環境と割れ窓理論

2015年11月29日 | 湖と城郭都市

● 環境と割れ窓理論

話は飛躍する。環境は割れ窓理論の呪縛あるいは属性だと
考えることがある。この理論は軽微な犯罪も徹底的に取り
締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする
県境犯罪学上の理論と考えた米国は犯罪学者ジョージ・ケ
リンズが初めて考案ものらしいから外れてはいない。周知
の通り「建物のが壊れているのを放置すると、誰も注意
を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもな
く全て壊される」という考察から生まれた言葉だ。この犯
罪学理論の次のセオリー(あるいは特徴)がしられている。

まず、治安悪化の経路の特徴は

1.建物の窓が壊れているのを放置すると、「誰も当該地
 域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯
 罪を起こしやすい環境を作り出す。
2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協
 力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

これに対し、治安回復経路の特徴は

1.一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締
 まる(ごみをできだけに出さずにするか、きちんと分類
 して捨てるなど)。
2.警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締ま
 りを強化する。
3.地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。

その前に、広報は周知はあることにこちたことはないです
が、理想とすればなくても共同体内部の学習能力蓄積とし
て担保されていればいいのでしょうか。

ところで、このような犯罪学的行動に背景に、心理学者フ
ィリップ・ジンバルドは69年、人が匿名状態にある時の
行動特性を実験で検証する。それによると、「人は匿名性
が保証され、責任が分散されているといった(無責任)状
態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が
生じ、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲
の人の行動に感染しやすくなる特徴があるというものであ
ったは、82年にジョージ・ケリングとジェイムズ・ウィ
ルが、『アトランティッたとえば落書きの有無により、ポ
イ捨てや窃盗といった反社会的な行為の件数に、2倍以上
の開きがあった。このフィールド実験から、反社会な的な
行動の痕跡を放置することは、モラルの低下を拡大させる
と結論づけられた。


● ビジネス界の成功例

1.東京ディズニーランド・ディズニーシーでは、ささい
 な傷を
おろそかにせず、ペンキの塗りなおし等の修繕を
 惜しみなく
夜間に頻繁に行うことで、従業員や来客のマ
 ナーを向上さ
せることに成功している。
2.米国のデパートチェーンノードトスロームは、単に傷
 を治し
ておくという消極的対策だけでなく、「割れ窓」
 の対極である
意味合いのピアノの生演奏を顧客に提供す
 るなどして、成
功つなげている。

このような悪癖は悪癖を呼ぶ比例は、わたしたちの日常に
見られる。例えば、ゴミ屋敷問題、空き屋問題、立ち小便、
タバコやゴミのポイ捨て(「反省するなら猿でもできる」
と自己への問いかけでもあるが)。


● 庄堺公園と美化運動

犬上川下流-河口にある市民がバラの観賞で楽しめ憩える
庄堺公園は、シルバーやボランティアできめ細かい手入れ
で毎年美しい――その手入れ・選定方法を学ぶため参考に
させていただいているが、すこし離れ、架かる橋の赤色の
塗料が対照的早く直してもらえないのか誰しも思っている
が放置――原因は、下塗りなとの塗装欠陥、塗材の劣化お
よび欠陥、最後に、車による飛び石傷、人為的な傷――な
どが考えられるがバランスを欠く景観となっている。
 

 

 

元々、この地はごみ焼却場建設および増設問題で住民運動
が起きた場所。下水道処理場や原子力発電所建設地も同様
だが宥和政策を名目に大きな税金が投入される。廃熱利用
し温水プールや公園、あるいは文化施設などが合わせて建
設されるのが常套手段。わたしたちも、友人の要請で集会
に参加した。東北部流域下水道建設問題でも、原子力発電
諸建設問題でも、住民側に立ち、極めて、冷静緻密に考え、
行動は大胆行ってきたが、どこの既成政党にも属さず(労
働組合は例外)行動してきた。ごみ焼却場では煤煙――ダ
イオキシン問題などは、高温処理と高性能バグフィルター
問題で解決できることは当然からわかっていた。ただ、回
収車及び回収システム上の環境悪化――カラスなどによる
散乱、悪臭、回収車の暴走などの環境悪化-クリーンディ
ーゼル車や電気トラック・燃料電池トラック車への乗り換
えは可能が―は解決できていない。

さらに、大きな川周辺は、黄泉の国と現世との結界として
象徴され、辺鄙な景観が放置される嫌いがあるある上に、
川沿いにごみが不法投棄や車中からの空き缶のポイ捨て、
吸い殻入れの放棄など清掃や、それに平行するかのように
配置された農業用水路の清掃――高齢化で80歳以上の方
も無理押して参加している片方で、コミニティー作業参加
に理解を示さない”ブラック企業まがい”の経営者が増え
若者が参加できなくなっている――定例化されている問題
をかかえている。「割れ窓理論」は大切であるがそれを支
える知恵が追いついていないというのが実感である。


  
南ドイツについて



● ヘルダーリンの故郷 

     2

  おだやかに銀の山はそのLにきらめき

  輝く雪は薔薇の光に満らにいる。

  さらに高い光の上には純粋な浄福の

  神が座を占め 神聖な光芒の戯れを楽しむ。

  静かにひとり住まう冲の 面輪は明るく浮び

  この天上の気の主は 生命を与え 我らとともに

  喜びを生むためにいそしむらしい。程を知り

  呼吸する者のありようを知る故に 

    そっと手心を加えつつ

  神は確か々幸福を 街と家に配る。また

   地の実りのために をごやかな雨を くるみこむ雲を

   いとも親密な風を やさしい存を配るのだ。

   おもむろな千のしぐさで悲しむ者を喜ばせ

   時を新たにするこの創造主が 老い迫る人間の

   静まった心をさわやかに揺り動かし

    深みに力を及ぼして 好み通りに

    奈落を開き明るくする時 その時ふたたび生は始まり

    昔のように優美は栄え 精麗は現前し

    晴朗な意気はふたたび翼をふくらま
す。

            『帰郷――近親者へ』 

    my-front-line

哲学者のハイデガーは、この詩に論考を加え、帰郷とは「
根源に対して近くにいること」と考察。故郷は生まれ育っ
た地理的な場所である以上に、自身を形成した「魂の原点
」ともいうべきもとする。著者によれば、立ち止まって「
原点
」を確認することが「帰郷」であり、新しい出発の機
会を与えてく
れるというべきもの(『ヘルダーリンの詩作
の解明』田恂子、イーリス・ブフハイム訳 )。


【目次】

はじめに
上代の彦根

  お伊勢お多賀のお子じゃもの
 日本最古の庭園、阿白波神社の庭園
 淳和犬皇弟一一皇子守房親王の碑
 中世の彦根
 守房親王が神官となられたハ幡神社
 彦根の巡礼街道
 彦根とその周辺をめぐる近江百人一首 

 【日本最古 阿自岐神社の庭園】

  彦根市の東、小高い緩やかな山脈の麓を縫うように走っ
 ている中山道も、南に高宮をすぎ法士町から葛龍町にかか
 りますと、車は徐行し、周囲を気にしながら走ります。道
 幅もやや狭くなっているものの、この道に沿って建つ住家
 は、木造の中二階を持ち、日本瓦葺きの下屋を付し、外壁
 は塗り龍め、竪格子の出窓をつけています。その壁の色も
 白かったはずですが、今それを眺めると、やや煙んでいる
 ため、その佇いは一層江戸期のまち並みが、このようだっ
 たかと彷彿とさせてくれます。

  右手に最近彦根市が設置しましたシティー・ゲート、石
 畳の歩道に歩み進めますと、やがて豊郷町の四十九院の集
 落に入ります。この四十九院という地名は行基が創建した
 四十九の寺院に由来し、その寺院の一つで唯念寺が左前に
 あります。ここには行基自らが彫ったと伝えられています
 阿弥陀如来像と弥勒菩薩像を本尊とし、石山の合戦の功と
 して唯念寺の寺号を授けられたといいます。

  ここの道が交差したところを右へ、石の大鳥居を潜りぬ
 けると間もなく延喜式内礼の一礼である阿自岐神社の鳥居
 が目に入ります。
  この神社は、百済からの渡来人阿自岐氏が応神天皇の頃
 この地を拓き、その祖神を祀ったものといわれています。
   神社の南の茶臼山古墳は、この阿自岐氏の墓と考えられ
  ています。
   二万平方バもある阿自岐神社の社域の境内はほぼ全部が
  庭園となっており、出島・中の島を浮かべる「池泉多島式
  庭園」といわれる珍しい様式は、わが国最古の庭園として
  貴重な文化財となっています。

   ところで、一般に「庭園」といわれているものは、大自
  然に擬して人間が創った小自然の景観としています。原初
 は神を祀る儀式の場であったり、農作業等の実用の場であ
 ったりしましたが、文化が進むにつれて、人と自然との拘
 わりを求めて、住居を取り巻く環境として発達してきまし
 た。
  庭園にあたることばは、ヨーロッパでは、ゲルマン語系
 で、表現されます。すなわちgardenイギリス、jardin フ
  ランス、jardin スペイン、giardinoイタリア、Gartenド
  イツなどで、これらの語の基礎となる共通の語根はgher-
  で、土地に関する支配ないし囲い込みを意味しています。

   わが国で「庭園」という言葉が使われるようになるのは
  西洋文明が入ってきた明治四十年(1907
)ころからで
 gardenの訳語としてであり、その歴史は浅いのです。庭園
 の「庭」の文字は、元来中国においては、堂前の場所、つ
 まり屋外の平坦な場所をさしたものでしたから、わが国に
 伝わったときは、一木一草一石もない広場――祭政を行な
 う場所――を『日本書紀』では「庭」、『古事記』では「
 邇波」二八(には)」と
いいましたが、これは後世のいわ
  ゆる庭園ではありませんでした。

  自然との深い関わりをもつわが国の庭園は、その自
 然や
四季の移ろいとともに創られ生き続けてきました。
 国土の周
囲を海洋で取り囲まれている日本の庭園は、
 その広大な海
や湖沼を表現するために池泉を多く設け、
 中世のころには
庭園のことを「園池」というようにな
 りました。

 

  弥生後期から飛鳥時代にかけて現れるのが神能、神
 島
です。これは祖霊崇拝や土地の守護神の祭祀と深い
 関わりがあり、広い池に島々が点在する形態は庭園の
 ようにみえますが、
実は庭園ではありません。古代の
 異民族や異なった文化は、海を渡って島伝いに伝来し
 ま
した。このために海と島は神として崇められ、海や
 島を再現して神を祀ったものです。


  現存する神能・神島は、後世の庭園・池泉の中島に
 相当する神島の敷、配置、形態など
によって、宇佐系
 あるいは宗像系――三島直線あるいは直線多島形式。
 秋津島系――丁字系二
島。出雲系あるいは吉備系――
 三島による三角形、または四島以上の多島形式。阿自
 岐系――
複雑多島形式。これらは祭祀の形式や祭神に
 よって決まります。

 

  そこで阿自岐神社庭園は、池泉多島式庭園、作庭年
 代は古代、特色としては、阿自岐族
の住居跡といわれ、
 大池に四島、小池に敷島を直線上に配して石橋が架け
 られています。
神を祀る神地で、庭園の源流として重
 要な存在です。
池は水を満々とたたえ、僻蒼と繁る老
 杉に包まれ、新緑や紅葉の頃はもちろん、四季の
移ろ
 いを見事に演出しています。

 「阿自岐神社 滋賀県犬上郡豊郷町安食四六六三・
 07493(35)2743(
阿自岐神社社務所)」

 

滋賀文化のススメ

①行基

奈良時代の憎。河内の人。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化
や遠寺、池堤設置、橋梁架設等の社会事業を行ない、行基菩薩
と称されました。

②阿弥陀如来

西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行し
ていた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就
して阿弥陀仏になったといいます。

③弥勒菩薩

釈迦牟尼仏に次いで仏になると約束された菩薩。兜率天に住し、
釈尊入滅後五六億七千万年の後この世に下生して、竜華三会の
説法によって釈尊のごとく済度するという未来仏。

④石山の合戦

石山本願寺は石山の地にあった浄土真宗の本山。明応五年(14
96)蓮如の開創。天文元年(1532)孫の証如が本山とし堅固な
要塞を整え 元亀元年(1570)以 降の織田信長との合戦の拠
点となりましたが、天正八年(1580)開城の際の火災で廃滅しま
した。

     中島 一著 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」




【エピソード】
 

  

● 新年会の企画について 

ご無沙汰しております。
歳も押し詰まってきました。今年は幹事の都合で新年会を
取り止めにさせて頂きました。今年は、谷口さん、山田さ
ん、中村さん、芝原さんなどとは個人的ご挨拶などさせて
いただいておりましたが、新年度は下記の案で企画してお
りますので、肩肘はらず(いつものようにですが?)旧交
暖めたいと考えております。ご意見がございましたなら、
メールや電話などでお知らせ下さい。
なお、こちらからお邪魔させていただくやもしれませんが
その折りはよろしくお願い申し上げます。

         16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願います)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                                 幹事敬白

 

 

【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------    

  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コンテ
    スト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府 経済社会総
    合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
    ng of Disorder", Science, 322, 5908
    , pp1681 - 1685
  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町

----------------------;------------------------- 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


上代の彦根

2015年11月26日 | 湖と城郭都市

 

 

 

● ヘルダーリンの故郷 
 
   1 

 アルプスの山中は明るい夜。雲は
 楽しみを思いめぐらし 顎をひらいた谷を包む。
 そこへどよめきなだれこむ 軽躁の山風。
 樅の木立をけわしく切り裂き 輝き消える奔流。
 

 ゆるやかに急ぎ戦い 喜びおののく混沌の霊
 姿こそ若けれ身は強健 愛ゆえの諍いを
 岩の下に祝い 永劫の限界のうちに沸き返り揺れ動く。
 その山中に朝は駆け登る 酒神のように奔放に。 

  そこでは限りなく成長する 年と神聖な時刻と日が
 思い切りよく整理され 混成される。
 それでも嵐の鳥 鷲は時を感知して
 山の間の上空にとどまった日を呼ぶ。
 今谷底に村はめざめ 怖れを知らず。
 高みになじみタ寄せ 山頂を仰いでいる。
 雷のよように 古い泉の水は落ち 成長を予感している
 犬地は落ドする滝のもとに燦々と煙り
 水音はあたりにこだまし 法外なこの工房は
 昼夜をおかず腕を振るい 財(たから)を送り出す。
 

※ 顎 あぎと:えら(鰓)の意。 

               『帰郷――近親者へ』 

 

それでは、ヘルダーリン詩集の翻訳者・川村二郎の解題から
故郷を想像してみよう。

  1802年、スイスでの家庭教師生活を終え、母の住む
 ネッカ河畔の街ニュルティ
ンゲンに戻った後に書かれ
 たと推定されている。アルプスの夜明け、「酒神のよ
 うに奔放」
な朝のめざめから始まり、山から下る水が
 ボーデン
湖やコモ湖に注ぎ、さらに「荒ぶる神」(神
 聖な野獣)なるライン河が、ネッカルど数々の支流を
 集め流を併せつシュヴァーベンの街や野を行く様が、
 まさしく神々の遊行のように激しく
いかめしく、しか
 も壮麗
に歌い上げられている。いうまでもなく土地に
 は心霊が宿っているのだが、もろもろの心霊の乱舞が
 さながら音楽における舞踏の聖化にひとしい恍惚境に
  まで高められている。

   川村次郎 解題 『ヘルダーリン詩集』(岩波文庫)

 



ドイツの役所は普通、市民に対して「開かれていない」

場合が多い。それは役所の配置や作りにも現れている。
中規模(10万人以上)以上の町であれば、部署は町のあ
こちに分散している。入口には部屋番号と担当が示さ
た簡単な案内看板があり、誰か窓口にいて案内すると
うことは、専門部局であれば皆無に近い。基本的に職
には個室が与えられており、閉じられた部屋の中で黙
と自分に与えられたの業務を行っている。市民が気軽
入っていけるような雰囲気はそこにはない。「何か用
あったら、前もって電話で予約して来なさい」といっ
応対をされることも多いという(ドイツ:ニュルティ
ンゲン市「市民による自治体コンテスト1位のまち(1)」
 
)。そし
て、ニュルティンゲン市の市庁舎は、町の中
心部にあり、中
世の後期に立てられた奥ゆかしい立派な
建物である。ただ古
い荘厳な建物と言うこともあってか、
威圧的で近寄りがたい雰
囲気がそこにはあった。市民主
体の町おこし事業は、この「閉
鎖的」な市庁舎の作りを
変えることから始まったと首魁されて
いる(同上)。



南西ドイツ、バーデン・ヴュルテンベルク州のニュルテ
ィンゲン市(Nurtingen)は、シュトゥットガルトから南
に約30キロ、ネッカー川の辺に佇む人口4万人の緑豊
かな
小都市で、ここ10数年市民主体の町おこしを積極
的に
行い、見事、98年、「市民による自治体(Burger-
orientierte Kommune)」というコンテストがドイツで開
かれた。主催者は、ベルテルズマン基金(Bertelsmann
Stifutung)とアクティブ市民協会(Akitiv Burgersch-
aft e.V.)で、参加したのは、「行政」「議会」「市民」
三者による積極的で革新的な共同作業を行なっているド
イツの自治体である。いかに市民を町づくりに組み込ん
でいるかが審査のポイントの結果――このコンテストで
1位を獲得している(同上)。




『帰郷』の第1節からイメージす田園都市や城郭都市を
イメージを参考にし、それではここから本題の中島一著の
『城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-』に入って行
こう。尚、このシリーズはヘルダーリンとその作品(詩集
を中心に)や三島由紀夫著の『絹と明察』の作品などの文
学作品を交えた二元考察スタイルで進めていく。


【目次】


はじめに
上代の彦根

  お伊勢お多賀のお子じゃもの
 日本最古の庭園、阿白波神社の庭園
 淳和犬皇弟一一皇子守房親王の碑
 中世の彦根
 守房親王が神官となられたハ幡神社
 彦根の巡礼街道
 彦根とその周辺をめぐる近江百人一首

 


上代の彦根

 お伊勢お多賀のお子ぢやもの

 お伊勢詣らばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でご
ざる
という古謡があります。「子にござる」という言葉
は勿体ないと、かって多賀大社の宮司
であった金原利道
氏(昭和十四年(1939)~二十一年(1946)在
任)は
 

 お伊勢お多賀のお子ぢやもの


と言い直された、その多賀大社のことです。

 この多賀大社が文献に初めて見えたのは、和銅五年(
712)に撰上された『古事記』
のなかです。

  伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐します


とあります。ところが、この『古事記』から八年おくれ
て世に出ました『日本書紀』に


  伊井諾尊は幽宮を淡路の洲につくり、しずかに長く
 隠りましき。


とありますので、淡路と淡海(近江)のどちらが真実か
と、昔から論争が続いていました。

  『古事記』の研究の最高権威者である本居官長は、
これらの説を研究・検討したうえで、
次のように結論し
ました。

 淡路島には多賀という地名は現存しない。だからこれ
は淡海の多賀でよい。決して誤記ではないと。
 「お多賀さん」のご祭神は、さきにもふれましたが、
お伊勢さんの親神様である伊邪那岐命(男神)、伊邪那
美命(女神)ご夫婦の神さまを祀っています。

 この二柱の神は、天津神から「この漂える国を修理り
固め成せ」との詔をいただかれ、オノコロ島に天降りし
て初めて夫婦の道をひらき、日本の国を生み、山川草木
など自然のあらゆる物をお生みになられました。この二
神の大業については、『古事記』に詳しく述べられてい
ます。とくに日本国土の生成、山川草木など自然の生成
の条項は、「お多賀さん」が「延命長寿の神さま」とし
て、古より全国の多くの方々から篤い信仰を寄せられて
いる大きな理由でしょう。

 ところで、『記』『紀』には、日本人の自然に対する
考え方、神への崇敬の念が語られています。私ども人間
に生命があるように、動物はもちろんのこと、一本一草
にも「天照大神と同根の生命」が宿るものと考えられて
います。
 多賀地方では、二柱の祭神が多賀大社の東、鈴鹿山系
の杉坂出に降臨になり、その麓の栗栖の里に暫し留まり、
その後、現在の地に鎮座されたものだと言い伝えられて
います。
 実は、その留まられた栗栖には調宮神社が祀られてい
て、四月の「多賀まつり」には、この神社まで御輿のお
渡りがあります。
 この降臨伝説から古代における神さまは、何処から来
られるのか、また興言と里言の関係など古い「神祀り」
の形態を窺うことができます。

 奈良時代末期には、諸国の神がみに神封が寄せられて
います。近江の国では、天平神護元年(765)から宝
亀二年(771)にかけて神封が寄せられた神社は一四
社で、そのうち近江国犬上郡では、「山田神五戸、田鹿
(多賀)神六戸、日向神二戸」の合計三社となっていま
した。また封戸は合せて一三戸でありました。山田神、
日向神は後世の多賀大社摂社です。

 平安時代の延長五年(927)の『延喜式』には、近
江国犬上郡七座のなかに、「多何神社二座」とあります。
 古来から多賀大社には、さまざまな伝承が語り伝えら
れています。最も古いのでは、養老年間(720頃)に、
時の帝のご不例癒のご祈拵を勤め、神供の飯にシデの木
で拵えた杓子をそえて献上したところ、めでたくご快癒
されたといいます。これは「お多賀杓子」の縁起として
有名な伝えです。

 長寿祈願で最も著名な伝えは後来坊重源上人の話です。
東大寺復興のため後白河法皇の院宣を蒙って大勧進の大
役をつとめることとなった上人齢六〇を過ぎていました。
大業の成就は覚東ないと、ここ大社に十七か日参龍して
寿命を祈ったところ、満願の暁に、「神殿よ、一葉風
に吹かれて上人の前に来る。菰という文字は二〇(廿)
延。自今以降二〇年の寿命を与え給ふよと。歓喜の思い
をなし」、ついに建久六年(1195)三月、大仏殿建
立の大事をなしとげました。





①古事記

 現存する日本最古の歴
史書。三巻。稗田阿礼が天武天
 皇の勅で誦習した
帝紀および先代の旧辞を、大安万侶
 が元明天皇の勅
により選録して和銅五年(712)献
 上。

②日本書紀

 奈良時代に完成した日
 本最古の勅撰の正史の神代か
 ら持続天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録な
 どを漢文で記述した編年体の史書。三〇巻。養老四年
 (720)舎人親王らの撰。

③本居室長

 江戸中期の国学四大人の一人。号は鈴屋など。伊勢松
 坂の人。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余
 年を費して大著「古事記伝」を完成。

④伊弊諾尊・伊邪那岐命

 日本神話で、天つ神の命を受け伊井再尊と共にわが国
 土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照
 大神・ あまてらすおおみかみ すさのおの
 男神。素菱嗚尊の父神。

⑤伊弊再尊・伊邪那美命

 日本神話で、伊井諾尊の配偶女神。火の神を生んだた
 めに死に、夫神と別れて黄泉国に住むようになる。

⑥神封

  国家が崇敬する神が に捧げる田地とその耕作者のこと。

⑦延喜式

  養老律令に対する施行細別を集大成した古代法典。とくに
  公家の間で公事や年中行事の典拠として尊重されました。

【エピソード】

  

● 新年会の企画について

ご無沙汰しております。
歳も押し詰まってきました。今年は幹事の都合で新年会を
取り止めにさせて頂きました。今年は、谷口さん、山田さ
ん、中村さん、芝原さんなどとは個人的ご挨拶などさせて
いただいておりましたが、新年度は下記の案で企画してお
りますので、肩肘はらず(いつものようにですが?)旧交
暖めたいと考えております。ご意見がございましたなら、
メールや電話などでお知らせ下さい。
なお、こちらからお邪魔させていただくやもしれませんが
その折りはよろしくお願い申し上げます。

         16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願います)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                                 幹事敬白

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コンテ
    スト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府 経済社会総
    合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』

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湖と城郭都市

2015年11月23日 | 日誌

 

 

 

 

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       遠くひろがる湖面には

            帆影に起る喜悦の波


         払暁の町はかなたに


         今花ひらき明るみかける
            

            ヘルダーリン『帰郷』


      人の住む生の世界が遠ざかり

      葡萄の時の輝きもはるかになれば

      夏の野はうつろに拡がり

      森は黒々とかたちをあらわしている。 

      自然が季節のかたちを補完し

      とどまり そして過ぎ去るのは

      完全性の故なのだ、天の高みはひとに

      輝く 木を花が囲み咲くように。


                  ヘルダーリン 『眺望』 

Friedrich Hölderlin (1770–1843)


三島由紀夫の小説『絹と明察』の駒沢にとっての琵琶湖
「日本的風雅」の本拠地として設定し、小説の駒沢に
とって
の琵琶湖は「日本的風雅」の本拠地として設定し、
駒沢の
破滅を画策する岡野にとっての琵琶湖は、ハイデ
ガーにしいて、"詩人の中の詩人"といわしめたヘルダー
リン(あるいはへルダリン)の
「帰郷」という詩に歌わ
れているような、「西欧的澄明」の象
徴に設定したこと
はよく知られている。

ことしで大阪から居を構えはや40年もの月日が流れた。
仕事や観光で海外に出て帰国しいつも感じることは、こ
の地の鈴鹿山系、琵琶湖、そして彦根城を背景とした風
光明媚さは世界一と言っても過言でないと思っている。
そこで、元彦根市長の故中島一氏の手になる『城と湖の
町彦根 歴史と伝統、そして』サンライズ印刷出版部(
2001.09.20)に即して、今一度、「湖と城郭そして田園
都市」の三位一体をテーマ(特定宗教と関係なく)に考
えてみたい。さんこうまでに、中島氏のこの著書の「は
じめ書き」には次のように掲載されている。


  私ども日本人の創り出した都市・建築空間のなか
 で、お城の風景は避けて通ることのできない重要な
 ものの一つでしょう。
  まちのどこからも見える丘の上の白い、あるいは
 黒い外壁をもつ、天守の遠望は、多くの都市のなか
 で殆ど唯一のランドマークとして生きてきました。
 まち中のどこからもその姿が見え、それとの対応で
 私どもの位置を判断し行動の基準とする。それがラ
 ンド了‐‐クなのです。

  近世の城下町、なかでも私どもの彦根の城下町は、
 それだけではなく、まち並み全体が城攻めに備えて
 デザインされたことから、この城は文字どおり近世
 彦根という都市の核であり、現在も生き続けている
 のです。
  彦根といいますと国宝彦根城です。緑の小高い丘
 に三層の白亜の天守を頂き、二重の濠に囲まれた城
 郭がほぼ昔のままに残っています。歴史とロマンの
 あふれる古城は、遠く江戸期へと誘ってくれます。

  城と湖のまち「彦根」は静かな落ちついたいいま
 ちです。そこには「彦根の良さ」があり、それを誇
 りとしているものです。

  私は、さきに「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、
 そして」と題した小著を出版させていただきました。
 しかし、それだけでは、到底語り尽くせるものでは
 ありませんでした。そこで、是非お話をしておかな
 ければならないもののいくつかについて拾い上げ、
 纏めあげ、『績』として刊行したものです。これが
 「彦根のよ」をさらにご理解いただき、明日の彦根
 に確かな希いをアプローチしていただけることを期
 待いたします。


以上のごとく「是非お話をしておかな ければならない
もののいくつかについて拾い上げ 纏めあげ、『績』と
して刊行したものです」と述べられている通り、注意深
く読み進め感想なり、コメントなりを付記できればと考
える。勿論、個人的な思いや考えは適宜書き加えて行く
つもりである。 

                 


【エピソード】

  

はじめて、国鉄新幹線の米原東口(西口など形もなかっ
た)に降り立った時、地図のマークの大きさと真逆にビ
ックリ、気を取り直しタクシーで高宮町の大日本スクリ
ーンに向かうが国鉄彦根駅は当然、素通りし正門でボス
トンバック持ち降りてさらにビックリ。これが、
カラー
テレビという最先端部品をつくるところなのかと。前に
歩きだそうにも後ろ向いて歩いているような錯覚――今
風に言うとムーンウォーク――を初めて経験した。当然、
横にあるブリジストンタイヤは敷地面積は広いがちっぽ
けな工場に見えた。これが彦根の第一印象であった。
 

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia

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高宮宿の本陣・脇本陣

2015年11月20日 | デジタル高宮町史





 

● 高宮宿の本陣・脇本陣 

慶長八年(1603)、徳川家康は、征夷大将軍になり
江戸に幕府がつくられ政治の中心となると、最も人切な
五街道を決めました。その中に、京と江戸を結ぶ東海道
と中山道が選ばれました。この中山道は、東海道と北陸
道の三つの道の中間の山道を意味する。

高宮が宿場町として再生するのは、江戸時代当初からの
ことです。江戸時代に入ると、幕府は宿駅制度の整備を
始めるが慶長七年(1602)、その基本となる伝馬継
所に高宮が定められる。高宮は中山道六十七次の一宿で
江戸から六十四番目。その宿駅を設けて、隔年に出仕す
る人名.行の宿泊のための宿場と、幕府の命令を各地に
伝えるための駅として成立させた。

街道には南北ともに、石で囲まれた宿駅の見付けに常夜
燈のついた恐龍と旅の安令を見守る地蔵等があって、そ
れらは大変政派なものだった。天保十四年(1843)
の高宮宿の石高は、29213石6斗2升で、美濃の鵜
沼宿(現岐阜県各務原市)に次いで高く、ま
た当時の人
口も3560人と武蔵の本庄宿(現埼
玉県本庄心)に続く
第二の大きな宿場だった。

※駅:律令制で、公用の旅行や通信のために駅馬・  駅
  船・
人夫を常備しているところ。 


宿場は幕府の道中奉行の配下にあって、人馬の継立、旅
宿飛脚、街道の維持管理などの宿場業務を行う。それら
の業務を統括したのが問屋であり、これを補佐する年寄,,,
人馬継立の実務にあたる馬指・帳付などがいた。宿場に
は、旅宿のための本陣・脇本陣・旅版屋・茶屋等の施設
が設けられている。この本陣・脇本陣は、大名、勅使・
公家・旗本などの公的旅行者が休泊する施設であって、
一般の旅行者は旅版屋に泊まり、茶屋で休息をとったも
の。脇本陣の前には街道に沿って、幕府の命令を伝える
高さも幅とも一丈(約三メートル)を越える高札が立ち、
村役人が控えていた。

※道中奉行:江戸幕府の職名。大目付・勘定奉行の兼務。
 諸、
国街道・宿駅の取締り、道路・橋梁などの修復、
 宿場の公事訴訟の吟味などをつかさどる。



 この人たちは旅人の注文により、人や荷物を運ぶ人足
二十五人と馬二十五頭用意して、割り当てたりして、一
日中忙しく活気があった
。高宮宿には本陣一軒と脇本陣
が二軒あった。宿絵図を見ると、圓照寺の中山道をへだ
てた東側に本陣があり、三軒とも宿場の南に偏して設け
られていることが分かる。
 この高宮宿本陣の表門は現存している。本陣について
もう少し見てみよう。享和四年(1804)に描かれた
絵図が残されている。これによりると、敷地の間口は十
五間四尺(約29メートル)、奥行は二十八間(約51
メートル23坪(約406平方メートル)が建坪であっ
た。

 

 建物は中山道に面して、表向の格式をもつ門構えの表
門と奥
向の人口があり、表門を入ると白砂の敷き均され
た庭を経て
玄関・広間、書院遣いの上段の間へと直線上
に表向の各部屋
が配されていた。
 いっぽう奥向は、入口から通り庭を挟んで勝手・だい
どこ(台所)・料理の間、陪臣の
部屋が並んでいた。
 脇本陣は、さきに見た本陣の六軒南と、中山道を挟んだ二
軒北にあり、ともに本陣を補助する施設であった。
 建物の規模は、71坪(約235平方メートル)と74坪(約24
5平方メートル)と本陣に比べ小さいが、本陣と略同様の建物
構成を形成している。北の脇本陣は、享和四年の絵図による
と、門の横には、高さ一丈三尺(約4メートル)、幅一
丈三尺
五寸の高札場が設けられていた。
 この脇本陣宅は、慶長十三年(1608)以来明治維新を迎
えるまで脇本陣と問屋を兼ねていた。
 江戸期の終わり頃になりますと、旅龍も二十三を数え、その
大きいところでは二十余りの部屋があった。
 宿場から宿場間の街道――縄手――には、旅人に夏に
は暑さから、冬には寒風や降雪から守
るため桧並木が両
側に土手を追って植栽されていた。また、旅人の目安に
するため、街道一里(約3・9メートル)ごとに土を盛
って、その上に松や榎を植えた一里塚をつくった。

※書院造り:室町末期から起り江戸初期に完成した住宅
 建築の様式。和風住宅として、現在まで影響を及ぼし
 ている。接客空間が独立し、立派につくる。主座敷を
 上段とし、床・棚・付書院・帳合構を設ける。
 角柱で、畳を敷きつめ柱間には明かり障子・襖を、外
 周りには雨戸を用いる。

※一里塚:街道の両側に一里(約4キロメートルごとに
 土を盛り、里程の目標とした塚。多く榎・桧を植えた。

※[高宮宿本陣・脇本陣 彦根市高宮町331・074
 9(22)3
501 彦根市高宮町地域公民館」


● 高宮の「むちんばし」


 江戸時代の初期の頃は、東海道や中山道は一応整備さ
れたが、大きな川の
その多くには橋はなかった。川に水
がない時には浅瀬を捜し求めて歩いて、足元に
注意を払
って、そろそろと渡った。

 降雨により出水すると人足の助けを借りて、おんぶを
して貰ったり、井桁に組まれた
胡坐を散人の人足の肩を
がり渡った。

 大水のときは、川止めといって渡ることはできない。
このことは、徳川幕府や
彦根藩の役人も同じで、急な用
事で川を渡るときは、大勢の人足を集めなければならな
。時には、夜などでは人足を集めることができないこ
とがあり、役人も宿場の
人たちも大変難儀となる。
 ときは明和四年(1767)のこと。中山道高宮宿の
人たちは、高宮川(大上川)
に仮りの橋を架けることを
奉行に願い出た。この計画は、中山道よりは少し下流に
人も馬も、ともに渡ることのできる丈夫な板で仮橋を造
る。これは出水時のみのこと
にして、普段は片付けてお
くというものだった。


井桁:ものを組むとき、「井」 の字の形にする、その形。
※奉行:上命を奉じて公事・行事を執行すること。ま
  その担当者。


 そのころの本橋は大水の時には、よく流されたりした
ので、そ
の水の減水したときを見払らって歩いて渡らな
ければならかった

 こうした不使さをなくするために、彦根藩は領地の金
持ちなど多
くの人の募金を得て、丈夫な橋を架けるよう
命じた。この橋の
維持・管理などの費用も、宿場の有力
者から集めたお金が当てられ
た。
 そのお蔭で、旅人はお金を払わずに橋を渡ることがで
きた。

 橋は旅人に「むちんばし(無賃橋)と呼ばれ、大変親
しまれ、ま
た喜ばれた。
 高宮橋の袂に建っている「むちんはし」の標石は、天
保三年(2832
) の橋のできた頃に建てられたもの。
 この木造の橋は何度も大水で流されている

 "中山道はじまって以来の盛事で、街中が一日じゆう明
るくなった・・・。"島崎藤村は「夜明け前」のなかで、そ
の日の宿場のことを書いている。

※公卿:公(太政大臣および左・右大臣)と郷(太・中
 納言、参議および三位以上の朝官)との併称。
※殿上人:清涼殿の「殿上の間」(清涼殿の南廂にあっ
 て、殿上人の昇殿を許された所) へ昇殿を許された
 人。四位・五位以上の一部および六位の蔵人が許され
 ました。
※朝廷:君主が政治をとりおこなうところ。

 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列で
あった。
 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列の
江戸末期のことです。京都の朝廷と江戸の徳川幕府の対
立を和らげるため、前後六回にわたり京の都の姫君と幕
府の将軍との間にご成婚が行われる。それらは、すべて
中山道を通り、都から江戸へとお下りになっている。
 相宿のご一行は、結果においては最終を飾るに相応し
い盛大な大行列だった。この和宮一行が京都を出発され
たのは文久元年(1861)10月20日のことで、高
宮宿を通過されたのは、同月23日のお昼前のことで、
小休止をとっている。
 和宮一行のため高宮川(大上川)に架けられたこの橋
の図が残っている。この図の右下に"和宮様が江戸へお
下りの時の高宮川の御馳走橋を書きおく者です"との意
味のことばが記入されている。
 この「御馳走」とありますのは、それこそ立派な料理
だけを指す言葉ではない。
 ここでは、高貴の方を歓迎申し上げるときにこの表現
をしたものと解する。
 この御馳走橋も残念なことに僅か十年ほどしか続かな
かった。
 ところで、この木造の橋は、何度となく大水で流され
和宮が江戸へ向かう時などには、さきに話しのように新
しく架け替えたりしながら高宮の人たちは力を合わせて
橋を守ったので無料で渡ることができた。

【エピソード】



 

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20

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