高宮と宿場町 2

2015年07月15日 | デジタル高宮町史

 

 

● 中山道近江の宿場  

中山道の宿場は板橋に始まって守山に至る六七次であ
が、京都までの街道ということで、東海道の宿場で
ある草津、大湊を加えて六九次と数えることも多かっ
た。安藤広東も「木
皆海道六十九次」と題して名作を
道している。


高宮宿と他の宿とを比較してみるとその繁栄の程度が

よくわかる。天保14年(1743)の『中山道宿村
大概帳』によると宿高2923石62升は鵜沼宿の3
200石に次ぎ、人口は本庄宿の4558に次いで2
560人を数える。また家数では本庄、能谷の両宿に
次いで第3の多さであった。これらは高宮宿には多く
の人々が生活していたことを表す数字と言える。

※江戸時代の五街道(東海道・中山道・甲州道中・日
 光道中・奥州道中)およびそれに付属する街道(美
 濃路・佐屋路・本坂道・山崎通・日光御成道・壬生
 通り・日光道 幣使街道・水戸佐倉道)の宿駅と街
 道沿いの様子を書き上げたもの。


一方、宿場の施設を比較してみると、必ずしも大きな

宿場とは言えない。旅龍の数は67宿中の38番目の
22軒であった。多いところでは深谷の80軒、本庄
の70軒
などがあり、鳥居本宿でも3百軒もあった。

問屋場の数も半数以上の宿には複数あり、醒ケ井宿の
うに7ヵ所もあったところもあった。もっとも、こ
のような場合
には自宅を問屋場として使用したり、交
替で問屋役人をつ
とめていたのそある。こうしたとこ
ろから高宮宿の性格が現
れてくるようだ。交通の要衝
であり宿場としての機能はもち
ろんもってはいたが、
それ以上に地域経済の中心として、
あるいは、多賀神
社の門前町として複合的な要素が色濃いものであった。

 

● 高宮宿の誕生

江戸時代以前の高宮は、平安時代までは主に歌枕とし
てあるいは紀行文の中での存在であったものが、鎌倉
時代になると「高言上布」の名声を元にした地域経済
の中心地としてまた多賀神社の門前町として、人の
集まるところとなったと思われる。

中山道に宿場が整備されるにあたっては、以前からの
宿駅を指定することが多かったが、井伊家の居城が彦
根に造られるようになって、鳥居本とともに高宮も宿
場と定められた、近江の中で新しく作られたのはこの
二宿だけであった。このことで今まで宿駅であった小
野は宿場ではなくなったのである。

 慶長七年(1602)、徳川家康は東海道に次いで
中山道を整備するにあたって、各宿に勘定奉行の発し
た定書を下付した。滋賀県では唯一高宮宿宛の定書が
現存している。この文書で高宮が宿場としてこのとき
に誕生したということができる。

  定 高行宿中

 ー 宿々において荷物につき番あい定めず 出会い 
   次第早速つけ送るべきこと
 ー 御伝馬の荷物は、ー駄獣につき三二貫目 なら
   びに駄賃は四〇貫目にあい極め候 もし難渋の
   やからに於いては書付をもって申し上べき事
 ー 荷物軽重のぎははかりを遣わさせ候あいだかけ
   改めつくべきこと
 ー 駄賃ねつみのぎは奈良座右右衛門尉 梅屋三四
   郎に申しつけ候この両人切手次第つかまつるべ
   き事
 ー 御伝駄賃ともに夜中に限らず早々 つけ送るべ
   きこと

 右条々あいさだめおわんぬ もし違背のともがらに
 おいては 曲事たるべきものなり よって件のごと
 し

この定書は公用、御伝馬、私用(駄賃)、の重量を定
めたも
ので、駄賃の値段も二人の政商の決定によった。
恐らくこの
時に鳥居本、愛知川までの値段も決められ
たと思われるが
不明である。また、公用を証するもの
としての伝馬朱印状、
伝馬継立に関する具体的な内容
(準備すべき伝馬の数、継
立区間など)を定めた文書
が下付され高札場に掲出された
であろうと思われるが、
高宮宿には残存していない。

宿場は幕府の道中奉行と領主の二重の配下にあり、宿
場機能を維持するために、旅宿のための本陣・脇本陣・
旅籠屋・茶屋といった施設が設けられた。本陣・脇本陣
には、大名や勅使・公家・旗本などの公的旅行者が休泊
した。一般の旅行者は旅籠屋に泊まり茶屋で休息を取
った。参勤交代などで大名が高宮宿に宿泊したり、休
憩したりする時には、彦根藩は受け入れ準備や接待を
行っている。

高宮宿の概観 

高宮宿はどのように繁栄をしてきたのか。
ここで、天保14年(1843)の『中山道宿大概帳』
(以下、大概帳)を抜粋、アウトラインを示すことに
する(上
図/上をダブルクリック)。

高宮宿の人口・家族

高宮宿は、中山道の宿場の中で家数、人口が多く、記
録に
には、年代によって本家・竃数・家数などと調査
が一定して
いないので、単純に比較できないのかもし
れないが、およそ
の状況を把握することはできる。
600年代の高宮宿の人口などはそれほど多くないよ
うだが、1840年代になっても寛文・延宝の時代の
高宮より人口などが少ないところが見られる。高宮は、
当時すでに街道筋では大きな集落、宿駅を形成してい
たとみられる。

人口などが急激に増加したのは、家康が豊臣氏との戦
いに備え宿駅の拡張を企て、慶長19年(1614)
に沿道各駅に付近の集落などからの移住を奨励したこ
とによる。彦根藩主もこれに従い、領内の高宮・鳥居
本・番場の各宿への移住を進めたので、自然に宿場の
人口などが拡張されていった。

宿場の施設

本陣

本陣とは、『松屋筆記』に「諸侯の旅館を本陣といへ
り」とあるように、衝迫を通行する大名や公家その他
の特権階級を宿泊させるためのいわば高級旅館であっ
て、一般人は利用することができなかった。江戸初期
には定まった場所はなく、宿場の資産家が自宅に宿泊
たりしてこれを名誉と考えていた。寛永2年(163
5)三代将軍家光によって参勤交代が制度化されると
ともに、一定の格式をもつようになり、「本陣」と名
付けられて宿内で一定の地位を確立することになった。
 

中山道の各宿の本陣をみると、一宿、一ヵ所であった
が、守山宿のように二ヵ所あった宿が八宿、反対に本
陣のなかった宿場も二宿あった。ちなみに東海道では
六宿のように二ヵ所あったところもあり、参勤交代を
初めとする交通量の違いが見て取れる。

高宮宿の本陣は一軒で、天明5年(1785)の文書
には、同日、八間四尺、奥行.八間、敷地面積四四八
坪、建坪は一二三坪と記録されている。円照寺の斜め
前に残っている門は修復はされているが本陣の門であ
る。これは唯一高宮に残る宿場の名残である。

本陣役は原則として世襲であったが、高宮本陣にあっ
ては親戚筋と思われる.三家か本陣役を務めた。最初
は北川四郎右衛門家が四代、宝暦11年(1761)
から小林太左衛門家が四代、最後に嘉永元年(184
8)から小林嘉十郎家が勤めた。

【エピソード】

 

● 円照寺

彦根市高宮町
浄土宗本願寺派

高宮家家臣の北川九兵衛が剃髪建立。境内には明治天
皇ゆかりの「止鑾の松」という名の松の大木がある。
明治天皇御巡幸の際、宿泊された所。書院入口の松は
御輿の邪魔になると伐ろうとしたが、天皇は御輿から
降りて歩かれたため枝払いせずに済んだとされる。本
堂前にある老紅梅を冠った玉垣内に徳川家康が腰掛た
とされる家康腰掛石が残っている。「明治天皇行在所
(あんざいしょ)」の碑が立つ。中山道を挟んで、向
かいは本陣跡である。当時の表門が残っている。 

円照寺の向かいにある門構えのある家が、本陣跡の小林
家。

【脚注及びリンク】

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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル

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高宮と宿場町 1

2015年07月14日 | デジタル高宮町史

高宮宿(たかみやしゅく、たかみやじゅく)は中山
道の64番目の宿場で、現在は滋賀県彦根市高宮町。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』
によれば、高宮宿の宿内家数は835軒、うち本陣
1軒、
脇本陣2軒、旅籠23軒で宿内人口は3,56
0人
であった。多賀大社への最寄りの宿場。多賀大
社の
一の鳥居が昔も今も高宮宿のランドマーク。特
産品
は麻織物で、高宮で生産された麻織物は高宮布
とし
て近江商人を介して日本各地に流通したほか、
彦根
藩から将軍家への献上品にもなっていた。



さて、『新高宮町史』を参考に、高宮の宿場の誕生
史の経緯を考察してみよう。

● 中山道と高宮宿の誕生

1.江戸幕府の街道整備、宿場の設置

大和時代から行政区画として確立されていた七道は
そこを通る街道を指すようになり、道路
機能をもつ
ようになるが、鎌倉・室町幕府をしても十分な整備
に至らなかった。

慶長5年(1600)関ケ原の合戦で勝利を収めた
徳川家康は、政策の第一の課題に道路整備をおく。

江戸を中心とする五街道が整備され、海道とか道中
とか呼ばれ、当初は各遠路の区間そのものも明確

はなかったものもあった。文化18年(1811)
にようやく『御触書(132)』によって次のよう
定められた。

・東海道
・日光街道
・奥州街道
・中山道
・甲州街道

街道の名称もそれまで「中仙道」「中仙道」の双方
が使用
されていたが、この御触書で「中仙道、山陰
道、山陽道いずれも『山』の文字『セン』と読み候
東山道は中筋の道にゆえ古来より中山道と申す事に
候云々」とあり、「中山道」の文字、呼称に統一さ
れた。

 五街道の出発地は全部「お江戸日本橋」で中山道
の全長は129里10町8間(約507・6キロメ
ートル)。中世までの東山道、木曽路を基本として
作られたが、現在の中山道とは必ずしも一致しない。

 家康が政策の第一に道路整備をおいたのは、天下
分け目の合戦で勝利したとはいえ、まだまだ豊臣一
族とこれに組する武将も少なくなかったので、常に
戦を念頭に置き、軍事目的の整備を行ったのであっ
た。

 合戦の翌年に東海道に宿駅を定め、伝馬制をしい
た。次いで翌慶長7年(1602)には中山道を調
査し、同じように伝馬制をしいた。道路整備には軍
学者であり土木工学の権威でもあった大久保長安を
奉行とし、当代一流の築城家を監督とした。工事の
請負は上木業者でもあり政商でもあった樽屋藤右衛
門、奈良屋市右衛門が請け負った、このことからも
徳川直轄の軍事目的の道路であったことがうかがわ
れる。

 道路幅は原則として五間(約9メートル)と定め
られた。当時の大型の通行物といえば馬と駕龍だっ
たから、これはかなり広い道幅であったといえよう。
この幅は江戸市中の主要道路が5間と定められてい
たことによるもので、二間(2・8メートル)より
狭い道は主要道路としては認められなかった。

 高宮宿では現在もそうであるようにこんなに広く
はなかった。文化元年(1804)の宿絵図には二
間一尺~四間二尺とあり、天保2年(1831)・
万延元年(1860)はいずれもニ問三尺~三間一
尺と記載されていて定められた追幅より狭い。慶長
7年に宿場と定められた時の追帽がどれほどであっ

たかはわからないが、恐らくぎりぎりの道路を造っ
たのではなかろうか。当時から高宮には多数の人が
生活し、家々が軒を連ねていた証しでもある。
 

 

並木

道路整備の{環として街道には松(または杉)並木
を造成した。この植樹工事は慶長9年(1804)
から足掛け九年もかかったといわれている。もちろ
ん東海道にも造られたし、一里塚も造
られたので大
変な出費であったに違いない。「武江年表」の説明
によると「夏は木陰に休ませて冬は木立に
風を避け
させる」と言ういたって平和的な説明がなされてい
るが、本来車事目的で整備された道路である
ことを
考えると、別の目的も合わせ持っていたと考えるの
が自然だとと考えられる。

一里塚

並木とともに一里塚も設置された。旅をする人に距
離を
知らせるためのものであった。それまで「一里
」という距
離そのものがまちまちであったので、こ
れを「一里三六
丁」と定めて、これを基準に一里塚
を造っていった。道路
の両側に土を高さ十尺(約8
メートル) 一辺五間という
大きな土塁のようなも
のを造り、その
平らな部分に木を植えた。東海道では
榎を、中山道では松または榎を植えた。木が植えられた
平坦な部分では休憩もできただろう。街道を行き来
する
大が多くなり、一々一里塚を目印にする必要も
なくなり宿場も整備されてくると当初の目的とは違

ったものになった。参勤交代の制度が作られてから
は、こうした街道の整備は、そこを通る諸大名に幕
府の
権勢を誇示するシンボルとなった。

https://www.shigabunka.net/archives/190

 こうして時代とともに一里塚の意識は薄れていっ
た。その結果、一里塚は手入れされないまま天明か
ら寛政時代(1780)に
かけて原型を留めること
ころは少なくなった。滋賀県では守山市今宿に唯一
残っていて、榎が植えられている。滋賀県の指定文
化財でもある。
 
高宮宿の近くでは、『中山道分間延絵図』(文化4年1
907)で見るとで見ると、南は安田橋を少し法士に入っ
たあたり、北は原町の村中にそれぞれ一里塚が描かれ
ている。

  法士一里塚跡

宿場

大宝律令で定められた駅は、鎌倉時代に入ると整備

は進められたが、平安時代の街道とは違う性格をも
つようになった。平安時代の京都の公家の支配によ
る中央集権のためのものではなく、武士の社会、幕
府のための道路としていわば車事目的の整備がなさ
れていった。

 
平安時代までは専ら「駅(うまや)」と呼ばれて
いたが、鎌倉時代になると「宿」と「駅」とが併用
されて「宿駅」と呼ばれることが多かった。江戸時
代になると単に「宿」あるいは「宿場」と呼ばれる
ようになり勘定奉行へ後、道路奉行の直轄となり維
管理されるようになった。
   
 中山道には67の宿場が作られ、各宿では一定の
人足、
馬を準備させ、通信、流通の拠点として公用・
私用を問わず継ハの業務を行わせることとなった。 

                この項つづく 


【エピソード】

 

 

榎 

エノキ(榎、Celtis sinensis)は、エノキ属の落葉
高木。雌雄同株で、高さは20メートル以上、幹の
直径は1メートル以上になる。枝が多く、枝ぶりは
曲がりくねっている。根元で数本に別れていること
もある。樹皮は灰黒褐色。
葉は互生し、長さ4~9
センチメールの卵形または長楕円形で、先は尾状に
のびる。葉の質は厚く、縁は鋸歯状だが、先端まで
葉脈が発達しておらず、丸みを帯びている。
 

花には雄花と雌花がある。葉と同時期(4月頃)に
、葉の根元に小さな花を咲かせる。花の後ろに、直
径5~6ミリの球形の果実をつける。熟すと橙褐色
になり、食べられる。味は甘いという。
 

 

一里塚にどのような木を植えたらよいかと、家康に家臣
がたずねると、「エエ木を植えよ」と答えたところ、件の家
臣が榎と聞き違え専用の植木に決まったという言い伝え
がある。

【脚注及びリンク】
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  1. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  2. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  3. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブロ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル

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