ホンモロコ 川でも産卵

2014年09月06日 | 日誌

 

 

● 高いふ化率、成長早く 西の湖周辺

琵琶湖の固有種のホンモロコが、沿岸部や接続水域の内
湖だけでなく、内湖に流入する河川までさかのぼって産
卵していることを、滋賀県水産試験場や県水産課が近江
八幡市の西の湖周辺の調査で初めて確認したという。同
試験場では「春先の河川は琵琶湖や内湖より水温が高く
早期の産卵や稚魚の成長につながり、琵琶湖の水位低下
で卵が干上がる被害も少ない」とみて今後の資源回復に
生かせる調査資料とみている。




産卵期の2012年3~6月、西の湖に注ぐ山本川と蛇
砂川の中・下流域などを調査し、2河川で3月下旬以降、
小石の河床や、オオカナダモなどの水中の植物に産み付
けられたホンモロコの卵を多数発見。山本川では産卵地
で知られる大津市北西部や長浜市の琵琶湖沿岸部より2
週間から1カ月早く産卵する。

3月上旬~4月上旬の2河川の水温は9.8~15.4℃
と親魚が産卵を始めるとされる温度で、同時期の西の湖
の水温(7.4~14.1℃)や、大津、長浜の琵琶湖沿
岸部も上回った。親魚は産卵のため琵琶湖から西の湖に
移動した後、それぞれの河川へ遡上し、他地域よりも早
く産卵したと推測している。

2河川では雌より雄が多く、多数の雄が遡上する雌を追
尾していた。は数回にわたり産卵する習性があり、河
川と内湖を行き来していた可能性もある。「河川で早期
に産卵することで稚魚が早く成長できる。外来魚などに
捕食されないように回避する能力も高まり、生存につな
がっているのではないか」との職員の話を伝えている。

琵琶湖岸や内湖では、ホンモロコが水深約数センチのヨ
シ帯やヤナギの根に産卵し、わずかな水位低下で卵が干
上がることが指摘されている。山本川の産卵場所は水深
25~35センチで水位変動の影響が少なく、卵のふ化
率も高いとみられている。



ホンモロコは味の良さから人気が高いが、約20年前か
ら激減して12年漁獲量は14トンと最盛期の20分の
1以下。環境省レッドリストで絶滅危惧種になっている。
「産卵場を守るためには、ホンモロコが琵琶湖と内湖、
河川を行き来しやすい環境を維持することが必要だ」と
担当者は指摘している。

尚、西の湖は大中之湖干拓地の造成の際に水域として残
った部分である。流入河川は安土川、山本川、蛇砂川お
よび黒橋川で、長命寺川を介して琵琶湖に注ぐ。干拓前
は周辺の多くの内湖が存在したが、現在ではいずれも姿
を消しているが、その1つとして彦根市は矢倉川河口の
一大産卵場は埋めてにより消滅している。

【エピソード】 

松原磯の本諸子』(2011.12.15)で掲載したように
12月から2月に掛けての子持ち寒ホンモロコの三杯
酢は絶品。七輪で炭焼きし、燗酒で琵琶湖の恵みの宝
を戴ければ至福この上ない。

【脚注及びリンク】
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1.ホンモロコとは? 草津ホンモロコ生産組合
ホンモロコ料理紹介 草津ホンモロコ生産組合
3. 大中湖
4. ホンモロコ、川でも産卵 琵琶湖から遡上
2014.09.02
5. 琵琶湖漁業を支える魚たち > ホンモロコ 滋賀県
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和田山城

2014年09月02日 | 滋賀百城

 

 

 

和田山城は合併によって誕生した東近江市神郷町・五
荘和田町の標高180.1メートルの和田山山頂に位

している。南西山麓の共同墓地には駐車場もあり、登

には大変ありかたい。この墓地よりやや急峻な和田山

西面を登ること約20分ほどで山頂に到着する。
和田山
は愛知川に突出する小独立丘で、南西には叡山
が聳えて
おり、近江守護佐々木六角氏の居城、観音寺城
が構えら
れていた。このため叡山周辺の山々には観音寺
城を防御
するように支城群が配置されていた。叡山の
北東端には
佐生城が、南方には箕作山城や小脇山城、布
施山城、長
光寺城が、西方には円山城などが築かれてい
た。和田山
城もこうした城郭と同じように、観音寺城を
防御する目
的で築かれたものと考えられる。

   
 ←この図をクリック



 その歴史であるが、寛文年間(1661~73)頃に
記された地誌『淡海本間攫』には「古此所二和田氏アリ、
則和田山二居城ス、古城跡アリ、佐々木六角政頼ノ三男
和田和泉守高成神崎郡和田氏ノ元祖ナリ、」とあり六角
氏の一族である和田氏が城主であったと伝えている。和
田山の南側山麓、東近江市五個荘和田の集落内には小字
で「堀ノ内」という地名があり、ここが和田氏の居館で
あったと考えられる。

永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により、和田嘉助・
新助ら六角氏の軍勢は籠城したが、箕作城の落城により、
甲賀に敗走している。

 永禄11年(1568)9月、織田信長の近江侵攻に
対して和田山城は単なる土豪の詰城ではなく、六角氏の
最前線として六角氏の被宮たちが立て龍もって防戦する
こととなった。先の『淡海水間覆』には「馬淵山城守宗
綱・同兵部少輔建綱・同右衛門太夫賢久・同定房・家盛・
松原弥兵衛賢治・木村筑後守重高・宮木右兵衛太夫賢佑・
和田嘉介・同新介等龍城シ専ラ防戦ス」と記されている。
『信長公記』には「愛智川近辺に野陣をかけ
させられ、
信長懸まはし御覧じ、わきわき数ケ所の御敵
へは御手遺
もなく、佐々木父子三人楯龍られ候観音寺並
箕作山へ、
同12日にかけ上させられ、佐久間右衛門・
木下藤吉郎・
丹羽五郎左衛門・浅井新八、仰付けられ、
箕作山の城攻
めさせられ、申剋より夜に入り、攻落し詑。
(略)其夜
は信長みつくり山に御陣を居ゑさせられ、翌日佐々木承
禎が館観音寺山へ攻上らるべき御存分の処に、佐々木父
子三人廃北し、13日に観音寺山乗取り御上り候。」と
あり、信長は近江侵攻にあたって六角方が立て龍もる諸
城には目もくれず観音寺城と箕作山城を攻めている。和
田山城は「数ケ所の御敵」のひとつであったようだ。『
佐久間軍記』では「和田山城ヲハ以美濃三人衆ヲサヘ(
略)観音寺・和田山没落シ」とある。『信長公記』と併
せ読むと、箕作山城への攻撃には信長の馬廻衆があたり、
和田山城へは
美濃三人衆があたったことが知られる。



 城跡は和田山頂上部に位置する比較的小規模な山城で
あるが、遺構はほぼ残されている。その構造は基本的に
は土塁によって囲郭する単郭の山城である。土塁は尾根
稜線の東西に高く築かれている。北端の土塁は12メー
トル四方で、高さ3メートルを測る巨大なもので、櫓台
であった。南端にも同様の土壇状の土塁があり、櫓台で
あったと考えられる。いずれも小規模な山城には不釣合
いな土塁であり、古墳を利用しているようである。これ
らを結ぶように東・百道にも土塁が巡らされており、四
周が土塁囲いとなっている。その規模は東西25メート
ル、南北50メートルに過ぎない。こうした四周を土塁
によって構えられた曲輪内部には、さらに東西の土塁か
ら曲輪内に突出させた土塁がくい違いの仕切り土塁とな
って曲輪内を分割している。



 ところで、和田山城では階段状に削平する曲輪を持た
ず、尾根を切断する堀切も設けられていない。実は観音
寺城を中心とした六角氏の諸城では石垣は発達するもの
の遮断線としての堀切を伴わない特徴が認められる。石
垣については観音寺城や佐生城といった六角氏が直接築
城に関与した山城には採用されるが、和田山城や箕作山
城、大森城、布施山城、雪野山城などの土豪の詰城では
土塁が発達する。
 非常に小規模な山城ではあるが和田山城は六角氏の築
城技術を垣間見ることのできる山城である。


                 

 

【エピソード】

 
 

近くて行けていない城跡ではあるが、ストリートビューが和
田山周辺まで公開されている。激しい時代の移ろいを感じる。
そのうち3次元映像撮影機を装着したキャップをかぶり
エイジェントが散策(トレッキング)し、あるいはドロ
ーン(自動制御無人ヘリ)で撮影した映像が編集公開さ
れるかもしれない。

●先月30日に尾末町の谷口三平さんを表敬訪問。子供
会のお世話中で近況をお伺いしお邪魔させていただきま
した。奥様の気苦労は耐えないとは言え、持病の心配も
見せず周りを明るくさせてくれる陽気なキャラは変わり
なく安心しました。 

  

【脚注及びリンク】
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1.東近江市埋蔵文化財センター - 東近江市能登川博物館
.「正ちゃんの『能登川の遺跡探検(いせきたんけん)』
 ものがたり

3.近江の城郭「和田山城
4.  淡海木間攫、塩野義陳 [編]
5.  新撰 淡海木間攫、サンライズ出版
6. 
近江市城跡巡り 2011年11月4日
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