『入院』
母の担当医は、先ほど相談員が私から聞き取った内容の報告書を
別室で確認しているらしい。
母と私と相談員は、診察室でそれが終わるのを待っているのだ。
しばらくすると
「初めまして!院長のMです!」
担当医の院長先生が、颯爽と診察室へ入ってきた。
年齢は50才前後か…イケメン&長身だ。
ニッコリ母に笑いかけると、白い歯がキラリ…
七三に分けたヘアスタイルと相まって、昭和の映画スターみたい。
ヨッシャ〜!
私は心の中で、ガッツポーズ。
イケメンで長身の男性医師は、サチコの大好物だ。
担当医に、ファン心理や恋に似た感情を持つ老女は多い。
老いや病気の不安から、医師を信頼してすがりたい気持ちは
誰でもあるので、それは異質なことではない。
そのすがりたい人が美男子であれば言うこと無し…
老女あるあるだ。
母も例外ではない。
例外でないどころか、男性医師が大好き。
だから地元の内科医、A先生を慕っていた。
A先生はイケメンではないものの、とにかく優しいのがお気に入り。
心を病んでからは恋する乙女そのもので、毎日のように通っていた。
一方、昨年末に心臓の精密検査を受けた際の医師は
若い女性だった。
母は「あんな小娘…」と言って気に入らなかった。
今朝まで入院していた心療内科の先生も女医さんなので
母は受診し始めた当初から不満タラタラだった。
入院を勧められて最初は渋ったのも
自分より年下の女性が言うことを
素直に一回で聞くのがシャクだったからである。
しかし今回は違う。
M先生はイケメン&長身に加え、愛想が良くて優しそう。
母の理想を全て満たしているではないか。
隣の母を見たら、目がハートになっとる。
こりゃ、一目惚れだね。
「お家が立ち退きになるんだって?」
M先生は高身長を折りたたむようにしゃがみ
母をのぞきこんで心配そうに問う。
そうさ…さっきの相談員の聞き取りで
立ち退きが迫っていることを話しておいた。
次男の別れた妻で、元精神科の介護士アリサの入れ知恵である。
「立ち退きのことは、ぜひ話しておくべきです。
住む家が無くなるなんて、あんまり無いケースだから
医療関係者の興味を引くはずなので、入院や入所には有利だと思います」
話は飛ぶが、実家は道路の拡張工事に伴い
数年後には立ち退く予定である。
コロナで工事は中断されていたが、今年から再開された。
少しずつ実家の方へ近づいて
母の寿命と工事の到達、どっちが早いかというところ。
しかし問題は、家と庭の全てが立ち退きの対象ではないこと。
全部取られるのなら、立ち退き料がたんまり出ようから
代替え地に新築すればいいけど、うちは前半分だけだ。
残った後ろ半分に家を建てようにも広さが中途半端だし
母も90を超えて家を新築する気力は無く
年齢的にも、建てた家であと何年暮らせるのやら。
心中は穏やかでなかった。
けれども地元生まれ地元育ちの母には
同級生のネットワークがある。
仲のいい同級生が、自分の母親を引き取るために建てた
小さな家を借りる手はずになった。
引き取った母親がすぐに亡くなったので、家は新しいままだ。
しかも母の実家と至近距離。
実家愛の強い母にとって、これ以上の好条件は無く
月5万で借りる下話も済んでいた。
が、残念なことに3年前
家を貸してくれるはずの友だちが亡くなってしまった。
認知症のご主人は存命だが、もう家を借りる話などできはしない。
絶好の移転先を失い
「この年で、どこへ行けというの?」
と、コーラスほどではないが、悩んでいたので
「うちの近所に洒落たアパートか建ったけん。
そこを借りてあげるけん、引っ越しんさい」
母にそう言ったのが、この春先。
いい加減な気持ちで言ったのではない。
実家へ通うより、すぐ近所の方が私も楽だと考えた。
母はそれですっかり安心したのだが、問題は立ち退く時に
うまくアパートが空いているかどうか。
今は満杯である。
話を戻すが、M先生が真っ先に立ち退きの件を口にしたところをみると
アリサの言った通り、興味を引いたらしい。
しかし目がハートになっている母は
うちの近所へ引っ越す話に落ち着いているのもあり
「はい…でも私はあんまり気にしておりませんのよ」
と気取って答えた。
「そうですか!それなら安心しました。
お家が立ち退きになるなんて、大変なことですからね。
コーラスの方はどうですか?長く続けてこられたんでしょ?」
コーラスと聞いて、食いつく母。
歌が好きなこと、楽しかったこと
だけどしんどくなったことなどを次々と話す。
立ち退きの次はコーラス…M先生のリサーチは完璧だ。
母のツボを押さえて話をさせ
警戒心を解いて心を開かせるのがうまい。
さすがプロ。
「しんどくなったのか〜…
潮時だったんだね。
潮時って、あるよね。
コーラスもだけど、お料理もお洗濯もお掃除も、潮時じゃない?
サチコさん、ここらでちょっと休みましょうよ。
もうしんどいこと、み〜んなやめちゃいましょうよ。
入院して、楽しいことだけして
元気になってもらいたいな〜って、僕は思うんだけど
しばらくここに居てもらえますか?」
うまい…こう言われたら、イエスと言うしかあるまい。
「先生がその方がいいとおっしゃるなら、そうします」
M先生を見つめてうなづく、乙女サチコ。
「本当?良かった!
イベントもよくあるし、お友だちもできるから
慣れると楽しいですよ。
ねえ、Nさん、皆さんそうだよねえ」
M先生は相談員に相槌を求め、相談員もニコニコしてうなづく。
「ええ、それはもう楽しく過ごしていらっしゃいますよ」
入院と言われたら抵抗すると思っていたが
M先生が美男子だったことは、天の助けとしか言いようがない。
こりゃあ、何でも言うことを聞きそうだ。
もしも彼が、母の嫌いな低身長のブスオだったら
こうはいくまいよ。
《続く》