『電話問題』
精神病院の規則で携帯電話を取り上げられ、泣く母。
電話魔の彼女は病室に落ち着いたら、娘や姪を始め
あちこちに電話をかけまくろうとウズウズしていたはずだ。
自分の物なのに自由に使えない…
こだわりの強い母の性格上、これは耐え難い苦痛である。
しかも日頃から、「私の命綱」と公言している携帯だ。
「早くお迎えが来て欲しい」とボヤきながら命綱を必要とする矛盾はさておき
母はゲーム機を取り上げられた子供のように、返せと泣くしかないのだった。
そういえば昨日、入院した病院でも携帯を取り上げられていた。
だから電話を求めてナースセンターへ何度も行き
転院の原因になったと思われる。
「こんなひどいことをされるんなら、入院するんじゃなかった!」
母はオイオイと泣き続ける。
しかし携帯を取り上げられたのは、私にとってありがたい措置。
電話魔に持たせて自由にかけまくられたら
こっちは夜も昼もあったもんじゃない。
しかもかけてくる内容は「帰りたい」、「迎えに来て」
そういう無茶な用件に決まっている。
こっちが言うことを聞くまで、永遠にかけ続けるはずだ。
それだけではない。
私が必死で母の世話をしてきたのは
母の魔手が、妹のマーヤ一家にまで及ばないようにするためだ。
母は必ず、妹一家をメチャクチャにしてしまう。
それは我が子であっても同じ…
いや我が子だからこそ、遠慮の無い暴言を浴びせるのは
母のことでマーヤと連絡を取り合うようになってから知った。
マーヤの携帯、自宅の電話、繋がらない時は両方の留守電にかけまくり
自分の世話をしない、心が冷たいと責めたり
「◯にそう」などと言うので、家族も怯えているという。
「マーヤは忙しいけん、遠慮でようかけん」
母は私によく言っていたが、実は鬼電だったらしい。
こんなことが続いたら、間違いなく心身をやられる。
妹が可愛いとか守りたいとか、そんな生やさしい感情ではない。
マーヤだけの問題ではく、母の携帯には姪の祥子ちゃん
そしてこの春から山口県の娘の家に引っ越した、一つ下の妹
さらに地元の知り合いや、コーラス、編物、俳句など
趣味のお仲間の電話番号が入っている。
携帯を持たせたら電話番号がわかってしまうので
災禍が広がるのは火を見るより明らかではないか。
身内は仕方がないが、罪も無い無関係の人々には気の毒過ぎる。
だから泣いている母に背を向け、私は相談員に小声で言った。
「私が今日、母の携帯を持って帰るわけにいきませんか?」
しかし相談員の答えは、常識的なものだった。
「患者様ご自身の希望であればできますが、そうでなければ無理なんです。
ご家族や病院への信頼がなくなると
治療がうまく行かない場合がありますのでね」
つまり本人の意思で持ち込んだ物は
本人の承諾が無ければ渡せないということだ。
承諾するわけ、無いわな。
「じゃあ、携帯を返さないようにしてもらえませんか?
この人、電話魔なんで、返されたらあちこち電話をかけて
迷惑をかけると思うんですけど」
なおも食い下がる私。
「それは医師が判断するので、私たちには何とも…」
ああそうですか。
どうやら携帯を返す許可が出ないように、祈るしかなさそうだ。
「それに…携帯が無くても、電話をかけたくなったら
ナースステーションの公衆電話から、かけられるんです」
相談員は申し訳なさそうに言った。
「公衆電話は介護士が管理しているので
介護士から10円玉をもらって、かけていただくんです。
通話料金は入院費と合わせて、翌月の請求に加算されます」
ガ〜ン!
母は私の所へ電話をかけ過ぎて、電話番号を覚えている。
よって私は、逃げられないということだ。
たとえ忘れたとしても、私の携帯と家の電話番号を書いた紙を
入院の荷物のあちこちにしのばせている。
それを出してもらえば番号がわかるので、諦めるしか無さそう。
やがて母が落ち着いたので、私は帰った。
落ち着いたというよりも
認知症で、さっき泣いていた記憶が消えたらしい。
家に着いたら夕方だった。
疲れより、今度こそ毎日実家に行かなくていい喜びの方が
大きかった。
しかし翌日、それは甘い考えだったと知る。
このところ出ずっぱりだったので
ゆっくりしていた午後、携帯が鳴った。
相手の表示は公衆電話…母に違いない。
「入院して3日間は、鍵のかかる個室に入ってもらって
様子を見させていただくことになりますので
ご了承ください」
相談員が言っていたので、厳重に警戒されていると思い込んでいた。
だから少なくとも3日は静かだと勝手に思っていたけど
はかない夢だった。
電話に出ると、怒り狂った母の声だ。
「あんた!ナンボ私が憎い言うても
こんなキ◯◯イ病院へ入れることないじゃろ?!」
たいていの人間は、ここで衝撃を受けてひるむ。
インパクトの強い言葉を投げつけて相手を沈黙させ
その後は罵詈雑言の毒を吐き続ける…母の常套手段である。
しかし母に対して百戦錬磨の私、その手は食わん。
間髪入れず、静かに反撃じゃ。
「あんた、言葉に気をつけな。
周りの人に聞こえたら失礼じゃが」
反撃に遭うと別の話題にすり替えるのも、母の常套手段。
「何の治療もしてくれんのよ?!閉じ込められとるだけよ?!
こんなんで、良うなるわけないが!
食べるもんだって、ナッパばっかりよ!」
だから私も話題をすり替える。
「二枚目の院長先生には会えたんかい?」
「来やせんわ!騙されたんよ!」
「昨日、入院したばっかりじゃん。
そのうち会えるよ」
「私を騙してキ◯◯イの中へ放り込んだ男なんか、知らんわ!」
「ヒャハハ!」
大笑いする私。
母との会話は、ポンポンとリズミカルに続けるのがコツだ。
え?そんなコツ、知りたくないって?sorry!
「笑いごとじゃないわいねっ!
こんなキ◯◯イばっかりの所、嫌よ!」
と…急に“ピン…”という音がして電話が切れた。
許された電話の時間が終わったのか、10円玉が終わったのか
問題発言が多いので、側で管理する介護士が
意図的に強制終了させたのかは不明。
やれやれ、終わって良かったと思ったら、またかかってきた。
再び問題発言を繰り返していて、またピン…と切れ
またもう一度かかって、今度は
「明日、面会に来て」
と言ってから母が自分でガチャリと切り、その日はそれきりだった。
やっぱりピン…は意図的で
公衆電話の使用は1日3回までと決まっているのかも。
それはどうでもいいが、翌日から毎日
電話で面会を要求されては病院へ通う日々が始まった。
せっかく入院したというのに、これじゃあ今までと変わらんじゃないか。
《続く》