稲枝駅は、大正9年に開設して以来、90年が経過、
駅舎の老朽化が著しく、段差も多いため、高齢者や
障害のある方々にとって利用しにくい状況だ。また、
駅の西側には、改札口がなく非常に不便であるとい
う声も多く寄せられていて、彦根市は湖東圏域の南
部の玄関口として、利用しやすい東西連絡自由通路
を備えた駅舎の改築や東西駅前広場などの整備を計
画。この駅は滋賀県彦根市稲枝町にある、西日本旅
客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。「琵琶
湖線」の愛称区間に含まれている。相対式ホーム2
面2線のホームを持つ地上駅。駅舎は京都方面行ホー
ム側にあり、米原方面行ホームへは跨線橋で連絡し
ている。なお、駅業務はジェイアール西日本交通サ
ービスに業務委託されており、彦根駅が当駅を管理
している。
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1920年7月1日 国有鉄道東海道本線の河瀬駅 - 能
登川駅間に新設開業。客貨取扱を開始。
1963年2月1日 貨物取扱が廃止。
1987年4月1日 国鉄分割民営化により、西日本旅客
鉄道の駅となる。
2003年11月1日 ICカードICOCA供用開始
2007年3月22日 稲枝駅改築整備促進期成同盟会設立
2008年度 稲枝駅西側地区整備基本構想策定実施
2009年度 JR稲枝駅整備基本計画策定実施
2010年度 JR稲枝駅改築等基本設計実施
2011年度 JR稲枝駅移転補償費算出業務実施
2012年度 JR西日本との基本協定締結(目標)
2015年度 JR稲枝駅舎・自由通路の供用開始(目標)
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日本鉄道株式会社の東海道線びわこ線沿線で改造整
備が遅れている2駅ある。ひとつは篠原、もうひと
つは稲枝駅だ。画一的な駅への再整備には反対だが
バリアーフリー(ユニバーサルデザイン)などの共
通・現在化などを盛り込んだ再整備とそのアクセス
周辺再整備(コミニティーバス、タクシーなど)は
必要だ。なぜこんなことを取り上げたのか?、計画
着工が3年後に延期されたという苦情?が話題にな
ったから。ということで、国鉄時代のネックレス構
想が頓挫したいまもう一度折に触れ見直してみよう。
ところで、稲枝地区の文化歴史のネット検索でのイ
メージは意外と少ない。 彦根市南部に位置する水
田地帯、地区北側の東から西に向けて1級河川宇曽
川が流れ、琵琶湖に注ぎ、地区周辺の歴史が古く、
肥田城遺跡、肥田南遺跡、鶴田遺跡などの埋蔵文化
財包蔵地が分布し、本事業で実施した発掘調査の結
果、弥生時代から室町時代の集落跡であることが記
されているが、荒神山周辺の記述量から比べやはり
少ない。また地場産業など紹介が少ないのは都市化
の成熟度(農業地区)や後背地少なさに由来する。
荒神山以外には肥田城址などがある。肥田城は愛智
氏の支流の高野瀬隆重により 宇曽川の左岸に築城。
永禄2年(1559)江北・浅井氏と江南・六角氏の国
境に領地をもつ肥田城主・高野瀬秀隆は小谷城の浅
井賢政(後の長政)と通じ、肥田城が浅井氏の支配
下になると、観音寺城の六角承禎は軍を起こし、宇
曽川を堰き止め肥田城を水攻めし、折りからの大雨
で堤防が決壊し水攻めは失敗に終わり、翌年六角氏
と浅井氏は肥田城の西、野良田で決戦が浅井氏が勝
利する。この時から浅井氏は娶っていた六角氏の家
臣・平井氏の女を追い返すとともに、賢政改め長政
と名乗り戦国大名への道を歩み始める。永禄11年(
1568)近江に進攻した織田信長は、元亀元年(1570)
に野洲川の下流の落窪で六角氏に勝利し、天正2年(
1574)に江南から六角氏を追放した後、肥田城には
蜂屋頼隆を入れ、城主は長谷川秀一に替わるが、秀
一は文禄の役で朝鮮で病死。肥田城は慶長年間(15
96~1615)以後廃城となったという。
【エピソード】
桜が散った5月から6月の宇曽川で小鮎釣りを楽し
むのが恒例。荒神山、県立大学、曽根沼など背景に
バーベキューを近くの湖岸で楽しむ。なんとも贅沢
な水辺環境が整っている。
【脚注及びリンク】
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1.「稲枝駅」ウィキペディア
2.「都市づくり基本方針」(全体構想)彦根市
3.「都市づくり基本方針」(地区別構想)彦根市
4.「稲枝地区まちづくり協議会」
5.「稲枝駅周辺整備事業の概要」
6.「都市計画決定(案)に関する資料」
7.「稲枝駅周辺整備基本設計(案)」
8.「駅舎平面図」
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