以前、この三線と同じ型の三線を最終組み立ての作業中、ある男性が、以前にオープンしていた店舗へ入ってきて、しばらく店内を見た後、突然、私に「その三線はおいくらでか」と質問、私は、「15万円です」と回答。 まあ、買わないだろうなと思っていたら、「それを売ってください」とびっくりのお言葉。 私「いえ、まだ完成していませんが・・・」と答えると、「先に代金をお支払するので、完成したら送ってください」と言って、即金でその場でお支払していきました。
その方曰く、「その棹のその部分の模様が気にいったので買いたいと思いました」と棹のチラ部分に残る、シラタ模様を見て決断したとのことでした。
あとから知ったことですが、結構有名な美術品収集家でした。
そういう視点で、三線を買う方もいるんだなと思い、感嘆した思い出があります。
樹齢100年以上の黒木でないと製作できない棹です。
棹:カミゲン 江戸与那型
塗り:透明色スンチ
胴体:本皮強化張り
木枠は特殊胴の開鐘チーガ
カラクイ:黒檀製24カット型
ティーガ:竜刺繍
※ソフトケース付(セミハードには収納できませんでしたので変更)
沖縄県指定有形文化財としての江戸与那三線について
名工 与那城が考案した型。
江戸上りの際に使節が携行したことが名称の由来です。
予備の弦を巻くために糸蔵が他の型より長めなのが特徴です。
沖縄県立博物館のものは19世紀中ごろ島津家に献上された名品の一つといわれています。
1939年東京で発見され沖縄に帰郷しました。
沖縄戦の際にハワイに持ち去られてしまいましたが1953年沖縄に返還されました。
棹は太めです。
全長は800.1mm
野面が糸蔵の端まで一直線です。
範穴はやや下方に開けられています。
糸蔵は長く、50mmあり鳩胸(75.8mm)も大きめです。
この型は、小与那城型、江戸与那型、佐久川の与那型、鴨口与那型の四つに分かれます。
江戸与那の心の側面には大小三つの穴(3分、2.5分、2.2分)があけてあります。
江戸上り
琉球は薩摩の支配下に入って後、幕藩体制下、将軍の代替わりには慶賀使、琉球国王の代替わりには 謝恩使を江戸へ派遣することが義務づけられていました。
唐風の行列は目を引き、薩摩にとっては〈異国〉を従えていることを天下に誇示する機会でもありました。
江戸城内では将軍の前で楽などが奏されました。
薩摩入りの時、捕虜として薩摩に連れて行かれた尚寧王から明治維新の慶賀使まで、計21回(うち2回は慶賀使・謝恩使を同時派遣)上ったとされています。
江戸与那三線は首里の王様が江戸上りをする際に路次楽に用いられたことからこの名前がつけられたとされています。
琉球「江戸上り」絵巻
また、この三線に使用している胴体木枠は特殊胴の開鐘チーガです。
開鐘チーガとは、盛嶋開鐘三線の胴体に使用されている特殊胴のこと。
盛島開鐘三線↓
三線 盛嶋開鐘(ムリシマケージョー)のお話
むかし むかし
琉球王国時代、首里王府の別邸だった御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)で
名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作った三線を集めて弾き比べをした。
大抵の物は夜が更けるにつれ音色が悪くなっていったが、その一方で
暁を告げる開静鐘(ケージョーガニ)の音が響きわたる時間になっても、ますます美しい音を奏でた三線が五挺残った。
この五挺は真壁作の優秀なものとし、『五開鐘』と呼ばれるようになった。
特に盛嶋開鐘は城(グスク)開鐘ともに五開鐘の筆頭として戦前まで(※)中城御殿が所有していて門外不出であった。
※中城御殿(なかぐすくうどぅん)は、琉球王国の王世子(中城王子)の邸宅のこと。
時は流れ・・・
昭和20年(1945年)4月の米軍の沖縄上陸の際に中城御殿は屋敷の西隅に頑強な壕を掘って、
王冠、おもろさうしなどの宝物とともに格護して首里を離れた。
戦が終わり、帰ってみると壕は焼けてはいなかったが、中の物はすべて持ち去られた状態で何ひとつ残っていなかった。
戦後ほどなくして米国から「おもろさうし」が返還されたので、
この名器二挺も必ず米国に渡ったものと確信していると尚家に詳しい真栄平房敬さんは語っていた。
ところが・・・・、
昭和57年(1982年)宮里春行さんに北谷(ちゃたん)の住人から
『私の持っている三線は盛嶋開鐘だが金に困っているので買い手を紹介してくれないか』と連絡があった。
夢にまで見た行方不明の開鐘ではと半信半疑で手にしてみると心が震えるほどの作りと品位であり
「盛嶋開鐘」と芯に書かれた朱書きの書体の格調高さといい紛れもなく本物と確信した。
本物であるとの確信のため所有者はウン千万円は欲しいという。
それでも宮里さんは買い手がいると思ったが持ち前の義侠心が顔を出した。
『この三線は本来は中城御殿のものであり、あなたはこれまで単に預っているだけのことで
本来なら中城御 殿に返されるべきものである。』
『この三線がウン千万円の値段がする場合は、公然と白日の下で売買される時であり、
この三線は今のところ潜っている状態で公然と売買される状態にはない。』
『そこでどうだろう、あなたが戦後30年間預っていたことにして
年10万円をその管理料として、300万円を受け取ることにしたらどうか。
その費用は本来の所有者である尚裕さんにお願いし、
尚さんから沖縄県の財産として県立博物館に寄贈させたほうがいいのではないか。』
『もし、貴方が駄目だと言っても私がこのことを知ったからには、あくまでも公表する』
と大岡裁判よろしく説得した。
その理非を弁えた情熱にほだされ相手もしぶしぶ折れてそのような運びとなった。
何よりも狂喜したのは三線愛好家である。
これまで目にしていた開鐘は最高のものではなく、二番手、三番手の三線であり
最高の盛嶋開鐘は戦災にあったとして諦めていたのが忽然と出現したのである。
彼らはまるで戦場から生き返って来た息子に会ったようにためつすがめつ展示された盛嶋に見入った。
憂いは完全に去った。
なお、盛嶋開鐘は昭和57年(1982年)11月10日尚裕氏から県立博物館に寄贈されている。
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参考文献
「沖縄の三線」沖縄県教育委員会1992年(4ページ下段参照)
「琉球三線の名器一覧表」
県指定有形文化財の開鐘
盛嶋開鐘 附胴(ムリシマケージョー つけたりどう)
翁長開鐘(ヲゥナガケージョー)
志多伯開鐘(シタファクケージョー)
湧川開鐘(ワクガーケージョー)
富盛開鐘 附胴(トゥムイケージョー つけたりどう)
※( )内のカタカナは首里言葉。
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琉球放送創立65周年特別番組 琉球歴史ドラマ「尚円王」presented by au沖縄セルラー
琉球歴史ドラマ「尚円王」(全3話)
第1話:尚泰久王の崩御~尚徳王との確執
第2話:国相・程茂の妬み~金丸・かりそめの隠居
第3話:クーデター前夜~物呉ゆしどぅ我御主・尚円王の誕生
放送日
第1話:令和2年 2月12日(水)よる8時~
第2話:令和2年 2月19日(水)よる8時~
第3話:令和2年 2月26日(水)よる8時~
尚円王あらすじ
15世紀、佐敷の地方按司だった尚巴志により琉球は統一され繁栄の兆しを見せた。
しかし、後を継いだ王たちは次々に亡くなり、王の座を巡り内乱が起こる、度重なる争いにより琉球は疲弊していた。
その時代の中、尚巴志の末の息子尚泰久が王の座につくことになる。
その尚泰久に見出され、農民の出でありながら異例の出世を遂げた男がいた。
男の名は金丸。持ち前の機転で琉球王府を支えていた。
だが、尚泰久もまた若くして病に倒れることになる。
新しい王となった尚泰久の息子尚徳は喜界島への遠征を言い出す。
しかし、喜界島を攻めれば、大和(日本)と戦争になるかもしれない。
財政が厳しいことなどを理由に反対する金丸。
だが国相である華人程茂の陰謀により、喜界島遠征は決定、戦費の用意をしなければいけなくなる。
金丸は考えの違いから、かつての盟友賢雄とも距離が離れていく
琉球を守る為に金丸はどうするのか!?
相関図
おもな登場人物
- 主題歌 BUMBA 「Sono Asa No Mukou」
- 題字 豊平 美奈子