いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

覚書 ル トンボ- デュ クープラン のフォルラーヌ

2012年11月28日 | ピアノ・音楽

 昨日はフォルラーヌのレッスンでした。覚書です。


ノリをよくするために推進させるのは左手。右手で音楽を勧めようとすると、急いでいるだけになってしまう。左手で拍を進めるとともに、和音の響きをしっかり聴くことが大切。特に内声で目立たなそうなところに美しいところがある。(今まで右手で進めていました)


ノリをよくしよう、速くしようとするがあまり、リズムがいい加減になってはいけない。全体に付点が短くなっている。付点のような細かいリズムは正確に。


音色を変えるには頭に浮かべるイメージを切り替えるとともに、具体的な動きを変える必要がある。指の角度、打鍵の速度、体の中で重心を置くところを瞬時に変える。フレーズの終わりは前の状態を保つ、そしてフレーズが終わって場面転換がある直前の瞬間に集中し準備してはじめて音を出す。その準備がない音はだらけているのみ。


この曲は踊りの曲。場面によって登場人物、人数、背景が変わる。この変化を出したい。舞台を連想しよう。


 、同じ曲が見違えるように魅力的に素晴らしく感じられるようになりました。すごいです。曲の内面から見ることの大切さをさらに実感。先生、昨日は非常に優しかったのですが、却って堪えました。自分のいい加減さに喝を入れたくなるような感覚。曲に謙虚にしっかりと向き合いたいです。


紅白歌合戦出演組決定 ユーミン現象 デビュー40周年

2012年11月27日 | ピアノ・音楽

 昨日は紅白歌合戦の出演組が決まりましたね!突然現実的な話ですみませんが、やっぱり気になります。大晦日は最近話題にでているきゃりーぱみゅぱみゅをちゃんと聴くつもりです。あと初出演のプリンセスプリンセス!懐かしすぎます。


 集中力がない私。これからしばらくある時期まで、本ブログの話題はLe Tombeau de Couperinforlaneか、秋の空という歌のみにしようと思っていたのですが、今日はちょっと脱線的な割り込みを入れます。すみません。


 先日横浜みなとみらいに足を運んだところ、松任谷由美ことユーミンのDA・DI・DAが流れてきました。そしてその後もユーミンの歌が続いている状態。その後また用事があって行ったところ、今度は守ってあげたいや春よ来いが聴こえてきました。青春のリグレットなんか聴こえてきたりもしてまるでユーミン懐メロ状態。好きな人は好きだろうけど、嫌な人はいやだろうなあ。ユーミンの曲は好きだったし確かに懐かしいと思うし、好きな人も多くかなりポピュラーだと思うけれど、嫌だと思うときもあるかもしれない。お父さんお母さんで聴いている人が多いと思うので、子供たちに「お父さん/お母さんは昔はこのような歌が好きだったのよ」と子供たちに話したりするかもしれない。みなとみらいはとうとうユーミンにかぶれてしまったのだろうか、と思っていたら、「Landmark Bright Christmas ~横浜の恋と、ユーミンと」 という企画をされていたようです。そうなのか、そうだったのか。横浜ともゆかりのあったユーミンはすでにデビュー40周年になっていたんだ。最近の曲はほとんど聴いていないけれど、着実に活動を続けていたんですね。がんばっているな。いつの間にかこのようなアルバムまで出ているし。横浜に来て、コンサートと言えばクラシックしか行っていなかったし、それだけでも確かにいっぱいではあるのですが、いわゆる他ジャンルことニューミュージック (古い?)と言われるジャンルの方のコンサートにも行きたくなりました。あまりにも古すぎるのですが、少なくとも中学時代の私は、そのような夢を持っていたしな。友達と来る日も来る日もオフコースとユーミンと稲垣潤一の話をしていました。そう思ったら、なんだかんだ言って、私はみなとみらいの企画にしっかりはまっているではないですか、ううっ。


 そしてこの曲が流れたとたん時がとまりました。「夕闇をひとり」です。同時に一番好きで何度も聴いていた名曲揃いのアルバム「昨晩お会いしましょう」を思い出しました。いけない、いけない。この話題はここまでにします。


ル トンボ― デュ クープラン のフォルラーヌ つぶやき

2012年11月26日 | ピアノ・音楽

 「Le Tombeau de Couperin」といえば、モーリス・ラヴェルによって1914年から1917年という第一次対戦中に作られた曲。当時の作曲家ドビュッシーの音楽に見られる「象徴主義」とはちょっと違う味わいの「古典主義」的な面が強い曲だと言われています。

 このLe Tombeau de Couperinは「クープランただひとりにというより、18世紀フランス音楽にささげたオマージュ」という意味を持ちます。Wikipediaによると「墓」というのは誤訳で、18世紀フランス音楽の伝統にさかのぼって復興されたジャンルであるTombeauの一つであり、「Tombeau de ... 」というのは、「故人を偲んで」「故人を称えて」という意味だそうです。第一次大戦中に全6曲が断続的に作曲され、各曲が大戦で戦死した友人たちへのレクイエムとして捧げられています。

 中井正子さんの版によると、各曲の前に「a la memorie du lieutanant~」(~の追憶に)とありラヴェルの友人の名前が載っています。

 一度聴いただけで選曲の神様が降りてきたとばかり気に入って練習を始めたのが、その中のフォルラーヌでした。ラヴェルの曲自体初経験。しかもいろいろな方から話を聞くと、どうもこのフォルラーヌは、ラヴェル入門曲としてはあまり弾かれていないとのこと(メヌエットはよく弾かれているそうですが)しかも和音の仕組みがかなり複雑で、メシアンの曲によく用いられているMTL(移調の限られた旋法)もコーダに登場していて譜読みもややこしいということが判明。ゆったりしていて超絶技巧もなさそうなので弾けそうだという判断は相当甘かったような気がしてきたのですが、そういうミステリアスな雰囲気が漂っている曲を弾いてみたかったのも事実でした。

 フォルラーヌは17世紀のフランスの音楽によく用いられていた6/8拍子の舞曲で、北イタリア起源の古いダンスだそうであり、ラヴェルのこの曲も古くてどことなくのどかな感じがします。ル ネッサンスと言ったら弊害があるかもしれませんがそういう雰囲気も。でも北イタリア起源だからそんなに弊害はないかもしれません、くわしく調べてはいない のですが。その一方初めて聴いた方の感想にはジャズみたいという感想もありました。リズミカルな面と、ちょっとひねりのある官能的な和音あるところが、 ジャズと共通しているし、実際にジャズによく似ている曲もあるような気がします。さすが20世紀のフォルラーヌといったところでしょうか。

 ここまでがこの曲の客観的な説明。

 ちなみに現時点まで受けたレッスンでの、先生からの私の演奏へのコメント。「まだまだラヴェルではないですね」私がちょっと「ス○ップ」という言葉を発したところ「う~ん。仲間内の発表会なら大丈夫だけど」と苦い顔。ごまかしているところはあるものの、一応暗譜もして、通して弾けるようになったのですが。やっぱり、まだまだなんだな~。しかしこれからおおいに改善の余地があるはず!?

 しかしそういう現状を克服するにはどうしたらよいか、細かいところまで丁寧に練習して音色の変化をつけたり、苦手な装飾音や和音の跳躍を克服したりするのはもっともだし、なかなかうまくはいかないものの、そちらの方面はこつこつやってきたのですが。

 それ以前にこの曲の中に、自己流で妄想に入っていきたいという思いがあります。背景もちょっと脇に置いて、イメージを膨らませたい思いがあります。そうでもしないとどうも入り込めない、困ったものです。

 この曲はセピア色で始まるような気がします。舞曲でありながら、曲の中にささやき、もたれかかり、反りかえり、背伸び、跳躍、包み込みのような動き、あこがれ、切なさ、喜び、驚き、愛しみのような感情が込められていて、意識と無意識の間を漂っているところも見られる気がします。でもずっとセピア色ではない。別の有彩色がつくところもあります。少なくとも写真で示した楽譜の箇所には水色やピンクが含まれていそう。うんと遠くで金平糖の妖精たちが踊っている感じ。切れているところからもまさに金平糖です。そのような金平糖シーンが一定の間続きます。なのでその部分は遠くの金平糖を意識して弾いているのですが、どうも、近くでぎこちなく尻もちついている怪獣のような気がしてならない。何とかしたいな~。

 

 


泉ゆりのさん ピアノリサイタル

2012年11月23日 | ピアノ・音楽

 横浜市の山手にある岩崎博物館に、ゲーテ座という素敵なホールがある。そのホールでは毎月、主に若手の演奏家たちが1時間強のリサイタルを開いている。前回行ったのが今年の2月4日に行った三浦友理恵さん。底なし沼のように妖しくそれでありながら理知的な雰囲気の漂ったフランス物の世界にいざなわれ、すっかり現実離れした気分で帰ってきたのを思い出した。それから9か月、再びゲーテ座に行くことになった。今度は泉ゆりのさん。今回はピアノの先生が行けなくなったということでわざわざくださった招待券で行けることになった。泉さんのリサイタルは3度目、前回は昨年の10月で出産前最後のリサイタルだった。出産後もリサイタルを開き精力的に活動している彼女、今回は自発的に行くことにしたリサイタルではなかったにせよ、久しぶりに演奏を聴けるということで楽しみにしていた。

 小雨の降る中久しぶりに行った山手地区は紅葉が美しかった。こじんまりとした会場につくとすでに人の熱気が。演奏者との距離も普通のホールよりはかなり近かった。

 演奏曲目は

シューベルト作曲 4つの即興曲集 Op.90 D. 899

シューベルト作曲リスト編曲 海の静けさ

                  いずこへ

リスト作曲 バラード第2番 ロ短調

アンコール

ドビュッシー作曲 亜麻色の髪の乙女

ジョップリン作曲 メープルリーフラグ

 

 シューベルトのOp.90といえばシューベルトのピアノ曲の中ではもっともおなじみの曲とも言えそうだが、泉さんの解説によると、31歳で亡くなったシューベルトが30歳の時に作った曲だということ。すなわち彼の晩年に作られた曲だったのだ。夭折した彼とはいえ、あの有名な4曲が晩年の曲だったとは。ちなみにもう一つの即興曲Op.142は最晩年の曲だったということだ。シューベルトのイメージの強い泉さん、この曲はまさに彼女の手の内そのものに感じられた。しかし手垢にまみれたような雰囲気からは遠く、演奏の中でかなり冒険をしていたような気がした。曲の中に込められたシューベルトのメッセージをつかみ、自分なりに消化して伝えようとしていたように聴こえた。情熱的で温かい演奏だった。3番目の変ト長調は特に好きな曲なのだが、音楽に彼女がすっかり乗り移っていたような感じがした。

 次はシューベルト作曲でリスト編曲の歌曲、これらも彼女の演奏会では登場することの多い曲目だが、今日聴いた二曲は初めてだった。前後のずっしりした曲とは対照的に軽やかな演奏になっていた。とはいえ、海の静けさの演奏からは出口がなくて進むことのできない閉塞的な雰囲気が感じられた。いずこへは素朴でのびやかな感じがしたがそれだけでは終わらずちょっと繊細な切なさも込められていた。音色の美しい彼女の演奏はまさにシューベルトの歌曲にぴったりだった。

 プログラム最後はリストのバラード2番。実はこの曲をもっとも楽しみにしていた。今まで私が持っていた泉さんのイメージとあまり結びつかなない気がしていたのと、個人的に大好きな曲だから。地獄の底をのた打ち回っているような左手の半音階スケールから重くて暗い旋律で始まり上り詰め、一気に明るく輝かしい場面、そういう場面が繰り返され行進曲、どんどん光がさしていき希望にあふれていく、といった進展。泉さんは生徒さんがレッスンで弾いたのをきっかけに練習したそうだ。この曲を夜に練習するとお嬢さんが起きてしまうので、一日の最初に練習されるのだそうだ。最初の半音階スケールから激しい泥沼のたうちシーン、そして地獄から引きずり出されたような歌。深い音色で音量もかなりのもので息遣いが感じられた。そこからは曲の世界にたちまち連れていかれ、彼女の演奏とともに上り詰めた感覚になりすっかり酔うはめになっていた。曲の中には絶望と希望という両極の感情がこめられていると思うが、彼女はその両極の感情をあますことなく出していたような気がする。あまり結びつかないように感じていた泉さんとリストのバラード2番だったが、とんでもない、太く頑丈な糸でしっかり結びついていた。

 そしてアンコールでは亜麻色の髪の乙女の研ぎ澄まされた美しい音色、そしてメープルリーフラグの躍動感あふれる切れの良い演奏で心地よい余韻を残してくれた。

 泉さんの演奏を聴いたのは3度目。コンクールで優秀な成績を残されてきた方で今までも音色が美しくきちんとした演奏をされる方だという印象を持っていたが、今日はそれだけではない何かを感じた。野性味といっていいだろうか。楽譜に書かれていそうなことから超越したものが感じられ、今さらでちょっと失礼なのだが、彼女を初めてアーティストと感じることができるようになった。一人のピアニストとして好きだと思えるようになった。先生が招待券を下さるという話、言い訳付けたりして断ったりせずに行ってよかった。感謝しています。

 ちなみに来月の山手ゲーテ座のリサイタルは12月23日 (日)で三浦友理恵さんのピアノと澤菜穂子さんのヴァイオリンによるデュオです。泉さんも来年4月に横浜市内でリサイタルを開かれるということです。

                  


ピエール・アンタイ氏 チェンバロリサイタル

2012年11月22日 | ピアノ・音楽

 それは夏のことだった、ドメニコ・スカルラッティの曲、そして演奏に非常に印象が強かったものがあって、その演奏者はピエール・アンタイ氏というチェンバリストだということを知ったのは。(参考リンク)そのときから、ぜひ彼の生演奏を聴いてみたいと思っていた。もっと前にあった武蔵野市文化ホールはすでに席が埋まり、今年はあきらめようと思っていた矢先に浜離宮でリサイタルがあるということを知って本演奏会に申し込んだ。

 会場にはぎりぎりに駆け込んだ。舞台中央には外は暗い色中は赤のチェンバロが置いてあった。ピアノの演奏会で行くことが多い浜離宮だが今回舞台中央に置いてあるのはチェンバロ。静かで優くて包み込まれるような雰囲気を感じた。

 演奏曲目は以下の通り。

ヘンデル作曲 組曲ニ短調「忠実な羊飼い」より

          Ouvertune

                    Allemande

                    Courante

                    Sinfonia

                    Gigue

         組曲第1番 イ長調HWV426

          Prelude

                    Allemande

                    Courante

                    Gigue

          組曲第2番 

          Adagio

          Allegro

          Adagio

          Allegro

休憩

バッハ作曲 ゴルドベルグ変奏曲ト長調 BWV988 全曲

          Aria with 30 Variations

アンコール 

バッハ作曲 イギリス組曲第2番 

          Prelude

 アンタイ氏が弾き始めた瞬間、チェンバロの周りに小花が次々と開きはじめた。近くにはマイクが置いてあった。ピアノのように流れるのではなく、一枚一枚花弁が開き、しばらく咲いたまま、それから散る、そういうような感じだった。チェンバロの鍵盤近くから小花が上へ上へと登って行き、花弁が開き、しばらく咲いたままでいる、というような感覚は、ちょっとピアノでは味わえないような気がする。目に見えるわけではないのに、視覚的な華やかさを感じた。花の色は白やピンク。バロック時代の花の絵画に出てきそうな花。そして香り、チェンバロの周辺から花の香りもしてきた。なんということだろう、チェンバロの音を生で聴いたのは1年ぶりだったが、ここまでとろけそうな気持ちになるとは。

 チェンバロは2段鍵盤だったに違いない。即座に調整しながら単音、重音を使い分けており、表情豊かで遠近感のある立体的な演奏が繰り広げられていた。ヘンデルの組曲はまともに聴いたことがなかったのだが、生命力と躍動感があって、胸がすいた。かっこよかった。これからはもっとヘンデルも聴こうと思った、同時代のバッハはたくさん聴いているのにこれではあまりにも気の毒だ。レース編みのような装飾音から扇を何枚も何枚も重ねたような華麗なものまで華麗な装飾音まで多くの装飾音が登場していた。非常に速くて細かい音がたくさん。ピアノで装飾音で苦しんでいる私としては、楽器が違っていても、あのような装飾音を一度に出せるというのは驚異。鍵盤はピアノよりも軽いため、ピアノで出すよりは出しやすいとはいえ、やはりそこは名人技だと感じた。これを超絶技巧というのだとしたら、まさに超絶技巧そのものだった。強弱も十分にあったと思う。脱力奏法はしていたのだろうか。タッチを曲の場面によって変えていたのだろう、ねっとりした音からきらきらとした音まで、手触りや色彩が多様な音が聴こえた。彼の持っているパレットはそれはそれはカラフルなのだろうな。楽しくてたまらない演奏のように思えた。

 そして後半ゴルドベルグ。グールドの演奏で途中で止めたりしながらぼちぼちと聴いていたこの曲を生演奏で全曲、しかもチェンバロで聴くのは夢のような話であった。はじめのゆったりとしたアリアでたちまちバッハの世界に連れていかれた。バッハの弟子であるヨハン・ゴットリープ・ゴルドベルグが不眠症に悩むカイザーリンク伯爵を慰められるように書いたと言われるだけあって、かなり長い曲でありながらも変化に満ちていて全く退屈することがなかった。後半あたりの変奏で、手を非常に速く上げ下げしていて弾いているというよりもただ手をひらひらさせているように見えたところや、手の交差が急速なためばたばたと泳いでいるように見えたところもあったのだが、鍵盤は確実に音楽を鳴らしていたのには舌を巻いた。まるで職人芸だと思った。パレットも多く、感情表現も豊かだった。歌い込んで盛り上がっていた。チェンバロ奏者の生演奏をたくさん聴いているわけではないので多くのことは言えないが、彼の音楽に込められた思いが演奏全体からあふれんばかりに伝わってきた。本当にすごいものを聴かせてもらったと思う。

 アンコール。華麗な分散和音らしきものが聴こえてきた。ヘンデル、バッハときたし、彼の演奏と出会うきっかけでもあったスカルラッティの演奏を期待していたが、分散和音の後に聴こえてきたのは、比較的聴きなれた音楽だった。バッハ作曲のイギリス組曲第2番プレリュード。大好きな曲でグールドの演奏で飽きるほど聴いていたことがあった。しかし最近あまり聴いていなかったのもあっただろうか、こみ上げるものがあってたまらない気持ちになった。久しぶりに聴くイギリス組曲第2番のプレリュードがアンタイ氏のチェンバロだったなんて素敵すぎる。。その後も割れんばかりに拍手して、スカルラッティの登場を期待したのだが、イギリス組曲で今日のすべてを出されてしまったのか、おねんねのポーズでお開き。残念。

 とはいえ、やはり今日はすごいものを聴いたという印象が強かった。とてもいい演奏会だった。会場で出会った方とも盛り上がり楽しいひと時を過ごせた。持っているスカルラッティのCDにサインもいただいた。そして今も彼のチェンバロの暖かい音が頭をかけめぐっている。夢のようなひとときだった。


          


ラドゥ・ルプー氏 ピアノリサイタル

2012年11月15日 | ピアノ・音楽

 昨日はラドゥ・ルプー氏のピアノリサイタルに行ってきた。ルプー氏との出会いは学生時代同級生にブラームスのCDを強く勧められたこと。ラプソディの出だしから衝撃を受け、当時のうつうつした思いが昇華されるような気がした。なんて抒情的で美しい演奏なのだろう、すっかりルプー氏とブラームスのピアノ曲の虜になっていた。

 そのような、CDでしか出会うことがなかったリリシスト、ルプー氏が来日し生演奏を披露してくれるとのこと、しかもフランクなど好きな曲もあり、行かないわけにはいかないとばかりチケットを購入したのだった。

  ところが演奏会前の金曜日、ルプー氏は左手中指に蜂窩織炎を発症したとのこと、次の土曜日の演奏会はキャンセルとなり、今回の東京のリサイタルの開催も危ぶまれたような状況だった。しかしリサイタルに向けて治療とリハビリを最大限に行ったとのこと。そのときはショックだったが、無理に開催し却って症状が悪化するよりは、今後に向けて大切にしてほしいという思いになっていた。

 しかし演奏会の前日、開催されるということが明らかになった。無理されていたらいけない、と思いながらも、ほっとしたのも本音だった。たとえ曲目の変更があったとしても、彼のピアノを聴けるのはとてもうれしく有難い話であった。

 演奏曲目は以下の通り。

シューベルト/即興曲集 D935, op.142

フランク/前奏曲、コラールとフーガ

休憩

ドビュッシー/前奏曲集第2巻

アンコール

ドビュッシー/前奏曲集第1巻から 雪の上の足あと

シューベルト/楽興の時D780から 第2番

 会場が暗くなり演奏が始まった。噂の通りブラームスのような風貌で登場したルプー、腕もほぼまっすぐに伸ばし高い位置から弾いていた。私の席はチケット購入時点の会場への知識のなさゆえよくないところだった(二度とその位置での席は買わない)のだが、そちらでも遠くまで音が聴こえてきた。さすがだ。

 しかし初めのほうでは拍感の面で心配に感じた。シューベルト即興曲作品142の第1曲、音色はさすがルプー、実に素晴らしいのだけれど、ミスタッチも見られたし、全体的にもたついている気がしてすっと入ってこなかった。しかし時間がたつにつれピアノになじんできたのだろうか、彼の音楽が聴こえてくるようになった。第4曲は個人的にはあまり着目してこなかった曲だったのだが、昨日のルプーの演奏は隅々から土臭さも含まれた躍動感が感じられた。彼の出身地であるルーマニアの熱い血が感じられた。私にとってその第4曲に命が吹き込まれたような気がしたのは大きな収穫だった。

 フランクはこの曲があったからこそ申し込んだと言ってもいいぐらい楽しみにしていた曲。祈るような重厚で美しい出だし、ここをどのように歌ってくれるだろうか、どきどきしながら聴いていた。まさに心の奥底から力をふりしぼって祈っているような演奏だった。この曲の精神性を根底から感じ取りそれを伝えきろうとしていた。空耳だったのか、それとも本当に彼の声だったのか分からないのだが、演奏とともに歌が聴こえてきた。音楽への、いや、聴衆への深い愛が感じられた。フランクのこの前奏曲、コラールとフーガは彼にとって自分のメッセージを伝えるかけがえのない曲であったに違いないと感じた。この曲の演奏は若い方の演奏でも聴いたことがある。そんな若者たちの演奏のような隙のなさ、がっと盛り上がるような華やかさはなかったかもしれないが、神々しさや曲への深い愛情が隅々から感じられた。

 ドビュッシーの演奏は実に味わい深かった。幽玄ともいえそうな、湯気がたちそうな音でありながら、それぞれの音が細やかに屈折、反射していたし、音の周辺にも配慮がいきわたっていて夢のような独特の空気を作り上げていた。静寂などの間の取り方も見事。まるで音で墨絵を描いているようだった。静寂の作り上げ方が実にうまいピアニストだと感じた。しかし最後の花火は熱かった。隅々から感じられた浪漫的な熱い血。彼もこの曲とともに登り詰めようとしていたように思えた。ぶるりと震えた。

 アンコールの2曲、素晴らしい演奏だった。演奏しているうちに脂が乗ってきたのだろうか、それとも彼の中に音楽の神様が舞い降りてきたのだろうか。 会場も満員、幸せな演奏会の終わり方だった。彼の演奏会に対する情熱、そして聴衆たちの情熱とが会場で一体化し、演奏が進むにつれ醸造され、最後の素敵なアンコールにまでいったのではないかという気がする。 

 とはいえ、昨日は療養後の状態、演奏もハードだっただろうと思う。無理されていたかもしれない。そんな中あれだけの演奏を聴かせてくれる状態に持ってこられたことからも強いプロ意識を感じた。今後、指のほうも大事にしてもらい、その後も長く演奏活動を続けていただきたいと思った。

 最後に彼がアンコールで演奏した、シューベルトの楽興の時D780 第2番の演奏があったので掲載しておきます。

 


紅葉狩り(上田城その10)

2012年11月11日 | 気になる場所、風景

 赤と黄色のトンネルに差している光。そして木。あのずっしりとした木から、このような美しい葉が生えているのですね。

 一度に写真ばかり投稿しました。こんなにたくさん投稿するのなら、フォトチャンネルを使う方法もあったかもしれません。フォトチャンネルにすれば、ここまでスペースを取らなかっただろうし、一画面同じような記事で占領することもなかっただろうと思います。しかし、フォトチャンネルをすることによって、写真の記事を載せるという楽しみが、私の中で半分以下に減ってしまっていたような気がしました。フォトチャンネルはコンピューターが見る時間を決めてしまいます。どんなにゆっくりとしたスピード段階に設定しても、あらかじめプログラミングされたコンピューターによる時間であることには変わりありません。また、フォトチャンネルだと、欲張ってできるだけ多くの写真を入れ込もうとしてしまいます。しかし、今日は、それをしたくありませんでした。枚数が少なくなったとしても、選んだ写真を載せたいと思いました。また、どんなにスペースをとってしまっても、採りあげた写真はすべて記事にしたいと思いました。同じような木や葉が、ループしているように見えても、まったく同じ木や葉はひとつとしてありません。写真を撮る瞬間は、それらの木や葉の見事な美しさの発見に毎回心躍らせていました。その毎回写真を撮った瞬間の気持ちを忘れたくなくて、あえて、このようにしました。単なる自己満足かもしれませんが、それでも、そのようにしてよかったと思います。

 信州の紅葉に心あらわれた一日でした。今は信州や北関東がよい時期ですが、次第に紅葉前線も南下していくでしょう。(全国紅葉前線)全国各地で紅葉を楽しめる季節がやってきました。