古屋晋一著『ピアニストの脳を科学する超絶技巧のメカニズム』春秋社のレビュー&要約の続きです。その後の文章は普通体で書きます。ここでいうピアニストは前記事と同様、プロの演奏家で巧みに鍵盤を操る人のことととらえていただけたらと思います。
良い耳の秘訣とは?
同じ鍵盤を2回続けて押したとき、1回目と2回目との音色の違いが聴き分けられるだろうか。。。そういう響きの違いを聴き分けられることができて初めて「タッチの違い」を理解できる。そしてピアニストはそんな音の表情のほんのわずかな違いを聴き分けることが出来る。その耳の秘訣は?
耳に届いた音の波は蝸牛で電気の信号に変換された後、脳幹での下準備、視床、聴覚野の順に送られる。聴覚野では音のピッチ(高さ)や音色、メロディの判別が行われるが、音楽家は、聴覚野の中の「ヘッシェル回」と呼ばれる脳部位の大きさが2倍以上であり、音の情報を処理するための神経細胞の数も多い。音が鳴った約0.02~0.03秒後に活動する聴覚野の神経細胞の反応は2倍近く大きく、ピアノの音を聴いた0.1~0.2秒後に現われる神経細胞の活動も音楽家のほうがそうでない人よりも大きい。そのことから音楽家は、音を聴いた時に働く聴覚野の神経細胞の数が多く働きが優れているので、音の様々な特徴を正確に処理したりさまざまな表情を聴き分けたりすることが出来る。そしてとくに自分の演奏している楽器など普段よく聴いている楽器に対してその現象は特に顕著である。ピアニストは高い音を聴いた時の方が、聴覚野や音を処理する脳部位である脳幹の反応が大きい。その原因として、音楽の要素で重要な「メロディ」が高音部で奏でられることが多いからというのが挙げられるだろう。
また音を聴いた時に神経細胞の反応が大きくなるだけではなく、脳が素早く反応できることも「よき耳」のためには大切。音楽家は音が鳴ってから細胞が活動するまでの時間がより早くなっている。トレーニングによって脳細胞が活動するタイミングがそろうほど全体としての脳の働きが大きくなり、聞こえてきた音からよりたくさんの情報を処理できるようになる。
違和感のあるメロディーやハーモニーを聴いた時に出される「あれ、おかしい」という脳波が出るのだがその脳波も音楽家のほうが大きい。訓練によってメロディや和音を認識&処理する脳の神経が発達したためだろう。
そのためには音楽を多く綿密に聴くトレーニング、そして自分の体を動かして楽器を演奏する継続的なトレーニングが有効。
楽譜を読めるようになるためには?
楽譜が読めるようになれば、楽譜に書かれた音符に対応した鍵盤を正しく押さえられるようになる。トレーニングを受けて音のピッチと対応したピアノの鍵盤を正しく押さえられるようになると、上頭頂小葉という脳部位の活動が強くなることが分かった。その部分は目から入った情報の中でも、空間に関する情報を動きに変換するときに働く部位として知られており音楽家のはそうでない人ののよりも大きいことが分かってきた。楽譜上の音符を見て、どの鍵盤を押さえるべきかがスラスラ分かるようになるにつれて、上頭頂小葉の脳活動が強くなったり神経細胞の数が増えたりする。上頭頂小葉は音符を動きに変換する「読譜力をつかさどる脳」ともいえよう。また、楽譜が読めるようになると音符に対応した指を自動的にイメージできる、すなわち音符を指の動きに自動的に変換することもできるようになっている。楽譜→身体の動き への回路がスムーズに移行するようになってきている。楽譜を見て身体を使って音を鳴らす経験を通じて、楽譜→身体への回路をよりスムーズにすることが有効。
暗譜のメカニズム
音楽家は、暗譜をするのに重要な、情報を蓄える働きをする海馬が大きいと言われている。
音楽家は「視覚野」という目からは行った画像の情報を処理する脳部位も用いて画像として楽譜を覚えている。例えば「冬、医者、山・・・」といったいろいろな単語を耳から聴いて覚え、その覚えた単語を思い出しているときの脳活動を計測すると、音楽家の場合「視覚野」という目からは行った画像の情報を処理する脳部位の活動が起こっている。「耳から覚えた情報の一部を蓄えるために、視覚野の神経細胞を活用」すなわち、音楽家は、音の記憶には通常使われていない視覚野の神経細胞も使い、音を画像として覚えることによって優れた記憶力を実現している。
また音楽家は個別の音としてではなく、複数の音を1つのグループとして記憶する傾向がある。和音、スケール、アルペジオなど何調のものが分かれば予測のつくもの、特徴のあるリズムなど繰り返し出てくるものについては、パターンとして予想をつけ、楽譜の情報を「圧縮」している。音楽を構成する「文法」を活用しているともいえよう。
それプラス「指を動かす順番」も覚えている。連続して動かすことによって運動に関する脳部位である運動野が大きくなり活動も強くなる。ピアニストの脳には「指を動かす順番」を覚えるための貯蔵庫がたくさんある可能性がある。
聴覚の記憶が最も強いものの、音楽家は視覚、聴覚、運動と言った様々な情報を脳内に記憶して暗譜を強固なものにしている。
初見演奏
初見演奏の重要な特徴は3つ
1)短期記憶 複数の音符を記憶する
ピアニストが初見演奏する際の眼球の動きを計測すると、今弾いている音符よりも先にある「これから鳴らす音符」を見ていることが分かった。そのことから、今弾いている音と、今見ている音の間にある音符群をわずかな時間の間記憶する必要がある。
2)周辺視 目が複数の音符の情報を一気に読み取る
ピアニストの眼は楽譜上の一点に焦点を合わせているときでも、その周囲にある音符をまとめて見ることができる能力、すなわち周辺視の能力がある。初見演奏の際、目が焦点の合っている音から先に2~4拍分程度の音符を認識できているようだ。
3)指使いの選択 適切な指使いを瞬時に選択する
打鍵する直前に前後の音を考慮に入れて適切な指使いを素早く決定する。
ピアニストの省エネ術
ピアニストがより長時間筋肉を披露させずに、打鍵し続けることのできる秘訣は何か?
筋肉には、大きな力を発揮できるけれど、すぐに疲れてしまう速筋と、大きな力は発揮でいないけれど、長時間力を発揮し続けることができる遅筋がある。筋肉を収縮するときに発生する電気活動から、親指の筋肉で調べたところ、ピアニストは遅筋が発達していることを示すという結果が得られた。我慢強い筋肉の持ち主だということだ。
それだけではなく無駄な仕事もうまく省きながら演奏している。「省エネ」しながら演奏して筋肉を衝かれさせないようにしている。同じように質の高い音楽を、より少ないエネルギーの消費量で創りだしている。この「脱力」と言われているこの働き、ピアニストは一体どのようにして無駄な力を省いてピアノを演奏しているのだろう。
ハノーファー音大でのハイパースピードカメラや力センサー、筋肉の活動を計測できる筋電図を用いた実験例から分かったことは以下の通りだ。
1)無駄な時間に仕事をしない。
ピアニストは鍵盤が底に着いた後は力を加えていない。ピアノの鍵盤の底にセンサーを敷き、ピアノを弾いているときに、指先が鍵盤にいつ、どれだけの力を加えているかを調べた。対象はプロのピアニストとアマチュアのピアニスト。トリルを行ってもらい、その時に指先が鍵盤を押さえる力を計測した。その結果、プロのピアニストは、鍵盤が底に着いてから力を加えている時間が短いことが分かった。鍵盤が底に到達するやいなや、すぐに力を弱めていたのだ。ピアノは鍵盤が底まで底まで下りてしまった後には力を加えても音は変化しない。鍵盤が底に着いたあとに鍵盤を押さえるという無駄な仕事でピアニストは筋肉を働かせていない。
ピアニストは長い音を出す際に最小限の力しか鍵盤に加えていない。鍵盤を押さえたままロングトーンを保持する際に親指、人差し指、中指が発揮する力を調べたところ、アマチュアのピアニストはプロの3倍もの力で鍵盤を押さえ続けていた。長い音を鳴らし続けるためには、鍵盤を押さえるために必要な最小限な力である約50グラムだけ鍵盤に加えておけばよいので、これも無駄な仕事。そういった無駄な仕事もピアニストは巧みに回避している。
2)フォームを工夫する。
鍵盤を押さえようといくつかの指が動いているとき、残りの指は次の動作の準備をしていたり、何もしていなかったりする。その「何もしていない」指をどうしているかという観点で、親指と小指を用いるトレモロを演奏させてみたところ、アマチュアのピアニストは何もしていない指である人差し指と中指を高く持ち上げる無駄な動きのある状態で演奏していた。そのように指を高く持ち上げると筋肉が収縮し硬くなる。そして筋肉が硬くなると動きが正確になりやすいので無駄な動きをしやすくなるのだろう。狙った鍵盤を狙った速度で正確に打鍵しようと思うあまり何もしていない指を持ち上げ筋肉を固め、その結果エネルギー効率が悪い演奏になってしまいがちになる。本来ならば何もしていない指は何もしないほうが力の効率がよい。
3)重力を利用する
打鍵の際は手を持ち上げるわけだが、ピアニストも初心者もひじを曲げる筋肉(上腕二頭筋)が収縮し手を持ち上げていた。
ところがその後、初心者は肘を伸ばす筋肉(上腕三頭筋)を収縮させて肘を伸ばし、鍵盤を打鍵していたが、ピアニストの上腕三頭筋は肘が伸びているのにも関わらず、収縮していなかった。ピアニストは肘が伸びて行っている間肘を曲げるほうの筋肉 (上腕二頭筋)が緩んでいた。
手を持ち上げた後音を鳴らす際、ピアニストは上腕二頭筋を緩めさせ、初心者は上腕三頭筋を収縮させていた。
音量を大きくするためには肘の回転スピードを上げる必要があるのだが、そのための手段として初心者は筋力を使って力づくで腕を降ろしていたのに対し、ピアニストは重力の助けを借りて腕を落としていた。大きなエネルギーを出す際にこの差はエネルギー効率の面でも大きくなる。
しかしなぜ初心者は重力を利用して打鍵しにくいことがおおいのか?その理由として、腕を使った自由落下では、狙った音を適切に鳴らすのが難しいからというのが挙げられる。狙った音量の音を鳴らすためには音量に応じてどのように力をゆるめるかを調節する必要があるのだが、我々の日常生活の中では筋力をゆるめて狙った速度で腕を落とすという状況がないため難しい。脳にとっては筋肉を収縮させるよりもゆるめるほうがより多くの脳部位が働き大変な作業だったりするから。
4)しなりを利用する
重力だけではなく、慣性力や遠心力もピアニストは巧みに操っている。慣性力は車が急発進したり急ブレーキをかけたりするときに生じる力のこと。遠心力は車がカーブを曲がるときに身体が外側に引っ張られるように感じる力のこと。
打鍵するために、手を持ち上げ、その後鍵盤に向かって腕全体を振り下ろしているところを想像する。その間、上腕も前腕も鍵盤に向かって下降しているがその途中で上腕に急ブレーキがかかると、前腕の下降動作はいっそう加速される。そのような「しなりの力」をピアニストはうまく活用している。
プロのピアニストは肩の筋肉を強く収縮させることで上腕の動きにより強いブレーキをかけ、肘から先を加速させる「しなり」の力を増やしていることが判明。その結果、ピアニストの肘や手首は「なすがまま」加速するため、筋肉をあまり働かせずに打鍵することができる。上腕や前腕の筋肉をより強く収縮させることでより大きな音を鳴らそうと指先を加速させていた初心者と対照的。
大きな音を鳴らす際に、ピアニストは腕の動きを減速させる「ブレーキ」の量を増やすことで、肘から先を強くしならせていた。上腕の動きにブレーキをかける分だけ、肩の筋肉の仕事が大きくなる。ピアニストはピアノ初心者に比べ、肘から先にある筋肉の仕事量が少なく、肩の筋肉の仕事は大きいということになる。太く疲れにくい胴体に近い筋肉を使うことで疲労から回避している。そのためには大きな音を鳴らすための練習をしようとするときには、大きさや音質、ミスタッチのなさを欲張っていきなり狙うよりは、まず大きな音を鳴らすことに専念した方がよさそうだ、ということである。
5)鍵盤から受ける力を逃がす
鍵盤に力を加える際、鍵盤の指先を押し返そうとする力に負けないように、手や腕の筋肉は収縮させる必要がある。指で押さえたとき、指を伸ばしたときと曲げたとき、伸ばしたときのほうが、指先と関節までの距離が長くなるためそれを押さえこもうとして筋肉をより強く収縮させなければならず、筋肉に力が入りやすい。ということは、指を寝かせたままではなく、指先を立てる動作を加えるほうが、無駄な仕事がなくなるのではないかという仮説が生まれた。
そして実際に高速度カメラで計測したところ、初心者は指を寝かした状態のまま鍵盤を降ろしていたのに対し、ピアニストは、指先が鍵盤を降ろしている間に徐々に指を立てていっていた。指を徐々に立てていくことによって、鍵盤から受ける力を「逃がしながら」鍵盤を押さえており、33%の軽減がなされていた。そして、ピアニストの指を徐々に立てていく動きは、疲れにくい肩の筋肉の動きから作られていることも判明。肩の関節が回転し、上腕と前腕が前に動くことで、指が回転していき鍵盤から受ける力を逃がしていた。
また、筋肉は関節を囲むようについていて、片方が収縮すれば関節が曲がり、もう片方が収縮すると伸びるが、両方の筋肉が同時に収縮すると関節が動かなく硬くなる。そのような状態を「同時収縮」というのだが、プロのピアニストは打鍵の瞬間の筋肉の同時収縮の大きさが小さいことが分かった。ピアニストは手首の筋肉をあまり固めすぎず、むしろ筋肉そのもののクッションを利用して、打鍵の衝撃を逃しているのだ。
5)イメージしてから打鍵する
「これから鳴る音をイメージしてから打鍵しなさい」とよくレッスンで言われるが、そうすることで指の動きがどのように変化するかについても調べられている。鍵盤と音とが対応しておらずランダムな音が鳴るピアノをあえて作り、鍵盤と音とが対応しているピアノを弾いた際とを比較することでそのような実験を行ったところ、鍵盤と音とが対応しているピアノ、すなわちあらかじめ音をイメージして打鍵したほうが、イメージせずに打鍵するよりも指先が鍵盤に衝突する瞬間の加速度が小さいことが分かった。必要以上に強い打鍵をしないためにも、頭の準備をしてイメージ作りをすることが有効。
超絶技巧を生み出すメカニズム
ピアノ演奏の際の手指の動きを詳細に調べた結果、無数にあるように見える手指の使い方には、いくつかの基本的なパターンがあることが分かった。ピアノを弾く際の手指の使い方には、どのような曲でも共通して見られる「ある決まったパターン」が隠されていた。そしてそのパターンは、親指で打鍵するときと、他の4本の指のいずれかで打鍵するときとで異なっていた。
親指で鍵盤を押さえるとき、残り4本の指は一斉にのばされていた。親指が打鍵する際には、残りの指は独立して動くわけではなく4本の指が同じように動いていた。親指の使い方には、鍵盤を押さえながら親指を曲げる (つかむ)か、伸ばす(広げる)の2つの異なるパターンがあった。親指の関節は、他の指の関節よりも多様な動きができるため、打鍵しながら曲げたり伸ばしたりすることで、演奏中の手の位置を左右に移動させたり、手のフォームを変えたりすることが出来る。親指を巧みに動かすスキルはピアノ演奏に特徴的なスキルであろう。
親指以外の4本の指を使って打鍵する際は、いずれの指で打鍵する際も、各々の指はお互いに独立して別々の動きをしていた。鍵盤を打鍵するには、①指を持ち上げ、②打鍵するために指をおろし、③鍵盤から指を離すため再度持ち上げる という一連の動作があるが、それぞれの指が他の指につられず違った動きをしていた。中指や薬指は人差し指や小指に比べて独立して動かしにくいと言われており実際そうなりやすいのだがピアニストの場合は「中指や薬指の動かしにくさ」も見られず、それぞれ独立して動かすことができていた。各指を独立に動かせる能力を持ちあわせているといことになる。
普通の状態で指が独立して動きにくい原因は、各指の腱がつながるという腱間結合があるということと、一つの筋肉が複数の指に付着しているためその筋肉が収縮すると他の指も同時に雨後してしまいやすいということが挙げられていたが、つながっているのは指そのものだけではないことが分かった。ある神経細胞Aが指令を送ると中指と薬指が一緒に動いたりするなど、脳の神経細胞同士も独立していないというのが原因とされている。
しかしピアノを練習することによって筋肉や腱、腱間結合が柔らかくなるとともに、脳の動きもその指その指にあった働きがなされるようになるからではないかと言われている。今後の検証が楽しみとのこと。
超高速かつ高精度な打鍵を可能にするスキル。ピアニストは最速で演奏した際、1秒間に平均で10.5回打鍵するという驚異的な速さで演奏するとともに、手指の使い方はゆっくりの場合からほとんど変化がなかった。同じ動きで早送りするためには、手指の動きをつかさどる脳部位の神経細胞の数がたくさん必要。
また腕の動きにも顕著な特徴が見られた。トレモロを演奏した際、プロもアマチュアも速度が速くなるにつれて肘の回転速度が速くなり、プロの方が大幅に回転スピードが上がった。またプロもアマチュアも速度が速くなるにつれて指の筋肉をより固めて行っていたのだが、今度はアマチュアのほうが大幅に指の筋肉を固める傾向にあった。
テンポを速くすると、鍵盤を持ち上げる準備を速くするために指先が鍵盤を降ろすために加速させる時間は短くなる、そうなると鍵盤の動きが遅くなりやすいのでそのままだと音量が小さくなってしまうのだが、そうならないためには鍵盤を打鍵する際に瞬発的にたくさんのエネルギーを伝える必要がある。その方法として、指先と鍵盤が衝突するスピードを速くするか、指先を硬くして鍵盤に伝達されるエネルギーの効率を上げるというのが挙げられるのだが、この増やし方において、プロとアマチュアで差が見られた。プロのピアニストでは、前者の「肘を回転させるスピードを上げる方法」をたくみに用いていた。速く弾こうとすると、鍵盤の下降動作を加速させる時間が短くなるため、どうしても指先を持ち上げる準備を始めるのが早くなるのだが、それに伴い音量が小さくならないために、肘を速く回転させることで補っていたのだ。音量を保ったまま、より早くトレモロを弾けるためには、より早くに指先を持ち上げる準備を始められて、より速いスピードで肘を回転させられることが必要だということが分かった。
また脳から筋肉に送られる指令には神経細胞を無秩序に活動させるもととなるような「ノイズ」が混ざるのだが、ピアニストの場合、脳が筋肉を動かす指令に無駄なものが少ないため、ノイズが身体の動きを乱す影響を巧みに減らしているということが明らかになっている。
レガート奏法のスキル。ピアノ演奏では、手指が鍵盤を押さえる長さを調節して音の長さを変えているが、ピアノという楽器の性質上、ひとたび指を鍵盤から離すと音は減衰しやがて消えてしまう。そのためピアノでは、音と音とをなめらかにつなげて、歌うようにメロディを奏でるために「レガート」と呼ばれるスキルがある。次の音を鳴らしてから前の音の鍵盤から指を離すことで、連続した2つの音を一部重なりあわせ、なめらかに音をつなげるのだが、重なりすぎては音が濁ってしまい美しさを失ってしまうので巧みな指のコントロールが必要。そしてハスキン研究所のレップ博士の研究によると、レガートでの音と音とが重なっている長さは高さによって異なり、低い音だと約0.07秒、中間の高さの音だと0.15秒、高い音だと0.17秒と、高い音になるほど重なっている時間が長いほうが美しくつながって聞こえることが分かった。高い音になるほど、音が減衰しやすいためにこのような結果になるのだろう。
タッチと音色
ピアノという楽器は鍵盤への触れ方、すなわち「タッチ」によって、本当に音色が変化するのだろうか?
ピアノの音は、鍵盤の動きと連動しているハンマーが弦を叩くことで発生する。鍵盤を速く動かせば、ハンマーも速く動き、弦を強くたたくため大きな音が鳴るが、音量が同じでも、音色というのは変えることができるはず。ピアノで音色を変えるには、ハンマーと弦が衝突するスピードを変えずに、それ以外の何かを変える必要があるのだが、それ以外というのが長年謎になっていた。
しかし20世紀後半のいくつかの研究によって、ピアノのハンマーの動きが詳細に調査されるようになった結果、鍵盤の動きがどう加速するかによって、ハンマーのシャンク部分の「しなりかた」がわずかに変わることが分かってきた。打鍵のスピードが同じで音量が同じでも、鍵盤の加速のしかたによって、ハンマーのしなり方が変わるので、ピアノの弦とハンマーが違った当たり方をする可能性がでてきたのだ。すなわち、加速のしかたを変えることで音色を変えることができるということだ。
千葉工業大学の鈴木教授は腕全体の筋肉に力を入れて硬く打鍵した場合と、筋肉をゆるめて柔らかく打鍵した場合とでピアノの音色がどのように変わるか調べた。硬く打鍵する場合は、鍵盤ははじめに急速に加速して、その後、減速していくが、やわらかく打鍵する場合は、鍵盤はゆっくり加速してその後も加速した状態になる。その結果ハンマーのしなり方にも違いがみられるはずとのことで。
倍音というのは音色を決めるもので、同じ高さのラでもフルートとヴァイオリンの音色が違うのは音を構成する倍音が違うから。したがってこの実験でも倍音に違いが見られたかどうかを調べた。
その結果、比較的高い音の場合、音量が同じでも、硬く打鍵するタッチの方が、柔らかく打鍵するタッチよりも、音の倍音の中でも特に高い周波数の倍音が大きかった。その違いは物理特性面でも明らかであり人間の耳でも聴き分けられる範囲であることが分かった。その結果、タッチによって、音色が変えられるということが証明された。
またピアノの鍵盤への触れ方は無数に存在するが、大きく分けて、手を一旦持ち上げて指先を鍵盤から離して打鍵する方法「叩くタッチ」と、指先と鍵盤が触れた状態のまま鍵盤を押し下げる方法「押さえるタッチ」の2種類がある。叩くタッチの場合は、鍵盤の表面を指で叩くときに「バン」という雑音、タッチ・ノイズがなり、ピアノの音と混ざって聴こえる。そしてそのタッチ・ノイズの有無による音色の違いは、耳で聴き分けられることが分かった。その結果、叩くタッチによる音色の方が、押さえるタッチの音色よりも「硬い」音と感じられることが分かった。
そしてそのタッチを使い分けるためにどのような身体の使い方をしているかというと、腕全体のしならせかたを変化させることで買えていることが分かった。叩くタッチの場合は、肩の筋肉を使って腕全体をしならせることで指先を加速させて打鍵、押さえるタッチの場合は手指と前腕の筋肉を瞬発的に収縮させ、そこで生まれた力を利用することで腕全体をしならせていた。叩くタッチの場合は力の動きが肩→肘・手指、押さえるタッチでは指→肩というように、反対方向の動きをしていたことが分かった。
以下、ピアノを弾く者として私が特に興味深いと思われる部分を採りあげてみた。体の使い方やピアノの鍵盤へのタッチによって音色を変えることが可能だということを間接的ながらも知ることができたのが大きな収穫だった。
他にもピアニストの故障、感情を込めて演奏するには、演奏と感動との繋がりなど、気になる内容がたくさん書かれていた。分かりやすい図やグラフもたくさん掲載されていて読みやすい本でした。