昨日の『Tango Libre Nuevo』にお越しいただいた、
多くの皆さま、ありがとうございました!
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今から、もう十五年前。
村上ユミ子さんのタンゴリブレの譜面が送られてきて、
ステージで演奏した時、「これはユミ子さんの最高傑作だ!」と
当時のバンドのメンバーは心が躍ったものでした。
それまで、大型のバンドを維持して、
それはそれは大きなエネルギーを使っているのを見ていました。
しかし、様々な理由から、継続的に運営して行くのは立ちいかなくなっていました。
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僕は「ユミ子さんが信頼する、ユミ子さんを尊敬するミュージシャンと
もっと少数のコアな活動をするべきだ」といつも言っていました。
一方、当時のパートナー、グスタボ=グレゴリオ(b)はアルゼンチン人で、
ホルヘ=クンボ(ケーナ)やミゲールーカンティーロ(ヴォーカル)
セザール=オルギン(バンドネオン)など、アルゼンチンの超一流の
音楽家を次々日本の呼んでいて、僕も大きな衝撃を受け、
それまで、ジャズ=フュージョン一辺倒だった僕は、
自分史の中に大きな断層とも呼べる経験を多くしたのです。
ユミ子さんも同じだったと思います。
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そういう経緯の中で、彼女が組んだタンゴリブレは、
ドラム、ベース、彼女のピアノ、シンセ奏者、
ギター、バイオリン。
そして、ゲストにセザール=オルギン(バンドネオン)という
コアなバンドでした。
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しかし、日本の活動に限界を感じヨーロッパに活動を移したい
グスタボと、日本をあくまで拠点にしたいユミ子さんの意見は、
日に日にミゾを作り、グスタボはスペインに去っていきました。
ほぼ同時に、彼女はリューマチを発症し体調を崩し、
それでも、だましだまし音楽活動を続けていました。
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しばらく会わなかった日々があり、
ある日突然、連絡があり
「ユミ子さんが危篤だ」と連絡があったのです。
ギターの清野さんと二人駆けつけた時は、
もうほとんど意識のない状態でした。
二人で代わる代わるギターを弾き、
その中で、ユミ子さんの心電図がまっすぐの線になるのを
僕たちは目撃しました。
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ユミ子さんが亡くなり、グスタボもいなくなった中で、
アルゼンチンの音楽をする機会も理由すらも、
急になくなってしまったのです。
続く。
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