いつだったか、わが町にある公共施設の玄関ホールにも街ピアノが置かれた。
寄付してくれる人があったそうで、古いグランドピアノだ。
私はこの施設を月に一、二度のペースで、用事や待ち合わせに利用する。
そこでいつも見かけるのは、街ピアノを弾きに来る一人の女性。
年の頃は七十代半ば、メガネをかけた白髪頭の小柄な人だ。
毎日ではないらしいが、日曜日の午後に行くと必ずいる。
1時に行った時には、彼女も楽譜を抱えてやって来て
2時に行ったら宴たけなわ、3時になると帰るところを見ると
午後1時から3時までの2時間が、彼女にとっての演奏会らしい。
ただし長時間、大音量で弾き続けるため、非常にうるさい。
以前にも記事で触れたが、子供の頃、先生に付いてピアノを始めた人と
大人になってから独学で始めた人には決定的な違いがある。
子供の頃に始めた人はヒジ、手首、指のそれぞれにパワーを分散させて柔らかく弾くが
大人になってから始めた人は指を鍛えてないので、肩から振り下ろすように弾きやすい。
するとタッチがきつくなり、音の強弱のコントロールが難しくなるため
どうしても大音量になってしまう。
譜面が読めるのだから音楽の素地はあるようだが
ピアノが独学とジャッジしたのはこの点からだ。
独学がいけないわけではない。
日々の練習を積み重ね、上達するのは素晴らしいことで
実際に、とても上手い人がたくさんいる。
が、中にはピアノの常識を叩き込まれてないのが災いして
マイクを持ったら離さないカラオケ好きと同じく
ひとたびピアノを弾き始めたら聞いて欲しいばっかりで
周りが見えない彼女みたいな人もいるのだろう。
ピアノの常識とは、音が消せない楽器なので時と場所を選ぶ必要があることや
人前で弾く時は自分の弾きたい曲でなく
弾いても許される邪魔にならない曲を選ぶ分別などである。
その昔、“ピアノ◯人”と呼ばれた事件が起きた。
団地で子供がピアノを弾くため、隣の部屋の男性が騒音に怒って
一家を皆◯しにしたという凄惨な事件だ。
そういうことがあったので、自分の出す音に気をつけるのはもちろん
常に客観的な耳を持つようにと、我々子供は厳しく言われてきた背景がある。
そして独学で上達した人は、たいていラウドペダルがお好き。
ピアノの足元には三つ、金色のペダルがあるが、その一番右側のペダルだ。
それを踏むとピアノの音にエコーがかかり、より大きく響く仕組みになっている。
風呂で歌を歌うようなものだ。
彼女はこのペダルを、やたら踏み続ける。
車のアクセルと同じ扱い。
ただでさえ大音量なのに、ペダルを踏みまくって響かせるもんだから
その騒音たるや頭がガンガンするレベル。
それでも、聞いて楽しめる曲なら我慢もする。
しかし実力はソナチネ…つまり中レベルの練習曲が主体なので
聞いていてちっとも面白くない。
そして、どれもことごとく暗い曲だ。
そう、彼女の弾く全ての曲は、オール短調。
暗く悲しげなメロディーを大音量で長時間聴くと、怖いぞ。
「練習は家でして来いよ…」
彼女が騒音を発するたび、私は密かにつぶやきながら立ち去っていた。
聞くのが辛ければ帰れる、行きずりの私は幸運だ。
しかし気の毒なのは時折、その玄関ホールでイベントをしたり
ワークショップに参加する人たち。
説明の声が聞こえないので「はあ?」、「もう一回」などと身振りを交えて聞き直している。
やがてレパートリーが尽きると、誰でも知っているあの曲を繰り返し弾き始める。
チャルメラ。
彼女はこれをフラットで弾く。
フラットとは、半音下がる黒い鍵盤を使うこと。
半音下げると短調…つまり物悲しいメロディーに変わってしまい
悲しきチャルメラが延々と響き渡るのだった。
このチャルメラがフィナーレらしく、心ゆくまでリピートすると
楽譜を片付けて悠々と立ち去る。
時計は3時、演奏会はようやく終了だ。
拍手?あるもんかい。
ホールに居た人たちは、それを合図に会話を始める。
その人々の表情に、耐え抜いた!という達成感が感じられるのは錯覚だろうか。
誰でも弾いていい街ピアノ。
けれども弾いていいのは、せいぜい一曲か二曲。
できれば親しみのある曲や美しいメロディをセレクトし
惜しまれるうちに去るのがエチケットだ。
それを知らないのは独学の弊害か、あるいは老害なのか。
私は怒りと憐憫を込めて、彼女のことを「短調の人」と呼ぶのだった。
しかし最近、この短調の人が気になり始めた。
回を重ねるごとに、なんだか衣装に凝ってきたからだ。
場違いなドレスを着込んだりではなく、変装に近い。
硬い弾き方や短調の曲の大音響、2時間の長丁場は変わらないが
着る物だけをセルフプロデュースし始めた様子なのである。
最初の頃はごく地味な普段着で、お婆ちゃんも頑張っています…
そんな印象だったのが、見るたびにだんだん手が込んでいく。
鮮やかな色柄ものを着るようになり、キャップにジーンズで若々しさを装ったり
若い娘さんが着るようなフワッとしたワンピースだったり。
こういうの、今どきはイタいと呼ぶのだろうけど、明らかに演出が感じられるのだ。
直近のファッションは、圧巻だった。
華やかな花柄のスカーフで、頭をすっぽり包み込んでいる。
スカーフの布地が黒であれば、イスラム教の女性みたいな格好だ。
そのスカーフを首の所で一旦締めて肩に広げているので、てるてる坊主みたいになっとる。
衣装はモスグリーンのトレンチコート、そして同じくモスグリーンのブーツ。
つまるところ、てるてる坊主の兵士。
いやいや、本人のイメージでは、昔の洋画に出てくるヒロインかも。
ソフィア・ローレンとかさ。
あんまり面白かったので、次はどんな格好で現れるか楽しみになってくるというもの。
演奏を聞くのは辛いけど、衣装の演出をぜひとも見たいではないか。
次にあの施設に行くのは、来年の1月半ばになる。
待ち遠しい。
寄付してくれる人があったそうで、古いグランドピアノだ。
私はこの施設を月に一、二度のペースで、用事や待ち合わせに利用する。
そこでいつも見かけるのは、街ピアノを弾きに来る一人の女性。
年の頃は七十代半ば、メガネをかけた白髪頭の小柄な人だ。
毎日ではないらしいが、日曜日の午後に行くと必ずいる。
1時に行った時には、彼女も楽譜を抱えてやって来て
2時に行ったら宴たけなわ、3時になると帰るところを見ると
午後1時から3時までの2時間が、彼女にとっての演奏会らしい。
ただし長時間、大音量で弾き続けるため、非常にうるさい。
以前にも記事で触れたが、子供の頃、先生に付いてピアノを始めた人と
大人になってから独学で始めた人には決定的な違いがある。
子供の頃に始めた人はヒジ、手首、指のそれぞれにパワーを分散させて柔らかく弾くが
大人になってから始めた人は指を鍛えてないので、肩から振り下ろすように弾きやすい。
するとタッチがきつくなり、音の強弱のコントロールが難しくなるため
どうしても大音量になってしまう。
譜面が読めるのだから音楽の素地はあるようだが
ピアノが独学とジャッジしたのはこの点からだ。
独学がいけないわけではない。
日々の練習を積み重ね、上達するのは素晴らしいことで
実際に、とても上手い人がたくさんいる。
が、中にはピアノの常識を叩き込まれてないのが災いして
マイクを持ったら離さないカラオケ好きと同じく
ひとたびピアノを弾き始めたら聞いて欲しいばっかりで
周りが見えない彼女みたいな人もいるのだろう。
ピアノの常識とは、音が消せない楽器なので時と場所を選ぶ必要があることや
人前で弾く時は自分の弾きたい曲でなく
弾いても許される邪魔にならない曲を選ぶ分別などである。
その昔、“ピアノ◯人”と呼ばれた事件が起きた。
団地で子供がピアノを弾くため、隣の部屋の男性が騒音に怒って
一家を皆◯しにしたという凄惨な事件だ。
そういうことがあったので、自分の出す音に気をつけるのはもちろん
常に客観的な耳を持つようにと、我々子供は厳しく言われてきた背景がある。
そして独学で上達した人は、たいていラウドペダルがお好き。
ピアノの足元には三つ、金色のペダルがあるが、その一番右側のペダルだ。
それを踏むとピアノの音にエコーがかかり、より大きく響く仕組みになっている。
風呂で歌を歌うようなものだ。
彼女はこのペダルを、やたら踏み続ける。
車のアクセルと同じ扱い。
ただでさえ大音量なのに、ペダルを踏みまくって響かせるもんだから
その騒音たるや頭がガンガンするレベル。
それでも、聞いて楽しめる曲なら我慢もする。
しかし実力はソナチネ…つまり中レベルの練習曲が主体なので
聞いていてちっとも面白くない。
そして、どれもことごとく暗い曲だ。
そう、彼女の弾く全ての曲は、オール短調。
暗く悲しげなメロディーを大音量で長時間聴くと、怖いぞ。
「練習は家でして来いよ…」
彼女が騒音を発するたび、私は密かにつぶやきながら立ち去っていた。
聞くのが辛ければ帰れる、行きずりの私は幸運だ。
しかし気の毒なのは時折、その玄関ホールでイベントをしたり
ワークショップに参加する人たち。
説明の声が聞こえないので「はあ?」、「もう一回」などと身振りを交えて聞き直している。
やがてレパートリーが尽きると、誰でも知っているあの曲を繰り返し弾き始める。
チャルメラ。
彼女はこれをフラットで弾く。
フラットとは、半音下がる黒い鍵盤を使うこと。
半音下げると短調…つまり物悲しいメロディーに変わってしまい
悲しきチャルメラが延々と響き渡るのだった。
このチャルメラがフィナーレらしく、心ゆくまでリピートすると
楽譜を片付けて悠々と立ち去る。
時計は3時、演奏会はようやく終了だ。
拍手?あるもんかい。
ホールに居た人たちは、それを合図に会話を始める。
その人々の表情に、耐え抜いた!という達成感が感じられるのは錯覚だろうか。
誰でも弾いていい街ピアノ。
けれども弾いていいのは、せいぜい一曲か二曲。
できれば親しみのある曲や美しいメロディをセレクトし
惜しまれるうちに去るのがエチケットだ。
それを知らないのは独学の弊害か、あるいは老害なのか。
私は怒りと憐憫を込めて、彼女のことを「短調の人」と呼ぶのだった。
しかし最近、この短調の人が気になり始めた。
回を重ねるごとに、なんだか衣装に凝ってきたからだ。
場違いなドレスを着込んだりではなく、変装に近い。
硬い弾き方や短調の曲の大音響、2時間の長丁場は変わらないが
着る物だけをセルフプロデュースし始めた様子なのである。
最初の頃はごく地味な普段着で、お婆ちゃんも頑張っています…
そんな印象だったのが、見るたびにだんだん手が込んでいく。
鮮やかな色柄ものを着るようになり、キャップにジーンズで若々しさを装ったり
若い娘さんが着るようなフワッとしたワンピースだったり。
こういうの、今どきはイタいと呼ぶのだろうけど、明らかに演出が感じられるのだ。
直近のファッションは、圧巻だった。
華やかな花柄のスカーフで、頭をすっぽり包み込んでいる。
スカーフの布地が黒であれば、イスラム教の女性みたいな格好だ。
そのスカーフを首の所で一旦締めて肩に広げているので、てるてる坊主みたいになっとる。
衣装はモスグリーンのトレンチコート、そして同じくモスグリーンのブーツ。
つまるところ、てるてる坊主の兵士。
いやいや、本人のイメージでは、昔の洋画に出てくるヒロインかも。
ソフィア・ローレンとかさ。
あんまり面白かったので、次はどんな格好で現れるか楽しみになってくるというもの。
演奏を聞くのは辛いけど、衣装の演出をぜひとも見たいではないか。
次にあの施設に行くのは、来年の1月半ばになる。
待ち遠しい。