【中世の彦根 2】
● 中山道より多賀大社への道
彦根から多賀大社への遜は、3つあり、(1)中山道の
高富宿からの道と(2)大堀町の中山道、(3)中山道
の原町からのもで、なかでも高宮道と呼ぱれているは、
多賀大社への正式な参詣道であり、多賀道とも呼ぶ。中
山道愛知川の家祓みを過ぎ、さらに街道の松並木に当時
の面影を留める葛肱町(彦根市)を通り、大上川の高宮
橋を渡ると、高宮の集落に入る。
高宮(彦根市)は、江戸期には、この中山道の宿駅が置かれ
ていた。この中山道での第二を誇る大きな宿駅として栄えた
宿場町。この高官のほぼ真中辺りに、中山道に面して多賀大
社の石造りの大鳥居が聳え立つ。多賀大社への起点に建
つこの一の鳥居といわれる大鳥居は明神鳥居で、寛永年
間(1624~43)大社の造営のときと同じく造営さ
れている。石鳥居の高さは16メートル、柱の直径は1・
2メートル、柱間八メートルという堂々としたもので、そ
の規模は滋賀県下最大で、滋賀県指定文化財となってい
る。大鳥居の脇には、大社の常夜燈と「これより多賀み
ち三十丁(約3.2キロメートル)」と刻んだ道標もあり、
多賀大社の表参追口に相応しい雰囲気をとどめる。大鳥
居の扁額は、青蓮院門跡之御染筆といわれ、
道端に多賀の鳥居の寒さかな
尚白(『猿蓑』)※14
の俳句の石標が静かに佇んでいる。.
● 多賀道
多賀大社は、高宮からおよそ四キロあまりの道のり。と
ころで大鳥居前に現在、「多賀賽銭箱」が置かれている。これ
は中山道を往来する旅人で、社前iまで参拝できない旅人のた
めに置かれた。大鳥居をくぐると、ほぼ田園の中を.直線で多
賀の集落の南端に連ながっている。この道の両側に約20メ
ートルごとに石燈脆が曾つては整列していたが、県道多賀高
宮線が旧道に相乗りして道幅が拡げられたとき、その殆どの
燈龍が引抜かれたため、表参道としての風情を喪失した。
多賀の町中をさらに進むと、多賀名物糸切餅を売る店角に、
「左、とりいもと」と刻した道標かあり、この三叉路で原道や大
堀道と合流する。やがて道は右へ曲がり、その角に「右、本社
道」「左、京道」と刻した明治十九年(1886)建立の見参な道
標がなっている。
● 大堀道
大堀道は、中山道彦根市大堀町から、多賀町土田を通り、
多賀大社までの約三・5キロを結ぶ間道で、多賀彦根大
堀往遠道と呼ばれている。中山道から道幅.一方の旧道
に入ると、芹川の左岸((側堤防)に出る。そこから芹
川沿いに東に進む。この芹川は、善利川とも大堀川とも
呼ぱれていたが、『木曽路名所図会』には、「名におふ
不知哉川」とあり、また「万葉集」巻11の「狗上の鳥
籠の山なる不知也川不知とを聞こせわが名告らすな」」
などと、多くの古歌に出ている。
大堀山ともいわれる鳥籠山左に眺め、さらに東に進むと、
杉の大木が立ち並ぷ大社の森が眼前に展かり、やがて、
多賀町土田の集落がる。人口に黒ずんだ風化が激しい石
の道標が建っている。「右、多賀大社道」と刻まれ、八
幡神社の前を通り大川の橋の挟の「左、多がみち」と刻
まれた道標があり、多賀大社への参詣道であったことを
伝えている。
● 原道
彦根市原町の中山道交差点より正法寺町、野田山町を経
て、多賀町中川原を通り、多賀大社までの5キロjを結
ぶ間道が原道。東国や北国地方からの参詣道になる。起
点の中山道との交差点には、高さ5メートルに及ぶ立派
な常夜燈が建っている。その竿には「多賀大社」「不動
院」と刻まれ、燈寵の下に、「是れより多賀ちかみち」
の道標が立ち、往昔の面影を残す。「ちかみち」とある
のは.高宮道を通るより近いからで、高宮道が正参道に
あるのに対し、裏参道、東参道と呼ばれている。旧道は、
正法寺集落の南端で西へ進み、勝山という小高い丘の麓
を南へ進む。この勝山は関ケ原の合戦の時に、家康が本
陣を置いたところで、頂上から南北に走る中山道が眼下
に見降ろせ、彦根城下一望できまる。
「高宮道」彦根市高宮町 「大堀道」彦根市大堀町
「原道」彦根市原町―――0749-24-7971(彦根市教育委
員会)
【佐和山城郭都市考 6】
● 「宿場町」の成り立ちと都市の構造
宿場町は、中世から近世において、主要街道沿いに発達し
た集落都市であり、江戸時代には、幕府や藩によって公
式に認定されたまちの一形態である。諸大名への参勤交
代制の確立や各地をつなぐ街道や往還が整備された江戸
時代以降に新しく成立したものが多い。参勤交代の大名
一行等の宿泊施設としての本陣や脇本陣、公用物資の運
送を担う問屋が立地し、これらに必要な人足を徴用する
ための助郷が周辺の農村部に立地した。
また、一般庶民による有名寺社等への参詣の流行に伴い、
一般庶民を相手にした旅箭、木賃宿、商家等が、街道に沿
って細長いまちを形成。宿場町の多くは商業機能をあわ
せ持つ在郷町として発展した。特に賑わいを見せたのは、
五街道沿いに展開した宿場町で、幕府は道中奉行を設け
て直轄とした。
町は街道に沿った沿道型であり、街道の両側に奥行きの
揃った短所状の町割、街路の中央や両側に水路を特つと
いう都淑の構造が典型的であった。町の入口に木戸を設
け、枡形を有する場合もあった。
宿場町は、都市問を結ぶ街道の整備及び街道を行き交う
人々物資の増加に伴い、宿場として発達したまちであり
街道の両側に沿ってまちなみが形成されている。宿場町
は、幕府や各藩により公式に認められた町として、江戸
時代を通じて発達。地域によって独自の旅馥や問屋等の
町家がある。
特に、江戸時代の参勤交代制度により、地方の大名一行
等が宿泊する本陣や脇本陣、物資の運送を行う問屋が立
地した。構成要素としては、人々や物資の往来を支えた
街道と、宿泊施設としての大名・行等が宿泊する本陣や脇
本陣、町民等が逗留する旅寵や旅館等といった宿場の特
徴を持つ建築物、街道筋に点在する目印や追分、並木等
がある。また、宿場町での生活を支えた用水や水路等も
街道や沿道のまちなみとあわせて、特徴的な要素である。
この他、街道沿いに設けられた行き先を示す石碑や塚等、
宿場町とのつながりある要素も多い。
【エピソード】
今回は鳥居本宿――天保十四年(1843年)の『中山
道宿村大概帳』によれば、鳥居本宿の長さは小野村境か
ら下矢倉村まで13町(約1.4キロ)、宿高315石
鳥居本宿の宿内家数は293軒、うち本陣1軒、脇本陣
2軒、問屋場1軒、旅籠35軒で宿内人口は1,448
人であった(Wikipedia)――は触れなかったが、後日宿
場町としての鳥居本と、佐和山城――戦国時代の城郭
としては交通の要所であり『浅井三代記』『信長公記』
を基にすると小谷城の表御殿的な機能、つまり、ゲスト
ハウス(迎賓館)ではなかったと推測されている――下
町との接点を考えてみたい。
16年度新年会(案)
日時 2月6日(土)か2月13日(土)のどちらかで
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
- 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 中山道高宮宿 馬場憲山宿
- 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
- 新高宮町史 自費出版デジタル
- 江佐尚白:生年不詳~享保7年(1722)7月19日
- 旧中山道六十九次徒歩の旅53/鳥居本~64高
宮宿/紀行写真集3 - いのちの神様 多賀大社
- 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
政策総合研究所 2013.04.11 - 近江百人一首 滋賀県立近代美術館
- 近江百人一首 滋賀県文化振興事業団∥編集 滋賀
県教育委員会 1993年 S-9100- 93 p.14 - 淡海万葉の世界 藤井五郎∥著 サンライズ出版
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- 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
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山近久美子(防衛大学校)2005.08.25 - ヨーロッパ100名城 Wikipedia
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- 石田三成 Wikipedia
- 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
- 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
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- 猿蓑 Wikipedia
- 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
- 石田 正継 Wikipedia
- 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
- 彦根藩並近郷往古聞書
- 彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
- 井伊家年譜
- 佐和山藩 Wikipedia
- 丹羽長秀 Wikipedia
- 『新修彦根市史』の紹介 | 彦根市
- 彦根古図略図 彦根市
- 金亀山彦根寺の観音堂 ―近江西国第14番 金亀山
北野寺とも - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 滋賀県彦根市 専宗寺 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27
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