虎御前山砦は、戦国大名浅井氏の居城である小谷城(湖
北町)を攻略するため、織田信長軍によって築かれた付
城(陣城)である。小谷城に対する最前線の位置にあり、
かつ信長の本営でもあった。小谷城とは平地を隔てて約
五百メートルの距離となる。現在は、両者の間を北陸自
動車道が分断している。『信長公記』によれば、元亀元
年(1570)に鎌刃城(米原市)主で浅井長政家臣であっ
た堀・樋口氏の調略に成功した織田信長は、その勢いで
浅井氏居城の小谷城に攻め寄せた。6月21日信長自身が
軍勢を率いて虎御前山に上り、小谷城攻撃を指揮するが、
翌日には撤収する。この時はわずか一夜の陣に過ぎず、
築城はなかったとされている。
同3年7月に信長は小谷城を攻撃、小谷城南の雲雀山(
湖北町)・虎御前山に出軍。同月20日に虎御前山に築城
を命じる。砦は8月8日頃完成し、信長により興のある
造りでその座敷からは小谷城方面への眺望が効かったと
いう。続いて横山城(長浜市)との連絡を確保のため八
相山(虎姫町、虎御前山の南側尾根続き)・宮部(虎姫
町)に砦を構築。さらに虎御前山から宮部まで間の道片
側に約三メートルの土塁を築き、通行の安全を計る。宮
部は、虎御前山から南東方向に約 1.5キロ離れ、防御ラ
インにする。以後羽柴秀吉、信長嫡子の織田信恵が守備、
元亀4年8月27日に小谷城が陥落するまで虎御前山砦は
信長本営となるが虎御前山砦の存在は、わずか一年に過
ぎない。
その遺構は一部遊歩道等により破壊を受けた部分もある
が、全般的に良好に保存されている。なおかつ遺構の広
がりも南北約五百メートル、東西約三百メートルであり、
付城の規模では大きな部類となる。また、虎御前山頂に
ある曲輪は、織田信長陣と伝えられ、東西に細長い曲輪
で、南側に突き出すように外枡形状の虎口を構える。虎
御前山砦の虎口中、最もしっかりした造りであり、かつ
規模も大きい。またその形態は、永禄13年(1570)に信
長により築かれた宇佐山城(大津市)主郭虎口に類似す
るといわれる。
尚、なお、砦跡には櫓白状の盛り上がりがあちこち見られ
るが、これは古墳の墳丘である。既存の古墳を大きく破壊
することなく、極力利用する形で築城が進められた緯を物
語っているという。
【エピソード】
この湖北は小谷城の戦いやその後の賤ヶ岳の戦いへと綴
られる一連の史跡の宝庫。その舞台になる姉川・妹川(
高時川)周辺に位置するが、トレッキングコースとして
楽しんでも絶好の後背地だろうと思われる。
【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
出版
2.「近江の山城・平城 位置図」、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会」
8.「御前山砦/近江の城郭」
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