
神の御言葉が、歴史において、すなわち、過去において、
われわれに語られたゆえに、想起すること、すなわち、
学んだことを繰り返し想起するということは、日々必要な
訓練である。
(「信じつつ祈りつつ」ボンヘッファー短章366日小池創造訳
新教出版社 )
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わたしの夫はクリスチャンになるずっと以前、はじめて新約聖書を読んですぐに次のように思ったそうだ。なぜ福音書と称する、なんだか魔法使いの御兄さんみたいなやつが出てくる文書、それもおんなじようなことが書いてある文書が4つもあるんだろう?クリスチャンって、なんてアタマのワルイ奴らだろう?こんなものを4通りも読みこまないと理解ができないのだ。
しかし現在彼は聖書とそれに関係した書物をパンを食べるごとくにパクパクと読んでいる。いや「わたしはいのちのパン」と福音書の中で語った御方、主イエス・キリストよりの御言葉を上記引用のボンヘッファーのことばのように繰り返し繰り返し読み、主よりのみ言葉を聴き、妻と娘と一緒にその主イエス・キリストに少しでも似た者にしていただこうと悪戦苦闘している。
妻のわたしも、娘も、彼に倣って日々一刻一刻、主のみことばを聴き、ほんの少しでも主に似た者にしていただきたく必死である。だからわたしたちフツーのクリスチャンの家族にとって上記引用のボンヘッファーのことばの通り、これはフツーのクリスチャンにとって必要不可欠の主よりの訓練である。そして訓練即実践である。主に感謝。
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【言の葉(ボンヘッファー):訓練即実践】12・02・04
↓:実践

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