一日一トライ~”その記憶の記録”

陶芸を主に、自分の趣味や興味関心事、日々のNewsや出来事などを記憶のあるうちに記録しています。

Ⓢ-8.ラス・パルマス総領事館で生け花 in SPEIN

2024-01-21 09:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 昭和の時代の4/29は、天皇誕生日で祝日(=現在;昭和の日)のことです。
 この日、ラス・パルマス総領事館では、定例の行事として昭和天皇の誕生を祝し、内外の招待客を招いてセレモニー及びパーティーを催していました
。私はこの行事に関わり、総領事館から依頼され、領事館公邸各所に装飾用の生け花を生けることになりました。



 ❶風景を描いた水彩画風の長身の壺に盛花


 これまでは、スペインの花屋さんに生けてもらっていたという。「好きなように生けてください!」といわれましたが、日本風の生け花を期待しているはずです。どの場所に、どのくらいの大きさで、どのような花材を使うか。また、どんな花器があるのかなど、領事館と打ち合わせをしたり、自分なりに構想を練り、準備してきました。そして、家内に手伝ってもらいながら、前日の午後から作業開始です。



 ❷根付二重切に生花


 領事館公邸内部は、全体的にモクで装飾され落ち着いた感じです。天井もあまり高くなく、壁面は随所にあります。お花2点は、大きな金屏風の前に生けることになりました。その結果、 ❶風景を描いた水彩画風の長身の壺に盛花、❶竹製の根付二重切に生花、❸口の締まった黄色い壺に盛花を生けました。❸はメインの花で、ここは玄関ホールの広い空間であり、昭和天皇夫妻の写真を飾ってあります。さらに、小型の花瓶に5点小品花を生けました。



 ❸スペイン製の口の締まった壺に盛花


 私たちも招待されていましたので、当日は早めに行き、生けた花のチェックをしました。水上がりもよく、特に問題ありませんでした。日本では、このような場でお花を生けたり、政府機関の催し物に参加することはマレなことです。異国の地で貴重な体験ができ、いい思い出話が一つ増えました。

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Ⓢ-7.スペインのカウントダウン、年末年始はー

2023-12-30 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 スペインの年越しは、クリスマスと同様に家族が集まり食事をします。通常、伝統的にエビ、羊肉、鶏料理を含むディナーで始まります。日本では、年越しそばを食べる習慣がありますがー。



 カウントダウンは、マドリードのプエルタ・デ・ソル広場(「太陽の門」の意)に面して建つ旧王立郵便局の時計台で行われます。この様子はテレビで生中継されるので、各家庭ではそれを見ながら時計の鐘がなるごと1つずつブドウを食べます。12個のブドウを食べることができたら、新年に幸運が訪れると言われています。そして、鐘が12回打ち終わると、新年の挨拶を交わしてカバ(スペイン・カタルーニャを中心に醸造)などのスパークリングワイン、シャンパン(フランス・シャンパーニュ地方で醸造)などで乾杯します。



各都市では花火が上がって新年を祝います(自宅13Fから)


 ブドウを食べ乾杯した後は、多くの若者はパブやクラブに出かけます。パーティは通常翌朝まで続き、地元のバー(=バール)でのささやかな祝祭から、ホテルの大広間に何千もの客が集まる大規模パーティまで様々です。


 旧王立郵便局の時計台 


右に見えるのが「旧王立郵便局の時計台」


左奥;時計台、手前:「熊とマドロニョ(キイチゴ)」

 この年越しにブドウを食べる慣習は、1909年、アリカンテのブドウ生産者がその年の大量の生産余剰を削減する方法として考えたことが起源とのこと。現在は、ほとんどのスペイン人がこの慣習に従っているようです。我が家も”郷に入りては郷に従え”と、スペイン人友人から聞き毎年やっていました。





プエルタ・デ・ソル広場~右の円形の建物はメトロの駅
(From;イベリア半島一人旅)


 一方、更に時代をさかのぼると、1880年ごろスペインの上流階級ではフランスの習慣を真似てブドウとシャンパン=シャンパーニュで年末年始を祝うようになっていました。 これをマドリードの一般階級の人々が真似て、プエルタ・デル・ソルで大晦日に時計台の鐘の音を聞きながらブドウを食べ始めたのが始まりともいわれています。
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Ⓢ-6.Xmasプレゼントは;”東方の三博士”が1/6にに!~in SPAIN

2023-12-25 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 今日は12/25=Xmasの日。子供たちは、待ちに待ったXmasプレゼントを手にし、うれしい朝を迎えたことと思います。日本の場合、「Xmasプレゼントはサンタクロースが12/24の日にー」ということになっていますが、カトリック教徒の多いスペインの家庭では、「東方の三博士」が1/6にーだと考えられています。日本人にとっては馴染みのない話ですがー。



 日本は25日が終われば”正月商戦”に切り替わりますが、スペインでは街のXmasスムードは変わりません。各家庭でも、このXmasの雰囲気を継続したまま年越しのカウントダウンのため再び家族が集まり、翌日の元旦を再び家族で過ごします。そして、Xmas最終日の1/6の「東方の三博士の礼拝」の日を迎えます。日本のXmasプレゼントは子供が対象ですが、スペインでは家族間でプレゼントを贈り合う習慣があるため、6日を間近に控えた年末年始は街はXmasプレゼントを買い求める人で賑わいます。



東方の三博士とは】この三博士のことは新約聖書に登場し、彼らは占星術師でキリストが生まれたときに「ユダヤ人の王が生まれた」という星の知らせを受けてラクダに乗って旅を始め、星に導かれて1月6日にキリストがいるベツレヘムに到着したとされています。このときに博士たちが見た星を「ベツレヘムの星」🌟とも呼ばれています。彼らは、乳香、没薬、黄金を贈り物として持参したということで、このエピソードがもととなり、子供たちにXmasプレゼントを持ってくるのはこの3人の博士ということになっているようです。



 なお、1月6日の前夜には、「三博士たちがプレゼントを配るために街にやってきた」という演出をするためにスペイン全国至る所でこの三博士たちのパレードが行われます。どこの国もお祭り騒ぎは大好きですね。

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Ⓢ-5.スペイン陶器(2/2)~飾り絵皿

2023-11-03 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 「スペインの飾り絵皿」は、日本へのお土産品としてラス・パルマスで買ったものです。産地はいろいろですが、いずれもmade  inスペイン。帰国の時は、郵便物として郵送しましたが無事着きました。



 ①スペインの飾り絵皿     高3.7、径19.5


  ②スペインの飾り絵皿     高3.7、径28.3 
 

 ③スペインの飾り絵皿     高3.7、径28.3


 ④スペインの飾り絵皿     高3.5、径28.5


 ⑤スペインの飾り絵皿     高3.8、径30.5


  ⑥スペインの飾り絵皿 高4.0、径30.0×31.5 (やや縦長)


制作方法は、➀はロクロ、②~⑥は石膏型の原型をもとに制作した絵皿です。絵付けの方法は、マヨルカタイル技法=水彩技法です。なお、絵付け後、1000~1250℃の温度で焼成していると思われます。

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Ⓢ-4.スペイン陶器(1/2)~碗物

2022-08-11 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 ラス・パルマス在住中に買ったmade in スペインの陶器の碗物です。「茶道に使えるかな」とか、陶芸で「こんなデザインは参考になるかな」、との視点で買ったもので、価格もお土産程度のものばかりです。





 ①スペイン陶器の碗物           高5.8、径14.2




 ②スペイン陶器 の碗物            高5.5、径13.7




 ③スペイン陶器の碗物           高6.2、径19.9




 ④スペイン陶器の碗物          高6.3、径13.2




⑤スペイン陶器の碗物   高6.2、径13.6


 茶道では、室町〜江戸時代初期には中国からの「唐物」、東南アジアからの「南蛮物」、朝鮮半島からの「高麗物」、ペルシャからの「ペルシャ物」といった具合に、海外から渡来した物を茶道具として使い、定着した物が沢山あります。元々、茶の湯の道具ではない輸入品を茶道具に取り上げて使うことを、「見立て」と。昔の茶人の見立て力というか、目利き力!にいつも敬服します。

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Ⓢ‐3.先住民;グワンチェ族とカナリア諸島の歴史

2022-08-10 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

 カナリア諸島には、15Cにスペイン人によって征服される以前より、グワンチェと呼ばれる先住民がいました。グワンチェ族のルーツは、北アフリカ人のベルベル人に最も近似した遺伝子をもっているとのこと(2017年判明)です。彼らは、紀元前1000年頃以降にカナリア諸島へ移住してきたものと考えられています。

  彼らの文化は、アフリカ白人、特に、モーリタニア王国のメウ・タ・エル・アルビ族の文化に類似しており、これは新石器時代のものによく表れています。 

 


 グワンチェの生活様式
❶ 住居~山腹の洞穴生活で、両側に石を積みヤシの葉などを屋根にのせた家。
❷ 衣類~山羊の皮を身に付け、布を作ることは知らなかった。
❸ 主食~トウモロコシ、大麦、ミルク、魚介類、肉、蜜など。
❹ 道具~玄武岩、黒曜石、骨を用いた物。ランサ(投げやり)
❺ 社会構造~各部族長の下に、豪士、平民、下僕の3階級。
❻ 埋葬~死者を敬い、死体をミイラにして保存。


 ラス・パルマスの建設は、1478年、カスティーリャ(=スペイン)の船長フアン・レホンがグラン・カナリア島の征服をはじめたときに遡ります。グアンチェ族との戦いは5年間続き、1483年にグラン・カナリア島はスペイン王国に統合されました。ここにも、スペインの海洋時代の”征服の歴史”を垣間見ることができます。その後マチは発展を続け、島の政治・行政の中心地となりました。その後、フランスやイギリスから攻撃されましたが、いずれもスペイン軍が撃退した歴史もありました。

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Ⓢ‐2.カナリア諸島と「カナリア海流」

2022-08-09 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

Q:北緯28度で、最高気温が27℃より上がらないのか
と疑問に思った人もいるかも知れません。
👇
A:北からやってくる海流=カナリア海流のため

 メキシコ湾で温められた海水は、偏西風などの影響でヨーロッパ大陸に向かいます。その海流がポルトガル・スぺイン付近の大陸にぶつかり、北と南に向かう海流に分かれます。南に向かう「カナリア海流」は、アフリカ海岸を南下します。この海流は、北上中すでに冷やされて海水温は下がっています。海水は、太陽いっぱいの緯度の低いところに進んでも、そう簡単に上昇しません。そして、この海流は北からの涼しい風を一緒に運んできます。カナリア諸島は、緯度の低い割に気温が低いのはこのためです。



 ちなみに、同緯度の奄美大島は、南からやってくる暖流(黒潮)の影響を受けているため、湿度が高く、雨も多く、暑い期間が長く続きます。また、高緯度の北欧諸国が北海道より温暖な気候で、しかも不凍港であることは、このメキシコ湾海流(暖流、偏西風)の影響です。


                              コロンブスが乗った「サンタマリア号」


          ラス・パルマスの旧市街にあるコロンブスの家

 帆船時代、コロンブスが新大陸を発見するとき、この
カナリア海流にのり、ラス・パルマスに立ち寄り物資を調達し、船員たちの休息の地となりました。市内にコロンブスが滞在した建物「コロンブスの家」(現在;博物館)があります。コロンブスは、ここから更に南下し「北赤道海流」にのり、新大陸!と思ったカリブ海のある島に着きました。その地を新大陸か!とー。そして帰りは、メキシコ湾流にのり北上し、ヨーロッパに向かったことになります。

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Ⓢ-1.スペインのラス・パルマス市とはどんなトコ? 

2022-08-08 07:00:00 | Ⓢ-スペインでの3年間

カテゴリー;「Ⓢ-スペインでの3年間」のはじめにかって、家族でスペインのカナリア諸島のグランカナリア島にあるラス・パルマス市に3年間住んでいました。昔々の話になりますが、自分や家族の思い出の記録として本カテゴリーを設定しました。_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_//_/_/_//_//_/_/_/

 地理的には、スペイン本土からズーット南の約1,000km、アフリカ大陸から115kmのところに位置し、地政学的にはアフリカ大陸の一部です。ここに大小7つの島があり、その一つのグラン・カナリア島にラス・パルマス市があります。人口は383,050人(2013年調べ)ですので、旭川の人口より少し多く、ルース港という港を中心に発展したマチのため密集し、規模的にも大きな感じです。

 このラス・パルマスは、「ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア」(正式名)といい、ラス・パルマス県の県都です。アフリカ大陸、とりわけにモロッコに隣接していることと、スペイン領のイメージから、「アラブ人やアフリカ人も多く住んでいるのですか?」と、尋ねられることがあります。この7島は、ほぼスペイン人で、スペイン語を話し、スペイン社会の一部で、日本で例えれば、地理的にも緯度的にも沖縄諸島の那覇市(人口:約32万人)と類似しています。


左;サンタ・クルス・テネリーフェ県(4島)、右;ラス・パルマス県(3島)

 ホタテ貝の形をしたグラン・カナリア島は、海岸線の長さは約236㎞で、広さは大阪府ぐらいといいますが、小さい島といっても移動には車が必需品です。道路も整備され、飛行場(グラン・カナリア空港)まで高速道路があります。ビーチをはじめとする観光資源に恵まれ、宿泊施設、レストラン、商業施設、スポーツやレジャー施設の充実したリゾートアイランドです。現在は、市内より南のマス・パロマス地区には大リゾート地帯があります。主に北欧の人たちの避寒地(年間;800万人)として、冬期間賑わいます。



 
 数世紀の間、ラス・パルマスは経済の重要な中心地でもあり、サトウキビの取引とヨーロッパやアメリカへの農産物の輸出に支えられていました。景気のよい時代、何度も海賊に襲われ、襲撃は18Cまで続きました。
19Cには「自由港」が設立され、経済への大きな刺激となりました。この特別な経済制度によってカナリア諸島の経済関係は発展し、港に来航する船の数が際立って増えました。

気 候 当市は、北緯28°(奄美大島と同緯度)で、亜熱帯とステップ気候の特徴があり、夏はほとんど雨が降らなく、冬少し降るといった地中海性気候の降水パターンです。上の気温でもわかりますように、最高気温が27℃より上がらず、最低気温が16℃より下がらずで、人間が生活するには絶好なコンディションの地です。植物も、年中ハイビスカスやブーゲンビリアが咲き、リゾートとしてはイイ条件で、”大西洋のハワイ”、”ヨーロッパのハワイ”と呼ばれています。

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