公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

アジアの人びとはフィギュアにおける日本人の快挙を特別な思いを持って見ている

2018-02-17 18:16:35 | 日本人
ちょっと前までフィギュアスケートは白人のスポーツだったことは、もう日本人は忘れかけているが、かつてフィギュアスケートの一流はヨーロッパおよびロシアだった。バレエの文化背景が評点システムに残されている。体操も同じだったがスポーツとしての技の評点の重みが増す歴史があってヨーロッパとロシアの優位性は客観評価によって置き換えられてスポーツらしくなって変貌した。フィギュアスケートだけは別の世界だった。しかしここまで変えてきたのは日本人選手の長年の努力が実ったもので、一挙に個人が単独でいきなりゼロから金メダルと銀メダル表彰台なったものではない。それは戦って勝ち取ってきた、実力を認めさせた結果だ。手足の短いアジア人がフィギュアスケートで見映えがするはずがない。そういう偏見に満ちた世界を変えてきた歴代の選手コーチ達の努力を無視して、『羽生結弦がすごいのであって日本人がすごいのではない』と言い張っている評論TV芸者(TVで見かけなくなりましたが)もまた日本人失格だ。もちろん白人が敵ということではない。少しは日本人がアジアの白人支配に屈従する世界を真っ先に変えたことを思い出してみたらどうなんだ。そしてそんな戦いなどすぐ忘れてあげたら良い。日本人よりもアジアの人々が日本人の若者たちの快挙を素直に喜んでいる。



あた@のお@かしい人々の共通点は、評論にあたり歴史を無視する、原理と理屈を信念の衣を着て振りかざす、言論の自由は信念の衣を脱がす事ができない自分を守る盾として安全地帯が保証されることを利用しながら、その信念が理想として全体主義を目指していることに無自覚である。結果、天に向かって唾を吐く。結果、言論の自由を失う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天宮通過中 | トップ | ドイツ銀行の宗旨替え »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。