3つ年上の友人ラン子から、女子会の開催をせっつかれている。
一回り年上の友人ヤエさんと3人で行う女子会は
3年ばかり開催してないからだ。
この3年、ラン子は孫と老親の世話に忙しく
休みになると孫か親の所へ通っていたため
日程が合わず、次第に誘わなくなった。
会ったところで娘自慢に孫自慢、あとは職場の愚痴だけなので
万障繰り合わせて会うほどの価値を見出せないのも理由の一つだ。
しかし彼女の孫たちも中学生になり
お祖母ちゃんのおもりはいらなくなった。
足の手術をした親の方も、ラン子の手伝いを必要としなくなった。
田舎に住む足の悪い老人が本当に欲しいのは
たまに来て作る料理ではなく、病院や買い物の送迎である。
運転免許を持たないラン子ではラチがあかず
他のきょうだいが代わるようになり、彼女は暇になった。
そこで急に女子会を思い出したらしい。
私の方はこの数年、同窓会の用事と同級生の女子会で
手いっぱいだった。
そのため中高年になってから選挙で知り合った
ラン子とヤエさんとの集まりは、つい後回しになっていた。
一大イベントの還暦旅行が終わり、同窓会が解散した今
こっちの集まりを復活させるのもやぶさかではないが
ただ、問題が一つ。
ヤエさんだ。
ヤエさんは確かにヤエさんなんだけど
違う人になっちゃったのだ。
45年の長きに渡り、壮絶な嫁姑関係を続けてきた彼女だが
2年前、その姑さんがとうとう亡くなった。
家族だけの密葬だったので、後日お悔やみに行き
「落ち着いたら、また遊びに出かけましょう」
そう言ったところ、終始ボンヤリした表情のヤエさんは
ゆるゆると首を振るのだった。
「今は家から出たくない‥
おばあちゃんのいなくなったこの家が
いとおしくてたまらないの。
もし集まるんなら、ここで何か作って食べましょうよ」
人一倍しっかりしていたはずのヤエさん
なんだか人が変わってしまって、別人みたい。
家で何か作って食べるんなら、うちに居るのと同じじゃん‥
私はそう思い、ヤエさんの燃え尽き症候群がおさまるまで
そっとしておくことにした。
以後、音信不通のまま年が明け、去年の7月豪雨があった。
豪雨から2日後、ヤエさんから電話が‥。
「んもう!やっと出た!」
開口一番が、この言葉だった。
携帯になかなか出なかったことに苛立っておられるご様子。
こんな人じゃなかった‥そう思ったが
用件を聞いて、とりあえず納得。
ヤエさんの家が被災したのだ。
「お久しぶりね、お元気?」なんて言ってはおられまい。
自力で復旧するつもりなので、お宅の商品を少し分けてもらいたい‥
それがヤエさんの希望だった。
「ほんの少しでいいの‥お金は払うから」
ヤエさんは言ったが、金など取れようか。
義父アツシが死んだ時、彼女が山ほどの弁当を作って
届けてくれた恩を忘れはしない。
我々夫婦は、恩返しのチャンスが来たことを嬉しく思った。
夫はすぐさま現場に駆けつけ、ヤエさん夫婦と話した。
必要量を配達すると言ったら
「自分たちのペースでやりたいから、うちの軽トラで運びたい。
2〜3回通えば大丈夫だと思う」
ということだったので、その意思に従った。
そして一週間が経過した頃、夫がポツリと言うではないか。
「恩返しがまだ済まんみたい‥」
あれ以来、ヤエさん夫婦は日に何度も通い続けているらしい。
ヤエさん宅の復旧はとっくに終わっていると思っていたので
かなり驚いた。
最初は床下浸水した自宅だけ、と思っていても
やっているうちに庭も畑もと、欲が出るのはわかる。
が、「少しでいい」と何度も言っていたので
いまだに続いているとは思ってもみなかったのだ。
夫は商品をタダで差し上げるのを惜しんでいるのではない。
災害が起きた時、業者も個人も必要とする商品は同じだ。
主な陸路を断たれたため、船舶には予約が殺到して
仕入れは困難になっていた。
そこで息子たちに命懸けで山道を走らせ、仕入れのために往復させていた。
いつも言うが、命に関わりそうな時は他人様の社員でなく
自分の子供を行かせるのが我が社の掟である。
大型ダンプは運転席の両側に1本ずつ合計2本
荷台は重いので前の両側に2本ずつ、後ろの両側に2本ずつ
合計8本のタイヤを履いている。
全部で10本のタイヤがあるので
大型ダンプには十輪(じゅうりん)という別名がある。
道幅が狭い悪路の場合、前輪さえ通れば
内輪差や外輪差で後輪の1〜2本が脱輪しても
残りのタイヤが持ちこたえるので
すぐさま崖下に転落することはない。
スリル満点のこの状況が平気か平気でないかが
向き不向きということになる。
うちの子は平気なタイプ。
そしてこれを他人様にやらせるとなると
不満の声が出たり、苦労話を聞いた家族が
不安を感じることだってある。
そこで独身のうちの子、という理由もある。
こうして仕入れた商品は、片っ端から買い手がついた。
そこへヤエさん夫婦が加わり、せっせと持って行く。
いくら軽トラといっても日に5〜6回も来れば
けっこうな量になる。
ゼニカネより仕入れが大変なのだが
サラリーマン出身の彼らにその概念は無いようだ。
「この頃じゃあ通い慣れて、自分の会社みたいに我が物顔よ」
無口な夫が言うんだから、かなり横柄な態度なのだろう。
10日、2週間‥
ヤエさん夫婦の往復は続き、私は気をもみ続けた。
いつも人を思いやり、謙虚で優しくて上品なヤエさんは
いったいどこへ行ってしまったのだろう。
3週間後、ヤエさん夫婦はやっと気が済んだようだ。
最後に来た時、お礼だと言って
大きなカボチャを一つ、持って来たという。
苦心惨憺の3週間を過ごしたあげく
大嫌いなカボチャを手渡された夫の心中は察するに余りある。
夫が持ち帰ったそのカボチャに、私は見覚えがあった。
ヤエさんちの庭先にぶら下がっていたものだ。
オブジェと実用を兼ねて、玄関前の一角に実らせるカボチャだ。
私の知っているヤエさんは
こんな手近な物で済ませる人ではなかった‥。
それでも一応、お礼の電話をする。
「まだ早いから、一週間ぐらい置いてから食べてね」
ヤエさんはそれだけ言うと、電話を切った。
本当に、こんな人じゃなかったのだ。
おばあちゃんが亡くなって、人が変わったとしか思えない。
ヤエさんは自宅の復旧にあたって
「一輪車がどこも売り切れで、困ってるの」
と私に訴えた。
だから会社にある一輪車を貸した。
それもいまだに戻らず、彼女の庭に置いてある。
プロ仕様なので、使いやすかったのだろう。
会社では使わないからいいんだけど
借りた物を返さないような人じゃなかった。
本当に、こんな人じゃなかったのだ。
非常識な山姥みたいなおばあちゃんが生きている頃は
つらい日々の中、幸せを模索して
行き着いた結論が「人に優しく」だったのだと思う。
しかしおばあちゃんがいなくなって、その必要は無くなった。
解き放たれたのだ。
ヤエさんは今、本当の自分を生き直しているのかもしれない。
身勝手で厚かましい、普通のおばちゃんの人生を
やり直しているのかもしれない。
それはきっと、良いことなのだ。
やっぱり、そっとしておくに限る。
というわけで、優しくないヤエさんとわざわざ会う必要性は
現在のところ見出せていない。
何も知らないラン子は待ち焦がれているが
3人の女子会は当分実現できそうもない。
一回り年上の友人ヤエさんと3人で行う女子会は
3年ばかり開催してないからだ。
この3年、ラン子は孫と老親の世話に忙しく
休みになると孫か親の所へ通っていたため
日程が合わず、次第に誘わなくなった。
会ったところで娘自慢に孫自慢、あとは職場の愚痴だけなので
万障繰り合わせて会うほどの価値を見出せないのも理由の一つだ。
しかし彼女の孫たちも中学生になり
お祖母ちゃんのおもりはいらなくなった。
足の手術をした親の方も、ラン子の手伝いを必要としなくなった。
田舎に住む足の悪い老人が本当に欲しいのは
たまに来て作る料理ではなく、病院や買い物の送迎である。
運転免許を持たないラン子ではラチがあかず
他のきょうだいが代わるようになり、彼女は暇になった。
そこで急に女子会を思い出したらしい。
私の方はこの数年、同窓会の用事と同級生の女子会で
手いっぱいだった。
そのため中高年になってから選挙で知り合った
ラン子とヤエさんとの集まりは、つい後回しになっていた。
一大イベントの還暦旅行が終わり、同窓会が解散した今
こっちの集まりを復活させるのもやぶさかではないが
ただ、問題が一つ。
ヤエさんだ。
ヤエさんは確かにヤエさんなんだけど
違う人になっちゃったのだ。
45年の長きに渡り、壮絶な嫁姑関係を続けてきた彼女だが
2年前、その姑さんがとうとう亡くなった。
家族だけの密葬だったので、後日お悔やみに行き
「落ち着いたら、また遊びに出かけましょう」
そう言ったところ、終始ボンヤリした表情のヤエさんは
ゆるゆると首を振るのだった。
「今は家から出たくない‥
おばあちゃんのいなくなったこの家が
いとおしくてたまらないの。
もし集まるんなら、ここで何か作って食べましょうよ」
人一倍しっかりしていたはずのヤエさん
なんだか人が変わってしまって、別人みたい。
家で何か作って食べるんなら、うちに居るのと同じじゃん‥
私はそう思い、ヤエさんの燃え尽き症候群がおさまるまで
そっとしておくことにした。
以後、音信不通のまま年が明け、去年の7月豪雨があった。
豪雨から2日後、ヤエさんから電話が‥。
「んもう!やっと出た!」
開口一番が、この言葉だった。
携帯になかなか出なかったことに苛立っておられるご様子。
こんな人じゃなかった‥そう思ったが
用件を聞いて、とりあえず納得。
ヤエさんの家が被災したのだ。
「お久しぶりね、お元気?」なんて言ってはおられまい。
自力で復旧するつもりなので、お宅の商品を少し分けてもらいたい‥
それがヤエさんの希望だった。
「ほんの少しでいいの‥お金は払うから」
ヤエさんは言ったが、金など取れようか。
義父アツシが死んだ時、彼女が山ほどの弁当を作って
届けてくれた恩を忘れはしない。
我々夫婦は、恩返しのチャンスが来たことを嬉しく思った。
夫はすぐさま現場に駆けつけ、ヤエさん夫婦と話した。
必要量を配達すると言ったら
「自分たちのペースでやりたいから、うちの軽トラで運びたい。
2〜3回通えば大丈夫だと思う」
ということだったので、その意思に従った。
そして一週間が経過した頃、夫がポツリと言うではないか。
「恩返しがまだ済まんみたい‥」
あれ以来、ヤエさん夫婦は日に何度も通い続けているらしい。
ヤエさん宅の復旧はとっくに終わっていると思っていたので
かなり驚いた。
最初は床下浸水した自宅だけ、と思っていても
やっているうちに庭も畑もと、欲が出るのはわかる。
が、「少しでいい」と何度も言っていたので
いまだに続いているとは思ってもみなかったのだ。
夫は商品をタダで差し上げるのを惜しんでいるのではない。
災害が起きた時、業者も個人も必要とする商品は同じだ。
主な陸路を断たれたため、船舶には予約が殺到して
仕入れは困難になっていた。
そこで息子たちに命懸けで山道を走らせ、仕入れのために往復させていた。
いつも言うが、命に関わりそうな時は他人様の社員でなく
自分の子供を行かせるのが我が社の掟である。
大型ダンプは運転席の両側に1本ずつ合計2本
荷台は重いので前の両側に2本ずつ、後ろの両側に2本ずつ
合計8本のタイヤを履いている。
全部で10本のタイヤがあるので
大型ダンプには十輪(じゅうりん)という別名がある。
道幅が狭い悪路の場合、前輪さえ通れば
内輪差や外輪差で後輪の1〜2本が脱輪しても
残りのタイヤが持ちこたえるので
すぐさま崖下に転落することはない。
スリル満点のこの状況が平気か平気でないかが
向き不向きということになる。
うちの子は平気なタイプ。
そしてこれを他人様にやらせるとなると
不満の声が出たり、苦労話を聞いた家族が
不安を感じることだってある。
そこで独身のうちの子、という理由もある。
こうして仕入れた商品は、片っ端から買い手がついた。
そこへヤエさん夫婦が加わり、せっせと持って行く。
いくら軽トラといっても日に5〜6回も来れば
けっこうな量になる。
ゼニカネより仕入れが大変なのだが
サラリーマン出身の彼らにその概念は無いようだ。
「この頃じゃあ通い慣れて、自分の会社みたいに我が物顔よ」
無口な夫が言うんだから、かなり横柄な態度なのだろう。
10日、2週間‥
ヤエさん夫婦の往復は続き、私は気をもみ続けた。
いつも人を思いやり、謙虚で優しくて上品なヤエさんは
いったいどこへ行ってしまったのだろう。
3週間後、ヤエさん夫婦はやっと気が済んだようだ。
最後に来た時、お礼だと言って
大きなカボチャを一つ、持って来たという。
苦心惨憺の3週間を過ごしたあげく
大嫌いなカボチャを手渡された夫の心中は察するに余りある。
夫が持ち帰ったそのカボチャに、私は見覚えがあった。
ヤエさんちの庭先にぶら下がっていたものだ。
オブジェと実用を兼ねて、玄関前の一角に実らせるカボチャだ。
私の知っているヤエさんは
こんな手近な物で済ませる人ではなかった‥。
それでも一応、お礼の電話をする。
「まだ早いから、一週間ぐらい置いてから食べてね」
ヤエさんはそれだけ言うと、電話を切った。
本当に、こんな人じゃなかったのだ。
おばあちゃんが亡くなって、人が変わったとしか思えない。
ヤエさんは自宅の復旧にあたって
「一輪車がどこも売り切れで、困ってるの」
と私に訴えた。
だから会社にある一輪車を貸した。
それもいまだに戻らず、彼女の庭に置いてある。
プロ仕様なので、使いやすかったのだろう。
会社では使わないからいいんだけど
借りた物を返さないような人じゃなかった。
本当に、こんな人じゃなかったのだ。
非常識な山姥みたいなおばあちゃんが生きている頃は
つらい日々の中、幸せを模索して
行き着いた結論が「人に優しく」だったのだと思う。
しかしおばあちゃんがいなくなって、その必要は無くなった。
解き放たれたのだ。
ヤエさんは今、本当の自分を生き直しているのかもしれない。
身勝手で厚かましい、普通のおばちゃんの人生を
やり直しているのかもしれない。
それはきっと、良いことなのだ。
やっぱり、そっとしておくに限る。
というわけで、優しくないヤエさんとわざわざ会う必要性は
現在のところ見出せていない。
何も知らないラン子は待ち焦がれているが
3人の女子会は当分実現できそうもない。