A先生の紹介で、心療内科を受診することになった母。
そこはうちから車で5分と近いが
先日、母を救急で連れて行っただけの、ほぼ知らない病院だ。
私が子供だった昔は、市内唯一の救急病院として名を馳せていたが
歴史の古い病院にありがちな、車社会への対応ができないまま
増築を繰り返して現在に至っている。
到達するには車の離合が難しい坂道を登らなければならず
駐車場も狭いため、私にとっては避けたい場所。
だから、心療内科ができていることも知らなかった。
この前、母を連れて行った時は時間外だったので閑散としていたが
今回、明るい時に行ってみると、なかなか賑やかだ。
母が救急で受診した循環器内科から外科まで数種類の科があり
心療内科もその一つになっている。
「待合室で知り合いに会っても、何の病気で来とるかわからんけん
お母さんにはいいと思うよ」
A先生が言っていたのを思い出して、なるほど…と思った。
心療内科の先生は40代ぐらいか…あっさりして明るい女医さんだった。
A先生から詳細な連絡が行っているようで
母に少し聞き取りをした後、ここでもやはり先生が気にしたのは
夜中に電話で私を呼ぶ行為。
時間や回数、その時の母の様子を詳しくたずねられた。
そして診断はすぐに出た。
“不安神経症”という病名だ。
若い人であれば、パニック障害と言うらしいが
老人の場合は不安神経症なんだそう。
「私は精神病なんですね…」
うなだれる母。
しかし先生、そこは心療のプロ。
「精神病じゃありませんよ。
不安神経症という症状が出ているだけです。
お薬で治りますからね、大丈夫ですよ」
老人が聞き取りやすいように、ゆっくりと大きな声でなだめるのだった。
それから認知症テストを、先生自らしてくれた。
動物や花なんかのイラストが4つか5つ描いてある絵本を見せて
覚えるように言い、今度は10から20までの数を逆から言わせて
さっきの絵本に何の絵があったかをたずねる。
母、全滅。
さらに鉛筆や腕時計などの実物を並べた小ぶりなケースを見せた後
少し別の話をしてから、さっきのケースに何が入っていたかを聞く。
これは一つクリアして、得意そうだった。
「短期記憶が、ちょっと来てますね。
お年寄りがさっきのことをすぐ忘れる、よくあるやつです。
ほら、脳の写真を見ても、前頭葉の萎縮が始まっていますから
物忘れは仕方がないですね。
年相応なので、気にしなくて大丈夫ですよ」
という話だった。
認知症で施設入りの道のりは、遠そうだ。
薬は2種類、出た。
様子を見ながらなので、ごく軽い薬だそう。
朝、昼、夕、それぞれ食後に飲む錠剤と
夜中に不安になったら飲む精神安定剤の錠剤。
どっちも直径5ミリぐらいの小さい粒だ。
「せっかく行ったのに、注射も点滴も無いなんて!」
残念がる母を連れて帰ったが、その夜から呼び出しがパッタリ無くなった。
そして翌朝、晴れやかな声で電話がある。
「あんた、朝までよう寝られたわ!
あの女医さん、やっぱり本職じゃねえ!」
こんな明るい声は久しぶりに聞く。
以後、電話は依然として日中に複数回あるが
母の要請で実家へ行くのは2〜3日に一度でよくなった。
不安時に1錠飲む精神安定剤に依存して、ガンガン飲んでいる様子だが
ようやく訪れた小康状態…
「飲み過ぎじゃないのか」、「3時間は空けるように言われたじゃん」
などと言って生真面目に制限する気は起きなかった。
ただ、このまま飲み続けると蓄積して行って
時期は個人差があるのでわからないものの
一気にツケが回ってガクッと来るかもしれない…という話は聞いていた。
次男の別れた嫁アリサが、元は精神科の介護士で
母が心療内科の薬を飲み始めた頃に教えてくれたのだ。
それから彼女はもう一つ、貴重な話をしてくれた。
「お年寄りに手がかかるようになると、みんな施設を考えるけど
順番待ちでなかなか入れないでしょう。
だけど認知症と強い不安感はセットになっていることが多いから
精神病院でも扱えます。
聞こえが良くないので、お年寄りも家族も精神病院を避けたがる分
病室は割と空いていて、施設より入りやすいんです。
病棟の出入り口と病室に鍵をかける鉄則はありますけど
それ以外の待遇は施設と同じなので、ある日ガクッと来ることがあったら
施設だけじゃなくて精神科の入院も考えるといいですよ」
医師や看護師が聞いたら怒るかもしれない、際どい内容だが
それを聞いて、ものすごく楽になったものだ。
似た内容の話は同級生のけいちゃんから聞いていたので
万一の時の裏技として心に留めていた。
彼女の認知症のお母さんが、精神病院に入っていたからだ。
しかし実際に精神病院で働いていた…
しかも当時は身内だった人物から直接聞くと、現実的でわかりやすい。
今となっては、アリサはこれを伝えるために
うちへ嫁に来たのではないかとまで思ってしまう。
精神病院の介護士はストレスが多かったようで
彼女は二度と介護の仕事をやりたくないと言っていた。
そのストレスが残り続けて散財癖に繋がり
離婚に至ったのかもしれない。
有り金を使い果たされた次男は気の毒だったが
私にとっては万金に値する情報だった。
アリサは結婚直前に一度、母に会ったことがある。
その時に母の表情や体格を見て、感じるものがあったらしい。
例のごとく、当日になって急に連れて行けと言い出した母の要請で
お寺の行事に行った時、私と母を送迎してくれたのだ。
今日は車検で車が無いと言っても通用しない、それが母である。
「どうして?どうして〜?」
行くまで電話攻撃は終わらない。
私という無料のタクシーに味をしめているので
町内のお寺でも自力で行く気はさらさら無い。
ちょうどうちへ来ていたアリサが見兼ねて、快く車を出してくれた。
「ヨシキのお祖母ちゃんです、よろしくお願いしますね」
母は気取って微笑み、迎えに来たアリサに挨拶した。
が、翌月結婚した彼女夫婦に、祝いは無かった。
それが母である。
結局離婚したし、全然いいんだけどね。
《続く》