虎御前山砦

2013年06月07日 | 滋賀百城

 

虎御前山砦は、戦国大名浅井氏の居城である小谷城(湖
北町)を攻略するため、織田信長軍によって築かれた付
城(陣城)である。小谷城に対する最前線の位置にあり、
かつ信長の本営でもあった。小谷城とは平地を隔てて約
五百メートルの距離となる。現在は、両者の間を北陸自
動車道が分断している。『信長公記』によれば、元亀元
年(1570)に鎌刃城(米原市)主で浅井長政家臣であっ
た堀・樋口氏の調略に成功した織田信長は、その勢いで
浅井氏居城の小谷城に攻め寄せた。6月21日信長自身が
軍勢を率いて虎御前山に上り、小谷城攻撃を指揮するが、
翌日には撤収する。この時はわずか一夜の陣に過ぎず、
築城はなかったとされている。

同3年7月に信長は小谷城を攻撃、小谷城南の雲雀山(
湖北町)・虎御前山に出軍。同月20日に虎御前山に築城
を命じる。砦は8月8日頃完成し、信長により興のある
造りでその座敷からは小谷城方面への眺望が効かったと
いう。続いて横山城(長浜市)との連絡を確保のため八
相山(虎姫町、虎御前山の南側尾根続き)・宮部(虎姫
町)に砦を構築。さらに虎御前山から宮部まで間の道片
側に約三メートルの土塁を築き、通行の安全を計る。宮
部は、虎御前山から南東方向に約 1.5キロ離れ、防御ラ
インにする。以後羽柴秀吉、信長嫡子の織田信恵が守備、
元亀4年8月27日に小谷城が陥落するまで虎御前山砦は
信長本営となるが虎御前山砦の存在は、わずか一年に過
ぎない。

その
遺構は一部遊歩道等により破壊を受けた部分もある
が、全般的に良好に保存されている。なおかつ遺構の広
がりも南北約五百メートル、東西約三百メートルであり、
付城の規模では大きな部類となる。また、虎御前山頂に
ある曲輪は、織田信長陣と伝えられ、東西に細長い曲輪
で、南側に突き出すように外枡形状の虎口を構える。虎
御前山砦の虎口中、最もしっかりした造りであり、かつ
規模も大きい。またその形態は、永禄13年(1570)に信
長により築かれた宇佐山城(大津市)主郭虎口に類似す
るといわれる。

 

尚、なお、砦跡には櫓白状の盛り上がりがあちこち見られ
るが、これは古墳の墳丘である。既存の古墳を大きく破
することなく、極力利用する形で築城が進められた
緯を物
語っているという。 

 【エピソード】

    

この湖北は小谷城の戦いやその後の賤ヶ岳の戦いへと綴
られる一連の史跡の宝庫。その舞台になる姉川・妹川
高時川)周辺に位置するが、トレッキングコースとして
楽しんでも絶好の後背地だろうと思われる。

【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
 出版

2.「近江の山城・平城 位置図、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
 書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、
Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会
8.「御前山砦/近江の城郭

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横山城

2013年06月03日 | 滋賀百城

 

横山城は、米原市と長浜市との境界をなす横山丘陵の
最高峰を中心とした頂上部周辺に位置。この横山丘陵
は竜が横たわっている姿に似ていることから、別名「
臥竜山」と呼ばれ、古代からの多く歴史遺産が残って
いる、丘陵の先端部分には、湖北でも最も古い前方後
円墳のひとつである「茶臼山古墳」(滋賀県指定)が
あり、姉川合戦において織田信長が陣取った「竜ケ鼻
砦」とされている,また、横山城の東南の山麓には、
伊吹山四護国寺のひとつで、横山城とも密接な関係に
あった「大原観音寺」がある。同寺は、秀吉が長浜城
主時代に、石田三成と殼初に出会ったゆかりのある寺
とされている。横山城がいつ頃に築城されていたかは
定かでないが、当初は江北を領していた京極氏の支城
として築かれたとされる。永14年(1517)浅井亮政に
より攻められ、その後は、浅井氏の勢力拡大による南
進の拠点として、永禄4年(1561)浅井長政により本
格的に改修されたとされる。

元亀元年(1570)の浅井長政による織田信長の離反に
対し、信長の近江侵攻が始まる。同年六月、織田軍は
美濃と近江の防御ラインの要であった長比城刈安尾
上平寺城)を落とし横山城を包囲。これに対して
朝倉・浅井軍は小谷城を出て、大依山に陣を構え姉川
を挟んで対陣する世にいう「姉川の合戦」が起こる。
合戦は激戦の末、朝倉・浅片軍は小谷城に敗走し織田
軍の勝利となる。信長はすぐに小谷城を攻めず、羽柴
秀吉、池田輝政、柴田勝家らが横山城を攻撃。守将大
野木土佐守らは開城し逃亡。その後、秀吉らが城番と
なり、浅井氏が小谷城に滅亡する大正元年(1573)ま
での三年間、小谷城攻撃、湖北・近江の拠点としての
役割を担った。



横山城の遺構は、横山丘陵最高地から三方の尾根上に
広り、大きく分けて丘陵最高地に北城、そこから派生
する南の尾根に南城が築かれ、「別城一郭」の構造を
呈す。北城は、西側尾根の先端に二重堀切と、最高地
の北側にも堀切を設けている。曲輪は階段状に削平さ
れているが、明確な土塁もあまりなく、単調な構造と
なる。一方、南城は、主郭と考えられる長方形の削平
地の周囲に土塁を巡らせ、北城側に虎口を設け、井戸
跡も確認されている。これらの周りに竪土塁や竪堀な
どを設けるなど、北城に比べて発達した構造となって
いて、北城と南城とでは、築城時期に時期差があった
と言われる。

天正10年(1582)本能寺の変により信長が倒れ「清洲
会議」が行われ、羽柴秀吉と柴田勝家が反目。翌11年、
北近江の賤ケ岳で激突するがこれが「賤ケ岳合戦」で
ある。このとき沢山の城塞が築かれ、わが国合戦史上
他に類も見ない築城合戦とされる。秀吉軍の最前線や
第二次前線に多くの城が築かれ、それらが突破された
際の備えとして、横山城を改修しているという。

【エピソード】

 

  

【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
 出版

2.「近江の山城・平城 位置図、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
 書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、
Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会
8.「
横山城-滋賀県-~城と古戦場~
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