1月も半ばを過ぎ、お正月気分もすっかりなくなった20日、郵便受けに年賀はがきが届きました。え?文面を見ると印刷の文面の余白に
「妻、Tが令和2年逝去いたしました」とのハガキでした。
びっくりしました。Tさんは、私が社会人になって勤めた初めての受け持ちの生徒さんの一人です。体調が今一つ整わず、年賀状もきちんと整理していませんでした。申し訳ないのですがTさんから来ていないことにも気が付かないでいました。初めての担任の生徒さんですから、多分5・6歳しか年は違わず、それでも当然年下の方です。お悔やみも申上げないでいたのだと悔んだことでした。
勤務した女子高校はいわゆるすべり止めの私立の高校でした。こう申しては失礼なことですが、キリの方の生徒が多い高校でした。中でTさんはどうして県立に行かなかったのかなと思う成績のいい子でした。受け持っているうちにだんだん解ってきたのですが、なにか家庭の事情で、四国の自分の家を出て、H市の親せきの家に預けられてそこから通しているのだということでした。
高校3年間はその状態を続けて、卒業と同時に四国の実家に帰るとのことでした。
「先生、四国に帰る前に、一度先生のお宅に遊びに行っていいですか」とのこと。二つ返事で承諾しました。母も歓迎すると茶菓子など用意して待ってくれました。
待てど暮らせど来ないのです。変だなあ、変だなあ、と待っていましたがとうとう夜になっても来なかったのです。今のように携帯はありません。それどころかわが家には電話もありませんでした。
翌日出勤しました。学校で待っていた報せが昨日わが家に来る途中で交通事故にあったという報せした。世話になった親戚の男の子を連れてくる途中、道路端に止められていた車の後ろに後ろから来る車を避けたところ、その車が突っ込んできて、男の子を庇った彼女は車と車に挟まれてしまったというのです。
慌てて病院に駆けつけましたが、幸いにも命は助かり、口も効ける状態になっていました。うわごとのように「I先生I先生と呼んだのですが知らない先生が来てくださったのです」と小さな声で言うのです。Iという名字の、運動部などで活躍なさっている方が他校におられ、その男性先生が駆けつけられたとのことでした。
そんないざこざがあって、ゆっくり話を聞くこともなく、別れを惜しむこともなく、彼女は実家へ帰ってしまいました。年賀状・暑中見舞いはやり取りして、結婚したことも知らせを受けましたけれど、大阪で暮らす彼女とは疎遠のままになってしまっていたのでした。
謹んでご冥福お祈りいたします。合掌。
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