッチ現象など望まない現象が起きやすいところでもあります。水色で囲んだ二音を取り出してぴったりはまったらひとまず万歳。ペダルにも頼れないし、指に力を入れるというようなことはしたくないので、指の感覚を研ぎ澄ませ、手首や腕や体を弾きやすいように動かすことがポイントのような気がしています。

 とっても細かいことだし、ついつい見逃してしまいやすいのですが、隣り合わせの音どうしの関係をつかんで、納得できるように弾けるようになるのが第一歩のように思います。3音以上になるとさらに階層化して複雑になりますが。。。。。違和感なく自然に聴こえるように弾けるようになることが第1課題ですね。ロマン派までのクラシック音楽では、フレーズ内ではポコリと飛び出た音ができるだけでないように滑らかに聴こえるように弾けることが大切なところが多く、それができたら自然に聴こえるようになることも多いというのが分かってきました。(一方ジャズピアノではあえてでこぼこを作ることで魅力をだしている演奏がありますね。そういう演奏も大好きですが、今私が練習している曲にはあてはまらないです。クラシックでも近現代はそういう曲が多いかもしれませんね。またでこぼこでもなめらかでも、音同士のつながりは有機的でお互い関連しているということを忘れてはいけないと思いました)


色川武大 『うらおもて人生録』

2011年07月27日 | 読書

 まとめて読書する、ということがめっきり減っていてなんとかしたい、と思いながらも読みとおしたです。著者は自称劣等生不良少年出身で、賭博の世界でも有名で麻雀小説も書いていたということも知ったのですが、人生や物事の本質を鋭くとらえていると感じました。若いときに読んでおきたかった本でもあります。ここで紹介したくないぐらい(笑)(また賭け事を決してすすめているわけではないこともご理解ください)主な内容です。


 大勢の人にあるがままで関心を持てたのは幸せだと思う。好きになれたのも幸せだと思う。何十年か前のゴミ屋さんの顔や口もきいたことのない運転手さんたちの顔なんかを思い出せたことが心の支えになることもあったそうです。


 プロの勝負の世界で大切なのはフォームを崩さないこと、9勝6敗を守ることが大切。そのときたまたまというのではだめ、いつも維持できていないと。継続自体が本当は大変なんですね。あれこれ考えすぎるのがよくないこともある。マイナスを消そうとすると長所が消えてしまうこともあるし。大事なところでチャランポランになる能力、というのが必要だ。自分のそのときの限界を見せてしまわないこと(ついついやってしまうのですが)。スケールの大きさが大切。


 中学のころ主席を通した男のすごかったところはずばぬけてスケールが大きかったことだ。学校側が与えるものを乾いた砂地が水を吸い込むようにうのみのように飲み込んでいた。非常に素直になる努力をしていたということだ(ちなみに卒業後は脇目もふらず英文学の世界に突っ込み学者になったそうです)


 生きている、というだけで、すでになにがしかの運を使っている。けっして、権利で当然生きているわけじゃない。それ以上の運を費やそうと思ったらそれなりの努力が必要なんですね。


 わかるということは、言葉でわかったりすることじゃない。わかるということは、反射的にそのように身体が動くってこと。なんだか実生活やピアノでも言えそうなことです。


 ばくちでは勝ち星が先、負け星が後だけど、実生活では負け星が先、それから勝ち星。自分を客観的(外から眺める)ことが大切。


 どんな人にもどこかに短所があると思う。その短所とちゃんと向かい合うことから始まる。そしてその短所が致命傷となるようなコースは避けよう。そして自分の一病(短所)をこれだと定めて、これは仕方がないから養うしかない、と思ったら完全人間の誇りは捨てること。その一病に対しては他人から軽く扱われても怒っちゃいけない。


 色川さんって、非常に愛情あふれた温かい心の持ち主だったのだと思う。近くにいたら大変な人だったのかもしれないけれど。


 


刺激と消化と集中

2011年07月26日 | 日記

練習会で刺激を受け

 

レッスンで刺激を受け

 

人から刺激を受け

 

町で刺激を受け

 

 

 

刺激の方向は、多方面にわたっています。そしてその刺激を受けた瞬間、感動して「こうするぞ!」と思います。

 

でも刺激を受けた後の、消化が大切なんですね。瞬間的に刺激を受けて、それだけで終わってはいけないと思うのです。その刺激を、ちゃんと消化しないとね。

 

リストのコンソレーション第3番が好き。しかし2番はもっと好き。レッスンで1~3番まで続けて弾きたいと言ったらチャレンジャーだと言われました。確かにどの曲も中身は濃いものの。でもチャレンジャーでも2番と3番の両立はするつもりです。だって2番好きなんだもの。旋律の優美さ、和音の色彩変化の美しさは言うまでもないのですが、今までの曲で体験したことのないスケールの大きさを感じます。それこそリストらしさのような気がします。どういうところでスケールの大きさを感じるのか、という点については、また考察することにして。

 

その前にまだまだベートーヴェン、つかめていない、ということが分かりました。5番第3楽章、自分では弾けていたつもりでも、ところどころに落とし穴があったようです。スタッカートでもレガートから練習始めたほうがいいところがあるみたい。休符がなくて激しく変化するところもあるみたい。もっと意識的に見ていく必要があるようです。細かいところをつめていったらそれなりのものになると思うから。

 

バッハの6番のレッスンは楽しみでした。8分の6拍子なので4小節分を1小節分としてとらえるほうがいいみたい。なかなかユニークな曲ですが、美しく軽やかに聴こえるように工夫がいりそうです。

 

消化するためには集中が必要ですね。このごろ仕事時以外の集中力がなくていけません。消化したいものの焦点をはっきりと決めて、ここぞというときは集中できるようになりたいです。

 


ペダル

2011年07月21日 | ピアノ・音楽

 今日は真ん中にあるソステヌートペダルを久しぶりに踏んでみました。そうしたらペダルを踏む直前に弾いた音だけが長く伸び、ほかの音は全くペダルの影響を受けない状態でした。伸ばしたい音だけを伸ばせるのだから、非常に便利なペダルだと思うのですが、今日は便利さを感じるよりも、難しさを感じました。その音だけが妙に際立っていて不自然。バランスがとれていないのです。直接伸ばしたいと思っていない音のキーも、ダンパーペダルでダンパーを弦から解放させた状態にしたほうが自然なように感じました。ソステヌートペダルをうまく使うのは難しい、とよく言われていることがすとんと腑に落ちたような状態です。しかし響きがお風呂での音も連想させるダンパーペダルの場合は、下手したら「濁る」という状態と紙一重の状態でもあります。濁らないハーフ、いやクォーターペダルを踏めるようになると本当に幅が広がるでしょうね。

 ダンパーペダルを踏むことは大人の演奏のはじまりだ、と思いペダルにあこがれていた子供のころ。(なかなか踏むことができなかったのでつまらなく感じていた思い出も)ペダルを使えるようになった、ということは背が伸びて足が床に届くようになった、というだけでなく、弦を手なづけられるようになったということの証明のような気がします。


そっくり

2011年07月20日 | ピアノ・音楽

 マーラーの交響曲第1番『巨人』の第4楽章とショスタコービッチの交響曲第5番『革命』の第4楽章は出だしがよく似ていると感じた。

 マーラーの巨人は1884年から1888年、ショスタコービッチの革命は1936年に作られたので、約半世紀を隔てて作曲されたということになる。ちなみにショスタコービッチの革命は、彼の作品全体からみたら古典的な傾向の強い作品らしい(他のショスタコービッチの作品を知らないので、比較できていないのだが)。 ショスタコービッチは交響曲を作る際にマーラーを意識していたというから、この曲を作る上でもヒントにしたかもしれない。

 どちらも激しく勇ましく、大変なことが起ころうとしているような雰囲気だ。 彼らの生きてきた時代を踏まえ、これらの曲が伝えたかった意味について多くの解釈が加えられているそうだ。一方そのような解釈から離れ純粋に音楽的にとらえようとしている傾向もあるそうだ。

 好きでも嫌いでもないのだが、なぜか頭から離れないこの二曲です(汗)。

 お気に入りは前の文とまったく関係ないのだがこの曲。やっぱり弾けるようになりたいな。

ホロヴィッツの演奏も見つけました。

聴いているだけでその気に(爆)

ホロヴィッツ演奏、コンソレーション3番も素敵でした♪


布の購入

2011年07月19日 | 日記

 今日は仕事も歌も休み。そこで以前から気になっていたところにでかけました。手芸店です。スカートがほしい、できたら安く気に入ったのを手に入れたい、と思ったら、縫うのがベストのように思えたのです。しかしです。家庭科の時間の作業は人よりも遅く、洋裁が好きな母の血を一体どこでついでいるのかと思えるような状態の私がこういうことを始めること自体チャレンジャー的行為のような気がします。(でもこれでも編み物や刺繍はしていたのですよ。母から洋裁を学ぶような素直さがなかったのがちょっと残念。)そのように苦手意識がある上に、子供がいるわけでもないので必然的に縫わなければいけない、という機会もありません(いや、それは言い訳だな)。職場に自分で作ったスカートを履いてきている人がいて心から尊敬していたのですが、そう思うのなら自分で縫ったらいいではないか、ということに。 

 そう思いフィットパターンを買ったのは3か月前。一番簡単に縫えそうなのを買いました。

 しかし3か月前から今日の布購入に至るまでの道のりは非常に長いものでした。なにしろこの私がちゃんと縫いあげそうな保証はまったくと言っていいぐらいないのです。しかし、1か月前ぐらいに同僚の話を聞いたら布購入まではスムーズに行うとのこと。そして縫うときはフィットパターンの指示にしたがってえいやって縫うとのこと。なるほど、と思いました。とにかく布さえ買えば勢いに乗って縫うという方向へ一気にいきやすいかもしれません。しかしそう思い立ってから実際の布購入までにまた1か月が経過してしまったのですが。

 そして今日ついに布を購入しました。しかし買っただけで精一杯、縫うところにまではいかず。これから1か月後に縫うのだとしたら夏が終わってしまうではないですか(汗)でもたとえ夏が終わったとしてもせっかく布を買ったのだから一着は縫い上げよう、と思っています。

 ちなみに手芸店でもうろうろしっぱなし、忙しそうな店員さんを無理やり捕まえては「この布でスカートは縫えますか」「鍵ホックはどこにありますか」「ベルトに使う接着芯にはどれを使ったらいいですか」というような若葉マークの質問をしていました。若い方がたくさん来ていましたが、私のようなド初心者はいなそうでした。本当は手芸店の洋裁教室で教えてもらいたかったのですが、残念ながら曜日が合わず。でも未知の分野の若葉マークの入口に立っただけでも誇りに思いたいです。

 さて、私が晴れてスカートを縫い上げる日はいつでしょうか。いや、それ以前に、そういう日はやってくるのでしょうか。

 


乙女滝

2011年07月18日 | 気になる場所、風景
蓼科にある乙女滝という滝です。乙女とは言えども水の勢いはかなり激しいものでした。水に打たれるすれすれのところが気持ちいいのです。本当に打たれたりしたら気持ちいいでは済まず、修行になってしまうのかもしれませんが。
先程の車山や北八ヶ岳には人がたくさんいましたが、この乙女滝のそばには他に誰一人人がいませんでした。秘伝の滝みたいでした。近くにいるだけでエネルギーが沸きました。