奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

徳山の四季 (7月の風景) 0701

2020-07-01 06:01:57 | 奥揖斐の歴史など
徳山の四季(7月の風景)No118
2020年7月1日(水)

7月の徳山の写真は少ない、今回は不動の滝のみ紹介します

 門入の村を奥に外れた所、本流(西谷川)から右に分かれて、入谷(にゅうだに)という谷がある。その谷を上がって再び右に分かれているのが大(おお)入谷、そこから左にとって上がって、また右に分かれている谷を中の谷と呼ぶが、この不動谷はその分岐点から左に更に上がったところにある。
 不動の滝はこれに一の滝、二の滝、三の滝と間をおいて三つかかり、本滝は最奥である。
 昔、福井の猟師が、この滝付近まで来て熊を獲り、日暮れになって野宿した。翌朝福井に発とうとして熊を肩に一歩踏み出したところ急に腹痛がしてきて歩けない。ところが歩けないのでその場にとどまるとその腹痛はひき、再び歩こうとすると激しく腹が痛む。不審に思って辺りをを見回すと、目前の滝に、朝日に輝く金色の不動尊が拝された。そして彼はこのことを伝えに急遽、最寄りの門入の村民のもとへと走ったといわれる。
 尚、この滝は、殊に雨乞いに利益をもたらすと伝えられ、これの祭祀に仕える者も、門入村内、山口佐助他数件の家の世襲とされていて、祈祷の折には、般若心経一巻があげられる。(美濃徳山の地名p258より)


 縄文時代から獲物を求めて、沢を登り尾根を通ったとある。揖斐川町鶴見にある藤橋城内の「東西文化の接点 徳山の縄文時代から」


 北陸系文化(2方向)、関東信州系文化、東海系文化、関西文化とあるが、徳山文化は北陸系文化主と思われます(徳山村史を読むと福井方面からお坊さんが来ているから)


 谷を遡り、魚止め(魚はここまでしかいかない)の滝(高さ約3m)、清め滝(ここで体を清めて、不動尊にお参りに行った:高さ約3m)の2滝を上って不動滝に出る


 不動の滝(2006年7月30日撮影)


 清め滝?を降りる(〃)、このころは沢靴と作業着、作業ヘルメット、軍手で沢登っていた


 新しいカメラで再度撮影(2016年9月4日)、その後、お地蔵様(不動尊?)が滝の右側にあると聞き、写真で拡大して探したがわからず、今年は不動尊を探しに行きたい

☆ 今日の反省など
 福井の人が不動の滝まで熊を獲りにきた。どの道を使って来たのだろう
・徳山村史p768では門入から入谷、高倉(こうくら)峠を越えて越前南条郡との往来があったように思われる、とある。不動山・千回沢山間から北へタンド谷を下り赤谷経由で高倉峠に出たのか
・ 美濃徳山の地名p253には、街道(かいどう)=昔の人たちは尾根道を行き来した街道で塩道でもあった、とある。三周ヶ岳から夜叉ヶ池の方に下りて福井方面に行ったのか、私には想像できない
 街道=根洞(こんどう)谷と金ヶ丸(かねがまる)谷の間の尾根の標高998mの南付近の呼称
・それにしても昔の猟師は、鉄砲・食料などと熊を肩に担いで沢、尾根を歩き福井に帰る。獲物を担ぐ助手はいたでしょうが、今の人では福井までは真似できない
・知人の櫨原出身のSさん、若いころその助手をしていたそうで、下りは熊を転がしていたそう。熊が可哀そうというと、死んでいる(ので可哀そうではない)、と答えられた
・旧徳山村内には、他に徳山馬坂峠、開田(3つ)、上開田、櫨原にも不動滝がある(藤橋・徳之山の風土資産絵地図:雨乞い不動七滝より)

☆ 1/2.5万地図は[広野(岐阜10-4)]ほかを参照してください

☆ 涼しそうな写真を3枚

 右から尖った十勝岳、美瑛岳、美瑛富士、オプタテシケ岳、下って雲に隠れたトムラウシ(2015年7月8日 北海道中富良野町富田ファームから東方向に大雪山系南部を撮影、大雪山系東にあるニペソツ山頂から見る大雪山系も素晴らしいです)


 トムラウシ山南の雪渓(スプーンカット)2013年7月12日


 木曽川鵜飼いの鵜に鵜匠からのご褒美 2017年7月6日
コメント
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