動物の目的、彼らが存在している全ての理由は
まさに我々に仕えることのなのである。
そして動物が我々に仕える主な方法は、我々の胃袋のための
食物なのである。
異常であるとか、常軌を逸しているどころか、この考えは哲学
と宗教の両方から最高の支持をえてきたのである。
特に、西洋キリスト教神学はこの考えを支持してきた。
動物の倫理的扱いについての標準的回答は次のような言葉によって
成立してきた。
「しかし神は我々が使うように動物を与え給うた」と。
(「神は何のために動物を造ったのか」 A・リンゼイ 宇都宮秀和訳 教文館 )
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主の創造の考察である。
「我々が使うように動物を与え給うた」。このことは半分当たっている。
いくらキレイごとを言っても結局は「人間が使うためにやつらは創造
されたんじゃないか。人間のために創造されたんじゃないか」ということは
たいていの人が賛成するだろう。
しかしわたしは幼ない時から生き物つまり生命体(わたしの場合こう表現すると
わたしたち人間も入っている)を大切に扱うように親にしつけられたので上記引用文には
いささか反論がある。
主なる神はアリならアリとしてのしあわせを考え、鳥なら鳥のしあわせを考え、
ライオンならライオンとしてのしあわせを考え、それぞれの生き物を創造なさったのだと
わたしは確信している。
聖書のノアの箱舟の物語を読んだだけでもわかることである。
「人間のために創造された」だけならノアの箱舟のようにひとつの生態系として生命体を
すべて救わなくてもよかったのである。
人間だけ救えばよかったのである。
しかし、すべての生き物のしあわせを考えている主なる神はちがう。
すべての人間も含めたすべての生命体にしあわせになってほしい、救われてほしいと思って
いらっしゃるのである。
「天の父のゆるしがなければそのうちの一羽も地に落ちることはない」と主イエス・キリストが
おっしゃっているではないか。
とにかくわたし少女ジーザスはすべての生命体はそれぞれのしあわせに生かされる「愛」のために
創造されたという考え方をもっている。
みんないのちを大切にしよう。
創造主の愛のために創造されたのだから。
主に栄光がありますように。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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