政談は泰平元禄の次の困難だった時代に荻生徂徠が吉宗に進言したものだが、典型的な都市化の弊害を経験した江戸時代は治安困難な時節を迎えていた。特に元禄地震以降宝永の一連の天変地異に江戸社会は大いに揺さぶりを受けていた。浮浪の流入 商売の地方浸透による銭胎蔵と銭流通不足。物価は高騰するが米価は崩壊に向かう危険な社会を救ったのは銭の力である。
この時代の失敗の原因
①米以外の課税ベースの発見を怠ったということ。
②流通貨幣を急速に減らしたということ(新井白石正徳改革デフレ)
③江戸の無駄遣い、無駄奉公が過ぎて地方を疲弊させることが自己目的になっていたこと。
④軍事組織としての幕府が政治から独立してなかったこと。
などが挙げられる。
現代に喩えれば高度成長の後の都市化とバブル崩壊と311が同時にやってきたようなもの。現代政治でも税収だけで持ち堪えることは困難だった。それで無くても幕府は荻生徂徠のいう江戸の旅宿システムが大き過ぎて毎年資産を1万両切り崩していた。
したがって八代将軍の頃に、
幕府は倹約と産業振興輸入品の国産化を奨励するしか策がなかった。仮にここで両替の悪癖金銀品位使いを廃止していれば、公的債券による経済補填が出来る社会になっていただろう。しかし世は徳政を警戒した学習効果で幕府貸し付けをしたがらない。結局は金量を約44%低下させる小判吹替えで、幕府には出目を確保する通貨供給増と、強制的資産召し上げしか幕府には手段が残らなかった。
これにより得たものもあったが幕末の運命は商工層の背信によって急速に幕府の締め付けが緩むことになった。今日のように債券が信用流通されるまでには政府信任には担保が無く、既存の権威価値基軸によっては債券流通は進まなかった。当たり前のことだけど幕府には年貢米収入以外の打解するべき幕府所領開発権を担保とするという田沼意次の知恵がなかった。田沼意次の頃には幕府財政は完全に収支バランスを失っている。このことが遠隔にあった薩摩や長州に独自の贋金藩札経済圏を許すことになる。
①-④の失敗は現在にも当てはまる。
隠れた課税ベースは医療 宗教 政治にある。
補助金は受けた側に控除率を低減させる。ある種のシーリング罰則を与える。無駄な公務員の議員大臣答弁対策、これを費用化して国会議員に請求する。