発表会に江の島にと嬉しい記事を書いたGWからほぼ1ヶ月。月日が経つのはあっという間ですね。その間に鎌倉文学館に出かけ文豪たちの直筆を楽しんだり美しい薔薇を愛でたりもしていたのですが、おたおたしているうちに日にちがたってしまいました。
薔薇園に咲いていた目に留まった薔薇の写真を数枚貼りつけますね
左からブラックティー、サプライズ、ノヴァーリスです。花の特徴をよく表した名前がついているような気がするのは単なる気のせいではないですよね
そして鉢植えのサツキが今年はなんと咲きました!一昨年まではこのように咲いていたのに 昨年はほぼ二輪しか咲かず、世話の仕方がよくなかったのだろうかと思っていましたが今年は見事に満開でした今はピークを過ぎてしまいましたが、ピークだったころの写真を載せます。諦めないで毎日水をあげつづけてよかった、と思いました。もっと賑やかになったら剪定もしたほうがよくなるかもしれませんが。
twitterで色々な美しい花をガーデニングで育てている方たちに出会い、出遅れながらも私も他の苗も育てようと思い始めていたところでした。
がらりと話題は変わるのですがピアノも新曲に取り組み、サークルの練習会や歌の教室に通っていたときの仲間との練習会に出て音楽も楽しんでいました。その新曲というのは。。。一生に一度は弾きたいとレッスンで呟いた結果実現した作曲家ラフマニノフの曲です!そのラフマニノフの曲、繰り返しがあるようで実は微妙に変えていたりとひねっているところを見つけてはにんまりしていました。もともと結構激しい曲なのでうまく弾けば単調には絶対にならない曲なのですが、それでも音を変えたり強弱記号を変えたりと曲の表情を少しずつ変えようと工夫しながら作曲していたということに気付きさすが大作曲家だと感じ入ったところでした。弾き始める前から、構造についてはちゃんとつかんでおくのが本筋だとは思うのですけどね。分からなくてもついつい音を出したくなって、めちゃくちゃで弾けていなくても思わず最後まで通したくなる、というのがよくないところでもあります。そんな曖昧な状態で持って行ったときの人前での演奏はなにを弾いているのやら分からないものに。。。。思いっきりゆっくりした練習をやり直そうと思っているところです。
おっと、タイトルに「実は」と書きながらも延ばし延ばしにしていました。でもそのまま延ばし延ばしにしていてはいけませんね、「実は」の続きを書きます。
8月に主人の転勤で引っ越すことになりました
そして行き先は
時期も行き先も全く予想していなかったので何が何やら分からない状態でした。知らせから一週間たった今日、やっと、冷静になり現実を直視できるようになってきた状態です。まだまだ横浜にいるだろうと高をくくっていたし、行くにしても日本海側に行くことはないだろうと思い込んでいましたが、私の思い込みは一気に覆されました。
横浜という大都会に来たということでわくわくし、物価は高いのにも関わらず行きたいところには足を運びたくて仕方なかった1年目、それからだんだんこの刺激の多さが普通になってきてマンネリ化しながらも便利さ、出会う方たちの温かさにおぼれ甘えていたその後。そうしながらも何でもあるということの有難味を感じ、これからは自分なりに頑張りながら横浜での生活を満喫しようと思っていた矢先だったので。コンサートもたくさんありました。クラシック音楽が多くの人々の間に根付いていたような気がしています。それが嬉しくて私も一年目二年目は気になったらすぐに足を運んでいました。さすがに最近は無理してまではカバーしようとは思わなくなっていましたが。。。弾く方もたくさん経験させていただきました。早速コンクールに出たのはさすがにチャレンジでしたが(そして厳しい結果でしたが)発表会やSTEPなどで人前で弾く経験も出来たと思います。もっと真剣に向き合わねば、と毎回喝を入れながらやってきましたが貴重な経験でした。でも人前、まだありました、緊張しますが貴重な機会だと思うのでちゃんと向き合わねば。
関東地方は自然に乏しいのでは、という予想は外れていたと思います。浦賀の観音崎灯台周辺の見事な海岸、久里浜の美しい海や花に溢れた公園、箱根に行って富士山も見ることが出来たし、袋田の滝、小諸の懐古園、神奈川の最乗寺や長谷寺で紅葉、そして東京の新宿御苑や神奈川の三ツ池公園で桜を楽しむこともできたし、その他日光、軽井沢、江の島にも行けたし、色々な所に行けてよかったとしみじみ。そしておまけに今年は思いがけず大雪にも遭遇。我々の場合これが今後雪のたくさん降りそうなところに向かうための予告だったようにも思えてきたのですが。。。
心優しい仲間たちとの突然のお別れもさみしくとても名残惜しいのですが、受け入れて、前へ向こうとやっと思えてきているところです、それもですが引っ越し準備、5年前の記憶を取り戻さねばなりません、あの恐ろしく大変だった記憶がよみがえってきました。二度目なので少しは予想ができているし、準備も少しずつ進めているのですが、それでもやっぱり忘れていることや新たにしなければならないことがあるのでうかうかしていられませんね。
引越し先の富山は美しい自然と美味しい食べ物に恵まれていそうです、土地勘もないですし、今までの便利な生活では通用しないところもあるかもしれませんが、少しでも前向きな気持ちで歩んでいきたいと思います。
今後もブログ更新しようと思います!これからもよろしくお願いします♪
昨日は横浜、まるで雪国のように雪が降りましたね。このような雪を見たのは本当に久しぶり。移動された方の中には交通機関が止まって自宅に帰れなかった方もいらっしゃるようですね。私も実は移動があったのですが、幸い電車が止まる前に帰ることができました。今朝帰路の途につかれる方もいるかと思いますが暖かくしておすごしください。
そういう中で不謹慎な気もするのですが普段撮れないような写真を撮ることが出来ました。
雪帽子をかぶったポストです。珍しいものが突然乗っかってきてびっくりしているような気がします。
ここはシベリアではありませんよ~横浜ですよ♪
この木、どことなく怪獣に似ています。今にもむくりと動き出しそうな様子です。
というわけで目を付けてみました。
迫力がありますね、美しいですが凄味があります。ちょっとこわいですね。その後雪が木からどさっと降ってきそうですね。
アップです。葉っぱも雪の重みに耐えながらもしっかり支えています。内心重い重いと言っているような気もするのですが。
風が強かったのはきつかったですがこのような雪を見ることができたのは珍しくて思わず写真をたくさん撮りました。雪国出身の友人はなつかしいと言っていました。
今日は横浜は雪もやみ少しは暖かくなりそうです。暖かくなったり、寒くなったりを繰り返しながら、徐々に、暖かくなり、春が近づいてくるのでしょうね♪
ドラマチック
という言葉から皆さんは何を連想されますか?
ドラマチック、日本語でいうと「劇的」という意味ですが、なかなかこの言葉、使うのが難しいことが分かってきました。私はドラマチックという言葉をあまりにも多用しすぎる傾向があったかもしれません。
例えばベートーヴェンソナタの第5番、ドラマチックに弾きたいと述べたら、悲愴ソナタや熱情ソナタなら分かるけれど第5番はドラマチックというほどではない、と言われたことがあります。そのとき感じたことは自分の曲へのとらえ方の甘さとともに言葉の選択の甘さでした。しかしそれでもいいのでは、ドラマチックでもいいのでは、という思いも少し残っていました。少なくともその前に弾いていたソナタ20番よりはドラマチックなんだけどな、この曲はドラマチックに弾いたほうが思いを込めて弾けるのにな、と思ったり。
いや、熱情ソナタでも別の人にとってはドラマチックの定義に当てはまらない可能性があります、むしろ、あって当たり前かもしれません。激しく情熱的=ドラマチックだとは言えないこともあるのです。
ドラマチックだけではありません、音楽を言葉で表すことによって、音楽により近づくことができるかもしれませんが、安易に用いることは却って音楽から遠ざかる危険性もあるかもしれない、と感じるこのごろです。でもそういう危険性を恐れてばかりいたらそれはまたつまらないのですが。。。
ちなみに昨日テレビで、三省堂の国語辞典の編集について、良友だった二人の国語学者が辞書についての考え方の相違がゆえに決別することになったものの、お互いがそれぞれの個性を生かし素晴らしい辞書を作った話を見ました。見坊 豪紀氏は辞書を「かがみ」であると捉え、言葉の実態を映す「鏡」の性格と、言葉を正す「鑑」の性格を持つものでなければならないという主張のもとに出来る限り多くの言葉を収集し客観的な記述を求め、「三省堂国語辞典」を作りました。一方、 山田忠雄氏は言葉の意味の定義に堂々巡りがあってはならぬ、辞書は語釈を楽しんで読むものであり、そこには社会風刺も含まれてよい、という考えのもとに説明を詳しくした、「新明解国語辞典」を作りました。たとえば、恋愛、動物園という言葉を新明解国語辞典で調べてみたらちょっと過激でリアルな説明が描かれています。一方三省堂国語辞典には時代に応じてウルトラマンが登場したり (第六版では退場したそうです)、第六版では「マスオさん」「耳をダンボにする」のような言葉もきちんと採りあげられています。辞書のように言葉を客観的に扱っていそうな書物の編纂でもこのようなことがあるのです。言葉は物事を的確には表し切れない、しかし人は言葉がなければ生きていけない。本当に、まったくですね。
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広島風のお好み焼きといえばこちらにきてからご無沙汰していた食べ物のリスト上位。常に食べていたいわけではないものの、ときどき懐かしくなるメニューの一つ。しかし美味しい店があるという情報が友人から入ってきました。そうだと知れば行かないわけにはいきません。ついに今晩実現。新橋のソニアという店に行ってきました。新橋駅から南に10分ぐらい歩いたところにあります。
中に入った途端広島カープの選手のポスターと応援グッズメガフォンが目に入ってきました。上の方を見るとカープ坊やのかかれたシロップらしきものも。広島の観光マップも置いてあったりして、店内自体が広島になっていました。熱くて厚い鉄板であの薄い生地を焼いている店員さん。別のところで野菜、そば、お肉、卵を炒めている、あの光景、広島で何度も観てきた光景ではないですか。光景だけではなく味も期待できそう。もみじのイラストが描いてあるメニューを見て、主人はイカとエビ入りの海鮮デラックス、私はイカ天入りのソニア焼きをいただきました。イカ天美味しいのですよ!
ど~んと出てきたお好み焼きは、ぎっしりとそばと野菜とお肉とイカ天が入り、上にはお好みソースに青のり、そしてネギがたっぷりと載っていて広島のお好み焼きそのもの。なつかしさにあふれた気持ちでいただきました。あの濃厚な味とボリューム、しっとりした感覚も期待どおり、とても美味しかったです。しその大葉ととろろ昆布がいい味出していました。ボリュームもですが懐かしさとうれしさでさらにお腹がいっぱいになりました。
東京近郊に住んでいて広島のお好み焼きが食べたい、と思われた方はぜひ。ただこのお店、平日は開店しているものの、土曜日は夜のみ開店、日曜日は休みです。ゴールデンウィークも3~7日が休みなのでその点は残念です。また混んでいることが多いので、予約を入れたほうが確実だと思います。
知り合いの歩きはじめた方の影響を受け、久しぶりに1時間ぐらい歩きました。近所を走っていた貨物の鉄道がこんなのだったとか、このようなところにこんなに素敵な公園やスポーツ広場があったのだとか、多くの発見がありました。自転車には乗らなくなってしまっていたし、歩くところは駅周辺の限られたところばかり。駅や商店街など、生活で必要とされるコースしか歩くことがなく、感覚も限られたものになっていたような気がするのですが、歩くことによって眠っていた感覚がわずか1時間ぐらいでよみがえってきたみたい。これから暖かくなるので時間のある時にはぜひ続けたいと思いました。
そして次弾く曲。レッスンとは無関係なのですが、ある方とブラームスのハンガリー舞曲5番の連弾をすることになりました。ハンガリー舞曲の連弾、前からあこがれていたのでうれしくて。でもかっこいい1番がいいなどはじめはわがままな気持ちになっていました。しかし練習してみたらやっぱり楽しいです。本当は自分のセコンドパートだけだと物足りないのですが、合わせたらわくわくしそう。今日はちょっと相手の方のプリモも弾いてみました。プリモも弾きこたえありそう。私にとっては「レーソ シ♭ーソ ファー♯ソラ ソー」の「ファー♯ソラソー」の「ソラ」の16分音符とその次の「ソー」への移行が難しそうに思えました。「ソラ」は軽くしながらもかすらずに聴こえるように、そして「ソー」でうまくおさまるように。片手につまった中身の濃さ。こういうことってレッスンで私がよく言われているようなことだなあ。。。(汗)セコンドのポイントは何だろう、拍感、和声感、推進力、まとまりかしら。曲を下から支え進めていく役割を果たしていそうだな。
ソロで弾く曲は・・・候補はたくさん。譜読みだけは欲張りたくて弾き散らし大会。実はこの本番後初レッスンの前というのはパラダイス期間、できるだけ間をあけたくなったりするのですが、雑な譜読みをすると却って遠回りになるとの先生の話。確かにそうなんだよなあ。でもレッスンとは無関係にたくさんの曲を譜読みして弾こうとするのはやっぱり楽しいのです、なかなか弾けるようにならなくてもです。困りましたねぇ。本当はたくさんの曲を一度に診てもらっても弾けているぐらいの力があればいいのですが1曲でも節穴の私には険しい道のようで(涙)でも、しばらくはこのパラダイス期間はパラダイスとして楽しむことにします。
重なるものなのかしら?と思うぐらい、いろいろなことが重なっている感じがする今日この頃。
仕事も山場は超えたようなものの、それにともなう追加がずっしり。少ない人数で回しているのでヘビーさがさらに増し
ピアノもあることをするのならそのことがある時期までにできるようにと言われ、ちょっと早いのではとは思ったもののよく考えてみたらそうでもないことに気づいた状況。実は相当根詰めないとできるようにならなそうなことが判明。(あくまでも私のレベルでです。脳細胞の減少と真剣勝負)
そしてもうすぐで完成しそうなもの、聴こう、観ようと思いながら保留している音楽や映像があり
それなのになぜか文章が書きたくなる心境。。。これだけどね。絵はお休みにしたのにね。
それらのことをすべてほっぽり投げたら、楽だろうな~、後悔しそうだけど。
今週の土日は引き締めの週末だ。日曜日は節分だった、ちょうどよさそうな気がしてきた。
(でも日々さらにヘビーな生活をしている方がたくさんいらっしゃると思うと、まだまだちょろいのだろうな、とも思う。)
韓国が初めてロケットの打ち上げに成功したのだそうだ。意外にのんびりしていたんだね。
小学生のころ、私は大人になったら宇宙に行けるようになるものだと思っていたし、行くつもりでいた。
当時、宇宙ステーションらしき挿絵のついた、21世紀になったら誰もが宇宙に行けるようになるだろう、という文章の書かれた本を読んでいた。その仲間に自分は当然入るものだと思っていた。そこにたどりつくまでの果てしない茨の道などはまったく知らなかったから。
宇宙の音なんて想像してみたら面白い話が広がりそうだな。昨日からの続きのような気もするし。
それにしても今思ってみたら、幸せな子供時代だったんだな。
東京都現代美術館のお土産コーナーにあったある本のタイトルを見て、どきりとした。
「アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン」大野佐紀子 著
本の趣旨は「アート」の名の下にすべてが曖昧に受容される現在を、根底から見つめ、その欲望を洗い出す。とのこと。
立ち読みしただけで買ってはいないが読みたくなった。
私がこのタイトルと趣旨を読んでどきりとした理由は以下の通り。本自体読んでもいないのだが、読む前に書いておこうと思った。少し自戒を込めて。
1.「アート」という言葉が大好きでよく使っているから。音楽も美術も文学も工芸も演劇も舞踏も料理も建築も華道も茶道も書道も武道もスポーツも手芸も和裁洋裁もそれらのどこにも属していなそうなものでも個性的でとがっていそうなものを指し示すときに頻繁に使っているから。各ジャンルを区分けせずにまとめてくれる便利で素敵な言葉だと思っていた。
2.「アート」と名付けられたものを見るとそのように名づけられる優れた根拠があるはずだ、と思いやすいから。思わなかったとしても、思いたいと思うことが多いから。
3.「アート」という名のものを絶対的だと思いやすいから。たとえば常識に反したことやひどいことががそこでなされていたとしても、「アート」だから、とか、その人の「アート」だから、という言葉のもとで、すべてが許されるような気持ちになったりしやすいから。「美学」という言葉もそういう面では同じだ。
4.そうなのに「アート」と定義づけられたものにあこがれているから。普通でいたいようで謎めきたい。謎めきたいようで普通でいたい。矛盾している。
5.4番の文章の「矛盾している」の後に、「そこも含め実はアートかもしれないが」という文を一瞬書きそうになったから。冷静に読んだらどこまで自意識過剰なのかと問いたくなる文でしかないのだが一瞬書きそうになった。つまり「アート」という言葉は1番の大好きという次元とは別に、曖昧なものを深く考えずにかっこよくまとめるのに登場させたくなる言葉No.1に該当する。「芸術」という言葉ほど畏れ多くなく気軽に使えそうなところにも起因している気がする。
そう書きながらも、目から鱗の落ちそうな思いと強い感動とが共存するようなものに出くわしたとき「これこそまさにアートだね!」とつぶやきそうな気がする。しかしアートという言葉でごまかしそうな我々にとって、この問題を考えるのは有意義なことなのではないだろうか、と思った。
読んでもいないのに想像だけをふくらましていたが、きっとこの本、いい本のような気がする。読める日がやってくるのが楽しみだ。