THE MAKING (258)三線(沖縄三味線)ができるまで
今回は、人工皮の三線ですが、下記のようなセットの内容で17,800円(送料込み)となります。ご注文は下記URLからお願いいたします。
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セットのイメージです。(三線は2番目以降の画像のものとなります。)
さらに購入者への粗品プレゼントです。
オリンピック開催の年なので、
1964年に開催された東京オリンピックを記念して発行された、琉球切手をサービスいたします。
当時の沖縄は、日本政府ではなく、アメリカ統治下の中の「琉球政府」でした。
にもかかわらず、東京オリンピック聖火リレーは沖縄からスタートだったのです。
それは何故だったのでしょう?
沖縄でスタートとなり、発行された不思議な聖火リレーの切手、お部屋の片隅にでもどうでしょう。
エピソード
聖火リレー 1964年 沖縄
1964年8月21日、ギリシャ国王臨席の下、オリンピアの遺跡で採火されたオリンピックの聖火は、当初、9月6日に日航機シティ・オブ・トーキョーで香港から那覇に到着する予定でした。
ところが当日、香港は台風に見舞われ、聖火を運ぶべく待機していたシティ・オブ・トーキョー機は補助翼が破損。救援のため、東京から急派された代替機も出発時にはエンジンの不調で離陸できなくなってしまいました。
結局、このときはさらに後続の日航機を手配して聖火を那覇まで運んだものの、那覇への聖火の到着は1日おくれて9月7日になり、当時の琉球郵政が予定していた「オリンピック聖火リレー」の記念切手発行も、一日延期されています。
このように、那覇への聖火到着は1日遅れましたが、組織委員会は沖縄島内での聖火リレーの一部を分火で済ませ(こうした“内地”の措置に対して、当然のことながら、沖縄内では不満の声も根強かったようです)、日本本土のリレー出発地である鹿児島・宮崎・千歳(北海道)には当初の予定通り、9日に聖火を到着させました。
備考
聖火ルート
ギリシャから日本までは、イスタンブール(トルコ)→ ベイルート(レバノン)→ テヘラン(イラン)→ ラホール(パキスタン)→ ニューデリー(インド)→ ラングーン(ビルマ)→ バンコク(タイ)→ クアラルンプール(マレーシア)→ マニラ(フィリピン)→ ホンコン(ホンコン)→ 台北(チャイニーズ・タイペイ)と、11の中継地を経て、9月7日に沖縄に到着しました。
国内聖火リレーは、当時アメリカによる占領下にあった沖縄でしたが、沖縄が日本体育協会に加盟していたことから、聖火リレー特別委員会により、国内聖火リレーは沖縄から開始されることが決定していました。その第1走者は宮城勇氏が務めました。
9月9日、午前6時58分に沖縄を出発した“聖火号”(全日空)は、大観衆が見守る中、鹿児島に寄港後、宮崎を経由し千歳(北海道)に向かいました。
この鹿児島、宮崎、千歳が聖火リレーの3起点となりました。
聖火リレー第一走者 宮城勇さん (当時22歳)
■全身で感じた、日本人の誇り
1964年6月12日。宮城勇さんは、新聞の大きな見出しに書かれた自分の名前を見つけた。
「聖火リレー第一走者に内定」といった内容、顔写真も掲載されていた。
その日から、取材が殺到した。沖縄だけでなく、本土や海外からも。「人生の一大事が勃発したという感じでした」と宮城さんは振り返る。
終戦から19年、沖縄はまだ米国統治下に置かれていた。自動車は右側通行でドルが使われていた。隣の鹿児島県へ船で行くにもパスポートが必要だった。
日の丸の掲揚は、祝祭日を除いては禁じられていた。それゆえに、沖縄の沿道に日の丸がたなびく聖火リレーは、沖縄の人々が待ちに待っていた出来事だったのだ。
「1年に1回、正月だけは遠慮がちに日の丸を揚げる人もいましたが、わが家では揚げたことはなかったですね。沖縄では日の丸を揚げないことが普通でしたから」
/Totyo2020NHK情報サイト
さて、話はこの聖火リレーを記念して発行された琉球切手に移りたいと思います。
1964年9月7日発行
発行数 200万枚
1964年の沖縄の人口 927,000人
切手のデザイン 安谷屋 正義
計画では9月6日に聖火が香港から那覇に到着する予定だったが、台風で延着し、発行日は7日になった。その後、聖火は沖縄本島を一周し、11日に熊本に向かった。郵券課に予託された初日カバーの一部には、6日の特日の他に、「聖火延着のため発行日/6日を7日に訂正す。」の訂正印と7日の特印の捨印を押したものがある。(下の画像)
いかがでしたでしょうか?
まあまあ面白かったのではないでしょうか?