いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

エル・バシャ氏 ピアノ・リサイタル

2012年10月17日 | ピアノ・音楽

 今日はエル・バシャ氏のピアノ・リサイタルに行ってきた。彼の演奏に出会ったのは今年のラ・フォル・ジュルネ。マスタークラスの情熱的なアドバイスと次の日の息をのむようなすばらしいラフマニノフの演奏とがリンクし、彼の生演奏をぜひ聴かなければと思ったのだった。

 プログラムは以下の通り。

アブデル・ラーマン・エル=バシャ ピアノ・リサイタル
2012年10月16日(火)午後7時開演 紀尾井ホール

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第6番「デュルニツ」二長調K.284
ラヴェル:夜のガスパール「水の精」 「絞首台」 「スカルボ」

休憩

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調「告別」Op.81a
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」Op.35

アンコール

ショパン:ノクターン嬰ハ短調遺作

シューベルト:4つの即興曲よりOp.90-2 変ホ長調

エル・バシャ:スザンヌのために

 

 前半にラヴェルが来てその後ベートーヴェン、ショパンが来るというところなど、プログラムの組み方から興味深く感じられた。そして一曲目のモーツァルトとラヴェルの間、ベートーヴェンとショパンとの間、舞台袖に一度も戻らなかったのも印象的だった。ピアノはベヒシュタイン。

 モーツァルトソナタの出だしは重厚で立体的な印象。当時の曲は音量の差や使用されている鍵盤の幅も限られていたが、その限られた中で繰り広げられる宇宙を最大限に引き出そうとしていたのが感じられた。ダンパーペダルもたくさん使っていたが、細心の注意を払って踏みかえていたからだろうか、全く音の濁りがなくペダルの効果が最大限に発揮されていた。楽章間の間の時間をしっかりとっていたのは次の楽章へ移行するための心の準備を丁寧に行おうとしていたからだろうか。プログラムによると第3楽章の変奏曲の演奏は技術的にも高度な書法と書いてあったとおり美しく聴こえさせるのが非常に難しそうな曲だと感じたが、彼はそこでも磨きのかかった演奏を繰り広げていた。途中の短調ではじまる緩徐部分の美しさにはぞくりとした。少ない音でもここまで密度が濃く訴える力のある演奏ができるのだと感じた。

 ラヴェルの夜のガスパール。モーツァルトよりも高い腕の位置から始まった「水の精」。いきなりとろけそうなピアニシモでどうかなりそうな雰囲気だったが、そのままどうかなりそうな演奏を繰り広げてくれた。あちらの世界にいってしまいそうな妖しくすれすれの感覚。崩壊寸前のところまでいきそうなぐらいアグレッシブに音楽を作り上げながらもしっかりとした軸足によって踏みとどまっていた。繊細なオブリガードも重厚な響きの音もその他の音もお手の物だと言わんばかりの幅広いパレット。スカルボだったか、低音で今まで聴いたことすらないようなタイプのもごもごとした音があり、この音に私の何かが奪われてしまうのではないかという予感に襲われた。ハーフタッチだろうか、独特の打鍵だったような気がする。とにかくこのような音をピアノで聴いたことはなかったといえそうな音だった。ピアノでも表現者によってはここまで多様な音を作ることができるのだと改めて感じ入った次第。ちなみにスカルボって3拍子の曲だったのですね。今まで圧倒されそうなすごい曲とすごい演奏という印象をもってでしかスカルボという曲を聴いてこなかったような気がしたのだが、エル・バシャは曲のある箇所であきらかにこの曲は3拍子の曲だと分かるように示してくれた。奥深い世界にダイブさせてくれながらも、曲の要や大切なことをしっかりと掌握して伝えてくれているという安心感が感じられた。

 ベートーヴェンの告別。曲の構成を掌握した演奏だったが音ミスがちょっとあったのが残念。この曲を完璧に演奏するのは本当に難しいことだと思う。また彼のベートーヴェンを聴いてみたいと思った。

 ショパンの葬送ソナタ。彼は他の作曲家とはまた違う視点からこの曲の魅力を伝えてくれた。聴きなれた楽譜とは違うところがあったが、これは彼の研究の成果だと感じた。第1楽章、がっちりと線が太く、しぶくて媚びのない演奏。この曲の野性的な力が顕な形となって出たような演奏で、心臓を素手でえぐられたような感覚だった。第2楽章でもそのような感覚になったところが何か所も。ショパンの音楽に彼の視点から真摯に向き合ってきたのがつたわってくる硬派な演奏だった。第3楽章はさらに研ぎ澄まされた感覚が伝わってきた。中間部の夢のような緩徐部分では涙腺が緩くなりそうだったし。。。その前後の重厚さは言うまでもなく。音の輪郭が明確に示されていて、指のコントロールが完璧になされているのだということが感じられる演奏だった。第4楽章は不気味な音の塊が投げ出され訳が分からず終了ということが多いような気がするのだが、彼はこの曲の拍子も分かるように、そう、訳が分かるように演奏していた。曲全体の不気味な感覚もちゃんと出しながら。実直にこの曲に向き合ってきたというのが演奏全体から感じられた。密度の濃い演奏だった。

 アンコールも素晴らしかった。有名なショパンのノクターン。中間部は他の方の演奏にはないような洒落た遊び心が感じられた。極めて濃厚な音でなにかをちょっとずらしたような感覚。どこからこのようなセンスが出てくるのだろう。

 シューベルトの即興曲Op.90-2を生で聴いたのは久しぶりだったが懐かしい気持ちになった。心が洗われそうな温かい演奏だった。

 そして三番目のオリジナル。短いながらもなんて素敵なんだろうと思っていたら彼のオリジナルだったとは。リサイタルでなければなかなか聴けないオリジナル曲に出会えたのも大きな収穫だった。

 5か月ぶりに聴いた彼の演奏は期待に応えてくれるものだった。彼の真摯で密度の濃い音楽への取り組みが感じられるものだった。じわじわと感動がよみがえってきている。まさに音の職人で表現者。ピアノってここまで奥深い楽器だったんだとまたまた感じ入ることに。新たに知り合った方とも感動を語れてよかった。これからの活躍がますます楽しみだ。今後も彼の演奏を聴き続けていきたいと思いました!

 


アップとダウン

2012年10月15日 | ピアノ・音楽

 昨日のアンサンブルで、弦楽器の演奏をピアノの演奏にも生かすことができるということを身をもって感じることがあった。その一つに、アップとダウンがあった。この部分を弦楽器で弾いたら弓を上へアップさせるかダウンさせるか、ということを考えながら弾くとよいとのことだった。

 このアップとダウン。ダウンは傾向として1拍目が強拍の時、アップの次の音、しっかり音を出したいときに息を吐きはがら出すとのこと。そしてアップはアウフタクトの時、ダウンの次の時、軽やかに弾きたい時息を吸いながら出すとのこと。たとえばスラーで長い音のあと短い音が来ている場合、長い音はダウン、その後の短い音はアップのことが多い気がする。(しかし昨日見たらららクラシックでの、名手たちのヴァイオリン協奏曲の演奏では、事態はそう単純ではないような気もしたのだが)

  曲の部分によってはアップの箇所を明確にさせることによって、たちまち表現が変わったと実感できたところがあった。

 

 ということは、どのような曲を練習する場合も、弦で弾いた場合アップとダウンどちらになるだろう、と考えながら練習するとよさそうに思えてきた。倚音や終止形などをとらえるとともに大切なポイントのように思えてきた。

 しかし・・・ショパンのエチュードOp.25-2の楽譜でそれをやろうとしたらたちまち路頭に迷った。本当は可能なのかもしれないが、この曲では非常に難しく感じた。細かいところが弾けるようになり大きくとらえられるようになったら見えてくるかもしれない。

 曲や部分によっても、アップダウンについての想像が向いているところとそうでないところがあるような気もした。


本日のアンサンブルステップ 

2012年10月14日 | ピアノ・音楽

 今日はアンサンブルのステップがあった。弾いた曲目はハイドンのピアノトリオHob. XV/25の第2楽章。昨年弾いた第1楽章に続いての第2楽章だった。ヴァイオリンとチェロの方たちはプロの先生で本当に上手な方たち。彼女たちとのアンサンブルは今回で3度目だった。

 このハイドンの、ピアノトリオHob. XV/25は旋律が美しい曲。しかも譜面は本当にシンプルで難しい所がない。なのですぐに音を出せるようにはなったものの、それからあとが本当に大変だった。私の苦手なアダージョの音出しという課題を克服するのによい、と先生に言われたのも納得。シンプルが故にマンネリにも陥ったりもした。。。勝手なものだ。

 まず出だし。音の出し方からやり直し。硬くならないように、そして輪郭となる音をしっかりと出すように、ということだったのだが、そこで障害となるのが間に入る装飾音。飾りの音で軽やかにしたいのに重くなりがちだったので、どのように弾いたら軽く、しかもちゃんと聴こえるようになるかというところでつまづいた。ここは最初から直前までずっと指摘されっぱなしだった気がする。指の支えの弱さを実感しながらも、なんとか第3関節がでっぱるように、指を見ながら弾こうと心掛けた。昨日の直前レッスンで秘訣の方法を教えていただき、いけそうな気持ちにはなれたものの、本番の今日弾けるようになったかというとまだまだ課題が残されたようだ。

 そして同じ出だし。ヴァイオリンの先生とぴったり合わせて始めるのも課題だった。弦楽器は弓を引いてからはじめて音の出るのだが、ピアノは鍵盤を押したら(「押す」や「叩く」本当はどちらもピッタリとこない)すぐに音がでる。なのでどうしてもピアノのほうが早く出てしまいがちなのだが、そのようにならないために、こちらは分かるように息を吸い、ヴァイオリンの方から出ている気を感じ取りながら、始めるようにするとよいというアドバイスをいただいた。私の場合息が浅いところがあるとのことだったので、特に出だしの部分は分かるように気を付けるようにした。

 各部の終止前。V7の和音で今から終止に向かうというところを示しているのだが、いまいちその示し方が弱いということだった。自分では意識していたつもりでも、そのように聴こえていなかったようだ。また終止前と言えば倚音(いおん)。和音の変わり目に跳躍進行して非和声音となり、順次進行して和音構成音に解決する非和声音のことを倚音というのだが、この倚音の響きは実に美しいのだ。なのでしっかり歌わせたいと思っていたのだが、歌わせ方が足りないという指摘もあった。しっかり歌わせたら本当に美しいと直前になって感じた。

 低音部。オクターブのところを中心にフレーズ感がまったくなっていなかった。チェロの先生からどのようにしたら低音オクターブのフレーズ感が得られるかということのアドバイスをいただいた。オクターブの低音部を特につなげようとするとよいらしい。そうしたら確かに歌わせやすくなった。

 その他奏法についても初めから終わりまで多くのことを教えていただいたのだが、なかなか教えていただいたことを身につけることができず、その上テンションが上がるのも遅く、直前まで不安になっていたのだが、具体的なアドバイスをぎりぎりまでいただき(しかも子供たちに混じってお菓子までいただいた)、ポイントをつかんで弾こうと心掛けたら、前日になって、がんばれそうな気がしてきた。 しかし、これでいいのだろうか、という不安は残されたまま。

 そして今日の直前リハ。時間がさしせまっており、途中までしか演奏できなかったのだが、弦の先生によくなったと言っていただき、平常心で弾けばなんとか弾けそうな気がしてきた。

 本番。今回は開始前は全く客席に向かうことなく舞台袖から出ることになった。挨拶は弦の方たちの間からするようになっていたもののなんとなく違和感を感じた。そう感じながらもひとまず挨拶し、椅子の高さを調整して弾き始めた。出だし、うまくいった。細かいところはきまったところと失敗したところとがあったが、全体的に、落ち着いて演奏出来たような気がした。もちろん満足というものではなかったが、始めたころの手に負えなそうな状態からは明らかに脱出できたと思う。苦手なアダージョの音だしも、少しは克服できたかもしれない。

 ちなみに他にも社会人の方がいらっしゃり、その方と話が盛り上がった。堂々と演奏されていて素敵だと思っていたら合唱の伴奏もされている方だった。

 終了後。先生方からの講評をまとめると以下の通り。

息をよく合わせて弾いている。せかせかした感じでないのもよい。音の響きがかたくならず、打鍵のスピードが速すぎずに、ペダルをもう少しうまく使うとよい。弦楽器の音の跳躍に合わせてピアノのメロディラインを歌わせてみるとより音楽が美しくなる。

左手の伴奏が少し焦って聴こえる。先に先にという気持ちではなく、伴奏の響きの変化をもう少し聴いてもよい。

細かな装飾音はキュッとつまらぬよう、幅広く弾いてみてもいいかも。

 

非常に短い時間だったのだが終わったらぐったり。結構今回は集中したのかもしれない。しかしもっとスタミナをつけたほうがよさそうな気がしてきた。

とにかくひと段落してほっとした今日一日だった。

演奏の録音です。(弦の方たちは本当に上手です。彼女たちに支えられたと言っても過言ではありません)


落葉松

2012年10月02日 | ピアノ・音楽

 ブログで歌を紹介するのは久しぶりです。あまりの美しさに惚れてしまいました。


落葉松


作詞 野上彰


作曲 小林秀雄


落葉松の 秋の雨に 私の手がぬれる
落葉松の 夜の雨に 私の心がぬれる

落葉松の 夜の雨に 私の心がぬれる
落葉松の ひのある雨に 私の思い出がぬれる
落葉松の 小鳥の雨に 私の乾いた目がぬれる
 私の乾いた目がぬれる 目がぬれる
落葉松の 秋の雨に 私の手がぬれる
落葉松の 夜の雨に 私の心がぬれる

落葉松の ひのある雨に 私の思い出がぬれる
落葉松の 小鳥の雨に 私の乾いた目がぬれる
 私の乾いた目がぬれる 目がぬれる
落葉松の 秋の雨に 私の手がぬれる
落葉松の 夜の雨に 私の心がぬれる


 歌の先生の話によると、野上彰氏が亡くなった時、たくさんの詞が遺されていたのを奥さんが見つけたそうです。それらの詞に曲をつけてくれるように何人かの作曲家たちに詞を分配したそうです。それらの詞の中にこの「落葉松」もあり、たまたま「落葉松」は小林秀雄氏のところにいったとのことです。作曲家たちの中には湯山昭氏もいたとのことなので、もし「落葉松」が湯山氏のところに行ったとしたら、全く違う歌になっていただろう、と小林氏が話していたということです。


 それにしてもこんなに美しい歌が日本の秋の歌にあったのですね。「小さい秋を見つけた」「里の秋」「秋の子」「紅葉」など秋の歌には好きな歌が多いのですが、この「落葉松」は断トツに好きな歌になりました。


  宮本智子さんによる歌です。


 


 


 


 


勝手な体質

2012年09月22日 | ピアノ・音楽

 今日は街に出て服を買いに出かけた。秋物がほとんど占めていた中夏物がセールスで置いてあった状態。自分の好きなサイズと色、デザインとがぴったりというのを見つけるのが至難の業だったりするが最終的にスカートとセーターを購入。

 そしてピアノの練習。弾いていて自分がいかに勝手な体質かがよく分かった。たくさんの曲を弾きたい、と思いながらも、これだこの曲だこの曲に恋している、と思えるぐらいその曲にはまらないと、人前で弾いてよいだろうといえる段階にまで達せない体質になっていることが判明。つまり本番に載せる曲はすべて恋するまで入れ込まないといけないようなのだ。幸いハイドンさんにはだんだんエキスを感じつつあるのだけど。

 しかもさらに困ったことに、人前で弾く前提となっている曲以外の曲にも、恋したくなっている曲が存在しているという忌まわしい状況。なんということだろう。その忌まわしい存在となっている本番用ではない恋したくなっている曲は次の本番に載せる、と決めたらよいのだろうか。しかしこの本番が終わったら、忌まわしい対象に対してときめきすら感じなくなったりというまさに勝手そのものの状態に陥っていることもあったりするのだが。。。

 難しい曲を複数弾かれる方たちや、一度の本番にたくさんの曲を弾いているプロの方たちは、演奏するすべての曲に恋しているのだろうか?そうできるような訓練がなされているのだろうか?それから伴奏をしている方たちなんかはどうなのだろう?どちらにしてもものすごいエネルギーの持ち主だと改めて感じたのだった。


テレム・カルテット~

2012年09月21日 | ピアノ・音楽

 テレム・カルテットというアンサンブル・ユニットをみなさんはご存知でしょうか?ロシアの4人のグループで、伝統の民族楽器を使い、ジャンルを超えた音楽を楽しませてくれるグループで、今年のラ・フォル・ジュルネにも大活躍しました。まず楽器が面白い。バラライカを目の前で見たのは初めてだったのですが、大きくて迫力がありました。ものすごい超絶技巧の持ち主でありながらユーモアあふれる演奏でチャイコフスキーの四季の「トロイカ」を歌付で演奏したりしては盛り上げてくれていました。一度ステージを見ただけでたちまち好きになり、その後の無料ステージ、2回見ました。とにかく楽しかったのです。友達とこの日の大ヒットだと言いながら盛り上がりました。帰りには彼らこそ真の芸術家だと感じた記憶がよみがえってきました。

 昨晩はバッハのテレム・カルテットのCDを久しぶりに聴こうとしたのですが、夜に聴いたらかえって暑くなってしまいました。でもこれからどんどん聴きたくなりそうな気がします。元気を出したいときにはかなり効き目あり。

 あまり暑苦しくないテレム・カルテットのバッハの動画を見つけました。いや、暑苦しくないなんて失礼でした。とても素敵な演奏です!

 


演奏会に行ってきました インバル指揮東京都交響楽団 マーラー・ツィクルスより ツィクルスⅠ

2012年09月16日 | ピアノ・音楽

 昨日、何気なく新聞を見ていたら、演奏会の宣伝が大きく写っていたのが目に入った。都響こと東京都交響楽団によるマーラー・ツィクルスというのをやっているらしい。なんと運がよかったことに、今日、みなとみらいホールの公演が行われ、しかも席も余っているということを知った。指揮者はエリアフ・インバル氏、演奏は東京都交響楽団。インバル氏はマーラーやブルックナーに定評のある指揮者。twitterなどでもよい情報が流れていたうえに、主人もぜひ聴きたいと言った。私もマーラーの「巨人」は思い出もなじみもある曲だった上に、マーラーの生演奏をぜひ聴いてみたいと思った。急遽行くことにした。

 演奏者、曲目は以下の通り。

指揮:エリアフ・インバル

管弦楽:東京都交響楽団

ソリスト:小森輝彦(バリトン)

 

さすらう若人の歌 バリトン:小森輝彦

Ⅰぼくのあの娘が式をあげる

Ⅱ野に出かけたよ 朝露まぶし

Ⅲもえたぎる刃が ぼくの胸の内にはある

Ⅳぼくのあの娘の 青い双の目

   休憩

交響曲第1番「巨人」

第1楽章 ゆっくりと、引きずるように

第2楽章 力強い動きを持って、急がずに

第3楽章 厳かに威厳をもって、引きずらぬように

第4楽章 嵐のように激しく

 プログラムの解説にこう書いてあった。与えられた形式の範囲内で言いたいことをまとめきる作曲家と、書いているうちにどんどん言いたいことが膨張して、収拾がつかなくなってしまいがちな作曲家がいる、と。そしてマーラーは後者だと。強く同感。作曲年代、初演の年代と独唱者、指揮者、楽器編成もきちんと書いてあり、解説文もいいと思っていたら、なんと西洋音楽史について鋭い見解を示している岡田暁生氏だった。

 さすらう若人の歌は初めて聴いた曲だ。マーラーの処女作であり、「巨人」と双生児のような関係にあると書いてあったが、Ⅰの曲からいきなり「巨人」のモチーフが登場したのには驚いた。祝祭とはいえ、いとしい人の婚礼でどことなく悲しくきしんだような雰囲気だった。Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの曲とも、マーラーらしいモチーフがあちこちに散らばっていて親近感がわいた。今後のマーラーがどのようになっていくかという芽のような雰囲気がよく出ていた感じがした。

 交響曲第1番「巨人」はるかかなた遠方でかすかなpp。何の楽器だろうと思ってみたらヴァイオリンがかすかな音を鳴らしていた。そこからテーマが登場するまでの絶え間なく鳴りつづけるppやpの抑えた感じがたまらなかった。次第に解放されまろやかなテーマへと入っていくまでの過程が。。。そして解放!オーボエによるかっこうの歌声が美しい。オケなので当然特定の場所に楽器が配置されていて配置されたあるべき場所から立体的に音が鳴っていてしっくりとしたものになっていた。楽器の配置による音響効果もマーラーは考えながら作曲していたのかもしれない。音楽の森のステージだった。

 スラブっぽい弾むような雰囲気ではじまる第2楽章。大好きな楽章だ。第1楽章からほとんど切れ目がなく、アタッカで始まったところからかっこよかった。その後もずっしりとしながらも躍動感にあふれていて、まさに生の歓びを体全体で表しているような感じがした。インバル氏は非常にめりはりのあるパリッとした動きをしており、その彼の動きから伝わる思いをオーケストラの方たちがしっかりキャッチしているのが感じられた。ホルンのざらざらした音(ミュート)や、弦楽器をたたく音が登場するなど遊び心が感じられた(マーラーがそのような指示を出していたのだろうかが非常に気になるところ )音楽の歓びが全体からずっしりと伝わってきて、私も思わず体を動かしてしまった。

 しばし間の後第3楽章。有名な葬送行進曲。この曲を聴くと映画「マーラー」を思い出す。フランス民謡の「鐘がなる」を不気味な短調にしたようなインパクトの強さが、話の不穏な進展とぴったりで非常に印象が強かった。この曲、出だしはコントラバス、そしてファゴットなんですね。楽器のことは全く意識せずに聴いていたのだが、実際に見てみて、どんな楽器で演奏されているのかが分かってよかった。インバル氏、両手をあげて思いっきり広げられたりと、抽象的な指示を出していた。指揮者は単に拍子をとるものではなく、イメージをその瞬間瞬間で伝えるということをしているのだと痛感した。もちろんその前に綿密なリハーサルがあると思うが、それでも、やはり、指揮者が体全体から瞬間で放出するイメージや言語による力の大きさが感じられた。退屈しやすい楽章とも言われているが退屈どころかすっかり楽しみながら聴かせていただいた。

 そして第4楽章!プログラムの解説には「冒頭における、ナイフを自分の胸に突き立てるような第1主題の阿鼻叫喚」と書いてあったが、もう、この阿鼻叫喚から盛り上がるところが好きで好きで、今回も祈るような気持ちで聴いていたらやってくれましたよもう。涙が出そうでたまりませんでした。そこからは音楽の流れにすっかり乗せられ我を忘れていた状態。ここまで甘くなってもいいのかと思えるようなやさしく美しいメロディーが天から降り下りてきたり、かと思ったらそれまでの甘さを遮断すべく厳しく激しいシーンになったり。知っていたはずのシーンだが、それぞれのシーンの動きが耳だけでなく体全体からしみ込んでいくようだった。インバル氏と都響のメンバーたちのエネルギーと想像力をふんだんがでていたような、そんな演奏だったように感じた。

 マーラーの「巨人」は、感情の振れ幅も、音の振れ幅もここまで大きい曲だったのか、と感じた。CDでも、曲の壮大さは感じられるけれども、実際の音の振れ幅を正確に感じ取ることはできないのかもしれない。音の遠近感や振れ幅を肌で感じるのは生演奏が一番だと、実感してしまった今日の演奏会だったのだった。

 音楽で大切なものは伝えたいものをはっきりとさせることだというのも感じた。インバル氏はそれをはっきりと持っていて都響のメンバーに明確に伝えていた。そのためめりはりと立体感のある演奏になっていた。

 演奏会終了後は割れんばかりの拍手。オーケストラが去った後も拍手は鳴りやまず、指揮者のインバル氏が再登場したときは再び拍手。本当に終わるのが名残惜しい演奏会だった。あの巨人がリピートされたらいいのに、と思ったぐらい。

 オーケストラに詳しくない者の、思いのたけを書いた感想文なので読みにくいところが多々あると思いますがご了承ください。

 この瞬間、マーラーと都響とインバル氏のファンになってしまったのでした。オケいいなあ、もっと聴きたい、しょっちゅう聴けたらいいのにと思ったのでした。

 かといってピアノを放置というようなことはしませんのでご心配なく。


フーガはどこからやってくる

2012年09月11日 | ピアノ・音楽

 まず、この動画の曲を聴いてみてください。動画左上の文字は見ないでください。見える方は目をつぶってください。

 

どこかで聴いたことがあるようなないような曲ですが、明らかに2声のフーガですね。2声のフーガと言えば真っ先に連想されそうなのがバッハのインヴェンションですが、インヴェンションにはこんな曲はなかったですね。

 では次にこの動画の最初の曲を聴いてください。

 こちらは楽器はチェンバロですが、曲はおなじみの曲ですよね。

 そしてもう一度最初の動画に戻ります。

なんだかバッハのインヴェンションに似ているような気がします。

しかし、この曲を作った人は、な、なんと、あの

 

 

 

 

 

 

 

フレデリック・フランソワ・ショパン

曲名は「フーガイ短調 KK.IVc/2」

なのです。

 実はこの曲、PTNAのピアノ曲事典にもちゃんと掲載されています。twitterでフォローしている方が紹介してくださいました。ショパンはバッハを尊敬しており、例えばプレリュード(前奏曲 )はバッハの平均律クラヴィーア曲集に敬意を示して作られているし、他の曲もハーモニーの作り方などバッハに近い(そしておそらくこのフーガよりも複雑な)要素が含まれています。バッハを研究していたと思われるので、このような曲を作っていてももっともだと思うのですが、他の曲からショパンに対して持っていたイメージとはかなり違っていたのに衝撃を受けました。、簡素ですっきりしていてかっこいい。ピアノの詩人と言われるショパンですが、この曲に限ってはチェンバロで弾いてもぴったりな気がします。作曲年は1827年という青年期説と1841年という中年期説とに分かれています。また作品番号はショパンの曲の作品番号によくついている「Op」ではなく「KK.IVc」という記号がついています。実はこの記号、ワルツ、マズルカ、変奏曲の数曲にもつけられていますが、身近ではなかったので興味深く感じました。

 それにしてもあれだけショパン、ショパンと言っていた時期もあったのに、この曲の存在にかすりどころかまったく気づかなかったとは。。。

 ちなみに紹介してくださった方がこの曲を知ったきっかけが、ポーランドのインターネットラジオによる、Wim Ten Haveという方の編曲による弦楽版(version for strings)によるものだったのも衝撃的でした。この曲の存在も知らない人が多い中、なんとすでに弦楽版に編曲までしていた方がいらっしゃったのですね!腰を抜かしそうでしたが、この弦楽版というのもぜひ聴きたいものです。

 まだまだ謎はありそうです。 この曲の楽譜、楽器店では見たことないのですがきっとどこかにあるでしょう。探し当ててみたくなりました。

 音楽の世界は謎多き世界、まだまだ謎めいたものが、身近なところでうごめいていそうな気がします

  (ある方から情報をいただきました。〇音から出ているショパンピアノ遺作集に楽譜があるそうで、31~2歳ごろに書かれ、主題はケルビーニのものだそうです。ありがとうございました。)



練習会

2012年09月10日 | ピアノ・音楽

 先日は練習会がありました。7月はじめの相模湖以来2か月ぶり。本番後しばらく気が抜けていたのですが、そろそろ気を引き締めたいと思った矢先でした。

 時間はたっぷりありました。メンバーの方たち、いつもながら見事な選曲と曲の仕上がり。前回の7月から1年近く経過したのでは、と私には思えるような状態。本当にピアノが好きなのと同時に、長い蓄積と努力があるのだろうと感じました。難曲のショパンソナタの2楽章分を続けて見事に弾かれたメンバーさんもいらっしゃいました。過去そのような曲を弾かれたことがあるにせよ立派です。新境地を開いた人もいました。リスト演奏の代名詞のようだったメンバーさんがヘンデルの組曲やスカルラッティのソナタやベートーヴェンのソナタのカノンのような楽章を弾かれていたのにも勇気づけられました。旋律部だけが書かれている楽譜をもとにその場で伴奏アレンジを加えて演奏されていた方もいました。とにかくみなさん、よく練習されています。そしてレパートリーも多いし上手です。いったいいつ練習されているのでしょう、毎回感じる疑問点です。

 そいう状態の中私は気が抜けたままではまずいと思い、ハイドンのジプシートリオの第2楽章を音を聴きながら弾きました。音の数は少なく演奏自体は全く難しくないのですが、自然なフレーズに聴かせるためにはごまかしがまったくきかないという、隠れたむずかしさを持った曲です。フォームから直さなければならない状態だということが分かり、気を付けてひいたつもりですが、おそらく不自然なところがあったと思います。それからラヴェルのクープランの墓フォルラーヌ。先日書いた通り、ネットラジオ番組ottava armosoで流れてきて一聴惚れした結果弾くことにした曲。ドビュッシーほどではないと思うのですが、今までの私なら選びそうになかったタイプの曲で、幅を広げたいという思いがありました。独特の古風でのどかな、それでありながらちょっぴり小悪魔的な雰囲気を持った音型と和音に強く惹かれたので投げ出さずに練習できそうな気がしました。この曲を弾くうえで私が特に意識したいと思ったことは、独特の和音の響きを味わいながらセピア色の舞踏の雰囲気をだすということ。反復も多いので表情に変化をつけ飽きないような演奏にする、ということでした。それから近くの友人と連弾を考えていた仮面舞踏会の片方のパートも弾きました。

 どちらもなんとか弾いた、という感覚でした。音楽にはなっていないと思います。しかしひそかに録音した演奏を後で聴いてみたら、思ったほどはひどくはなかったようです。ラヴェルのフォルラーヌは似合っているという感想もいただきうれしかったです。しかし、音に張りがない感じ。もっと引き出そうと思ったら引き出せそうな奥行きのある音が出せるようになりたい、と思った次第です。

 最後のローテーションではかつて習ったベートーヴェンのソナタ第5番第1楽章とシューマンの夕べにを弾きました。大好きな二曲でしたが、いつの間にか弾けなくなっていて残念だったので、練習会前一週間ぐらいから気晴らしがてらに弾き始めたのですが、特にベートーヴェンは弾けなくなっていてショックでした。こんなこともできなくなっていたのと愕然。いや、ベートーヴェンだけではなく、メカ的に動きのある曲自体が弾けなくなっているような気がしました。今年になってゆったりした曲ばかり練習していたからかもしれません。ピアノの技術には、音色やフレーズ感をとらえた演奏をするというテクニックの面と、手を広げたり高速の動きが続いたりするというメカの面があるという話をききました。そして年齢とともにメカは衰えるけれどもテクニックは衰えない、という話もきいています。なので私は自分の実力に合わせメカ面では多くを望まずに音色などの基礎を身に着けテクニック面を磨き、音楽性のある演奏をすることを第一にめざそうとしてきたのですが、本当にメカ的な動きのある曲が弾けなくなってしまうとそれはそれでさみしい。音楽性を求めるのは非常に大切だと思うのですが、それでなくても衰えの激しいメカ面を衰えるままにしておくのはつまらないなあ、と思い、少しずつ練習に採り入れるようにしてきました。しかし、この「練習」、練習というようなちゃんとしたものではなく、ガーツと弾いてスカッとするという、ストレス発散的な要素もありましたね。数日間続けて弾いていたら、弾けなくなっていたところは弾けるようになってきたので、練習会で披露しよう、と思い、披露したのですが。。。。なんとか通して弾きましたが、あやしいところはあやしいまま、こっそり録った録音を聴いたら、なんだこりゃというひどいものでした(汗)やっぱり今主に練習している曲というのと、地道な(そう、地道だと思います!)レッスンの力というのは、私にとっては大きな要素だと思いました。でも、やっぱりメカ的に厳しい曲もまだがんばってみたい。バランスをうまくとることが大切ですね。

 その後楽しい話で盛り上がりました。きらきら星をいろいろな作曲家の曲にアレンジしたらどのようになるか試しに作ってみたという楽譜にはびっくり。バッハ、古典派、ロマン派、近現代、だけでも笑えたのですが、十二音技法や日本の俳句になぞらえたアレンジもあって楽しませていただだきました。世の中には面白いことを考える人がいるものですね。

 世の中には面白いこと、ということで思ったのですが、みなさんがよく知っている作曲家でも、意外な側面を感じさせる曲を作ったりしています。次回はその話で。


今日はジョン・ケージの誕生日

2012年09月05日 | ピアノ・音楽

 今日はアメリカの作曲家ジョン・ケージの誕生日です。現代音楽とは無縁だった私。しかしOttava armosoという番組で特集をやっており、いつのまにか惹きつけられていたのに気づきました。もちろん斬新で不協和音がたくさん含まれた曲もありますが、このようなゆったりとした美しいピアノ曲も作っているのです。ただずいぶんピアノの背が低いのですが。。。本当に演奏されたピアノの高さはこんなに低かったのでしょうか?そしてこのような無理な姿勢で弾いていたのでしょうか?

John Cage "In A Landscape"

 かと思えば、まさに現代音楽まっしぐらの不協和音まっしぐらと思えそうなピアノ曲もあります。楽譜も面白いです。音符を囲んでいる○と数字の意味が気になります。この曲からメロディーや和声を探し当てようなどと考えたりしてはいけません。他の楽器の使われ方も斬新ですし、ピアノも普通のピアノではなくものすごく改造されたピアノのようです。このようなピアノのことを「プリペアド・ピアノ」というそうですね。

John Cage "Piano Concerto"

かと思えば、どことなく亜熱帯の南国を連想させる音楽もあります。ちょっと和風な雰囲気も感じられます。のどかな気分になってきます。先ほどのピアノコンチェルトはこりごりと思われた方も、この曲は聴けるのでないか、と思っています。

John Cage "Music for Marcel Duchamp"

 彼の曲にはどのような楽器、いや物を使って演奏されたのか分からない曲もあるようです。

 そしてJohn Cageといえばやっぱりこの曲でしょう!この曲を聴かないわけにはいきません!!!

 現代音楽に詳しい方からお聞きした話なのですが、ケージは、「耳を傾ける、という行為の対象が音楽である」ととらえていたそうです。すなわち、街のざわめき、人の声、あらゆる物音でも、それらに意識が向いたとき、それは音楽になる、とケージはとらえていました。そう考えれば考えるほど、ケージは、耳を傾けることの大切さを伝えてくれたのではないか、という気がしてきます。

  耳を傾けると音楽、ということは、便器に「リチャード・マット」とサインをしただけで泉と名付け作品として発表し、目を向けると美術だととらえることを提唱したマルセル・デュシャンとも似ているような気がしてますます面白く感じられました。

 ちなみにケージは辞書でmusicの前にmushroomがあったという理由で、キノコの研究にも取り組み、ニューヨーク菌類学会の創立に関わったそうです。Wikipediaによるとキノコから創作や思想の着想を得ており、みずからの音楽論とキノコの関係について語り、キノコの生態が出す音について想像し、エリック・サティの音楽をキノコにたとえたそうです。

 人間的にも魅力的なケージの虜に。。。なりかかっています。ただ、彼の曲を演奏する勇気や力量はさすがにありませんが。